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第34話 田村

 暗闇に浮かび上がる窓のような銀幕に、岩肌に刻まれた巨大な顔が映し出された。

 あれはリンカーン。あれはワシントン。

 山の名前はなんと言ったか。

 元の世界の単語が出てこないと不安になる。

 ど忘れか、変異か、わからなくなるからだ。

 そう、ラシュモア山。まだ、大丈夫だ。


 偉人たちの鼻先を逃げ惑う男女。


 それを見て、ひとつ離れた席に座っていたコボルトがポップコーンを吹き出した。

 山盛りのポップコーンをこぼすまいとカップを持ち上げながら、腹を捩らせて爆笑している。

 そうかと思えば、二列前の席に陣取ったオークのカップルは真剣な様子でスクリーンに見入っていた。


 欠伸を噛み殺す。

 映画の内容はおそらくサスペンス。だが、退屈だ。

 なにしろ、自分が生まれるよりもはるか以前に封切りされた映画だ。

 マニアでもなければ、そういうものだろう。それにしても2時間は長い。


 男女を乗せた列車がトンネルに突入したところで、ようやく「THE END」の文字が浮かんだ。

 エンドロールが流れる。

 それも終わると、様式美のようなビープ音が鳴り、室内灯がついた。


 オークのカップルが立ち上がり、映画の感想を語り合いながら出口へと向かっていく。

 真剣な様子で激論を交わしているようだが、早口過ぎてイヤーバッズが追いつかない。


 他の観客も三々五々、席を立ち、はけていく。

 場内に残ったのは、眠りこけているゴブリンが一人と、最前列の端の席にシミのようにわだかまる影だけだった。


 その影に近づいて、声をかける。


「田村さん、ですね。こちらの映画館のオーナーの」


 影はこちらを振り向いた。

 近くで見るとどうということのない、身綺麗にした小柄な、初老の男だった。

 ただ、輪郭が薄い。

 座席の赤い布地が、体の向こうにうっすら透けて見える。


 ステージ3。不可逆期。

 完全変異者。


「少し話をうかがっても?」


 老人はなぜか、指先で一度目元をぬぐってから答えた。


「どちら様?」


 怪訝そうな、どこか身構えるような声だった。


 名刺を差し出すと、咄嗟に両手を動かして、それを受け取る。

 体に染み付いた動きだった。

 だが受け取った後で、老人は、受け取った名刺を持ち上げて眺めたり、下ろしかけたり、奇妙な動きを見せた。

 その紙片をどう扱って良いかわからない、そんな様子に見えた。


「はあ。ヤシマの」


 ようやくそれだけを呟く。

 名刺の肩書きは安心ではなく困惑を与えたようだった。

 老人は落ち着かなげに辺りを見回す。


「あの、申し訳ないんですが、今、人と会う約束が……」


 そのとき、背後から声がかかった。


「おや? 加藤さん。こんなところでお会いするとは」


 ねっとりとした声。


 振り向くと、鰐淵が立っていた。

 酸性雨除けの中折れ帽を軽く持ち上げると、芝居めいた仕草で会釈をしてみせる。

 黒のスーツ。黒のネクタイ。白すぎるシャツ。体温を感じさせない笑み。

 古典名画の登場人物が、銀幕から抜け出してきたようにも見えた。


「鰐淵さん!」


 先に反応したのは田村のほうだった。

 その名前を、こんなに嬉しそうに呼ぶ人間がいたことに少し当惑する。

 鰐淵は田村に向かって、慇懃に頭を下げた。


「田村さん。遅くなってしまって申し訳ありませんでした。こちらが今回の分です」


 鰐淵は片手に下げていた小箱を差し出した。

 オレンジ色の半透明の箱。遮光ボックスのようにも見える。

 中身はさらに新聞紙に包まれていて、よくわからなかった。


 田村はそれを両手で受け取った。

 指先が、わずかに震えている。


「……今、使っても?」


「どうぞどうぞ」


 田村は何度も頭を下げ、小箱を抱えて場内奥の扉へ消えた。

 その背中は、壁に落ちた古い染みが移動しているように見えた。


 今のは、見て良いやりとりだったのだろうか。

 目を細めて見つめていると、鰐淵がこちらを向いた。


「また、あらぬ誤解を受けていそうなので言っておきますけどね、加藤さん」


 不本意だ、というような大げさな身振りをする。


「あれは怪しい薬などではありませんよ」


「そうか」


「食餌です」


「食餌?」


 鰐淵は手近なシートに座ると、ジェスチャーで俺に席を勧めた。

 促されるまま、隣のシートに腰を下ろす。


「田村さんが変異したのは、シャドウシフターといいましてね。

 本来は北山脈の地下に棲む珍しい種族だそうです。

 陽光の下では生きられない。普通の食物も受けつけない。特殊な粘菌しか摂れない。……帝都で暮らすには、いささか制約が多い」


「それで食料を回しているのか」


「幸い、伝手がありまして。日本人同士、助け合わなくては」


 鰐淵は微笑を浮かべ、それから小さく首を傾げた。


「加藤さんは、どんなご用で?」


 秘匿するほどの要件でもない。

 俺は手短に経緯を説明した。


 数年前、ヤシマの担当者が、福利厚生用にと、古典名画の上映素材と再生機材を持ち込んだ。

 ところが先日の資材棚卸で、その一式が行方不明になっていることがわかった。

 さらに、レベル2で同じ映画を見かけたという社員が現れたため、機材の流出疑惑が持ち上がった。


 いまさら古い映画の再生機材が見つかったところで何だという話だ。

 だが、IP関係で揉めるのは避けたい、という統括長の一言で、まずは現物確認を、という流れになったらしい。

 現物確認。所掌の曖昧なレベル2内の雑用。

 当たり前のように駐在員事務所へ降ってきた、というわけだ。


 まずは上映の事実確認。可能であれば、再生機材のシリアルナンバーの照合。

 限りなく紛争化しそうにないリスクを、念のために潰す。

 それだけのための、ブルシット業務だ。


「なるほど。要は機材を確認できればよいわけですね」


 鰐淵は頷いた。


「こちらの要件が済みましたら、私の方からお話してみましょう」


 ほどなく、田村が戻ってきた。

 いくらか輪郭が濃くなったように見える。

 ただ、口元に影のようなものがこびりついていた。


「田村さん」


 鰐淵が自分の口元を指さす。

 田村ははっとしたようにハンカチを取り出し、慌てて口元を拭った。


「お恥ずかしいところを」


「いえいえ。前回から少し間が空いてしまいました。申し訳ない」


「そんな、とんでもない。運んでいただけるだけでありがたいです……それで、お代なんですが」


 田村が懐から小さな布袋を取り出した。

 ふくらみからみて、中身は硬貨だろう。


「残りは近いうちに必ず」


「わかりました。田村さんはきちんとされていますからね。お待ちしますよ」


 鰐淵は銀貨袋を受け取り、仕舞いながら続けた。


「代わりと言ってはなんですが、また少しお話を伺ってもいいですか」


「ええ、ええ。もちろんです」


 田村は、そのまま鰐淵を挟んで反対側の観客席に腰を下ろした。


 立ち入った話が始まりそうな気配だった。

 俺は一度席を外そうと腰を浮かせる。

 だが、鰐淵に手で制された。

 なぜ、とも思ったが、タイミングを逃し、そのまま席に座り直す。


「今日の上映は、ヒッチコックでしたか。相変わらず渋い。こちらの皆さんに伝わるかどうか」


 鰐淵は、奥の席で眠りこけているゴブリンにちらりと目を向けて言った。


 だが、田村は視線を床に落としたまま、黙りこくる。

 膝の上で、両手を擦り合わせる。気まずい間があった。


「実はね、鰐淵さん」


 田村が静かに口を開いた。


「私も、彼らのことを笑えないんだよ」


 自虐の響きのある言葉だった。


 鰐淵は神妙に頷くと、体ごと田村の方へ向き直り、じっと耳を傾ける姿勢をとった。

 まるで告解を受ける神父のような、丁寧な所作だった。


「映画の良さをわかってもらいたい。そう思って名作を吟味して持ってきたはずなんだ。古い映画には、古い映画の良さがある。構図とか、台詞回しとか、編集とか」


 田村はそこで一度、スクリーンを見上げた。

 もう何も映っていない。白い布だけが、室内灯に鈍く光っている。


「でも、今はその半分も良さがわからない。ただ、見ていると、懐かしくて、泣けてくる」


 そこで一瞬、言葉を詰まらせる。

 声をかけたとき、目元を拭っていた理由がわかった。


「わかるかい? ヒッチコックで泣いてしまうんだよ」


 そう言って、困ったように笑った。


 先ほどの映画の内容を思い出す。

 面白いかどうかは人によるだろう。だが、見終わった後に涙を流すようなストーリーではなかった。


 田村を見ると、顔の半分に影が差していた。

 室内灯に照らされているはずなのに、なぜか薄暗く見える。


「最近は物忘れもひどくてね。

 いや、忘れるわけじゃない。覚えているんだ。ただ、その意味が曖昧になる時がある」


 田村は自分の右腕を持ち上げた。

 古い腕時計が巻かれている。

 よく手入れされた革ベルト。小さな金色のケース。クラシックな文字盤。

 だが、針は止まっていた。


「腕時計。コレクターだったんだ。今もたくさん持っている。でも、こいつを何のために腕に巻くのか、時々わからなくなる。綺麗だとは思う。大切だったことも覚えている。けれど、つけてみた後で、どうしたらよいか、ふと考え込んでしまうときがある」


 言葉にしづらい嫌な手触りがある言葉だった。

 鰐淵も何も言わない。微妙な沈黙。


 ふと、田村は思いついたように顔を上げた。


「そうだ。時計。鰐淵さん、お代の代わりと言ってはなんですが、いくつか差し上げますよ。売れるかもしれない」


 鰐淵は静かに首を振った。


「大切なものだったんでしょう。それを手放してはいけません」


「しかし」


「では、こうしましょう。今すぐ手放す必要はありません。コレクションの整理先だけ、決めておく」


「整理先?」


「ええ。こちらでは明日何があってもおかしくない。田村さんに万一のことがあったとき、引き取り人が決まっていれば、多少は気持ちも楽になるのでは?」


 田村は少し考え、やがて深く頷いた。


「そう、それはいい。売っていただいても構いません。少しでも恩を返せれば」


「では、後日書面にしておきましょう」


 鰐淵は穏やかに言った。


 生きている間は手放すなと言いながら、死後の行き先だけを押さえる。

 親切なようで、下心があるようにも見える。

 だが、下心というには余りに迂遠だ。

 田村のコレクションとやらがどれほどのものかはわからないが、この日本租界で高い値がつくとも思えなかった。


 結局、鰐淵の意図も、なんのための会話だったのかも、よくわからない。


 その後、鰐淵の申し入れで再生機材を確認することになった。

 映写室と呼ぶには狭い小部屋に、旧式の再生サーバーとプロジェクターが設置されている。

 埃っぽい棚の裏に貼られたシリアルナンバーを写真に撮り、本社から送られてきた控えと照合する。


 別物だった。シリアルナンバーの桁数からして違った。

 上映素材も、別ルートで入手したものだという。

 少なくともヤシマの紛失機材ではない。

 業務は終わった。


 田村は去り際、何度も鰐淵に頭を下げていた。

 俺にも「遠いところを」と、よくわからない礼を言った。


 映画館を出ると、軒下に小さな喫煙所があった。

 灰皿代わりのブリキ缶と、雨避けの庇だけの場所だ。


 どちらから誘うでもなく、自然と二人でそちらへ向かった。


「ずいぶん感謝されているんだな」


 煙草に火をつけながら言った。


「田村さんが現地退職してこの映画館を開くとき、あれこれ世話を焼きました。面白いと思ったので」


 鰐淵は燻る紫煙の先を見つめながら答えた。


「律儀な方です」


「……なぜ田村さんの話を俺に聞かせたんだ?」


「見ておくべきかと思いまして」


「悪趣味じゃないのか」


「大切なことですよ、加藤さん」


 納得のいく回答ではない。

 だが、反論はしなかった。

 今日の鰐淵には、何も言えない気分だった。


「概念を失うというのは、どういう感じなんだろうな」


「さて。こればかりは、なってみないことには」


 他人事のように呟いた鰐淵を見る。

 所属のない男。魔法を操る男。界差を踏み越えることを躊躇しない男。


「お前は変異しないのか」


 鰐淵は煙を吐いた。


「どうでしょうね。鏡を見る習慣がないもので」


「ふざけているのか」


「半分は」


 そこで、遠く、開幕のブザーが鳴った。

 映画館の入り口を見ると、扉が閉まりきっておらず、音が漏れていた。

 次の上映が始まるのだろう。


 視線を鰐淵に戻す。

 鰐淵は、映画館の入り口を見つめたままだった。


「私がこちらへ来た頃には、もう帰るつもりのない人間も多かったのですよ。

 日本に居づらい。ここでも別に居場所があるわけではない。ただ、向こうに戻る理由がない」


 語っているのが自分のことなのか、これまで見てきた帰還不能者のことなのか、わからない。

 相変わらず定位しない男だった。


「そういう人間は、壊れ方もはっきりしないのかもしれませんね」


 そう呟いて、鰐淵は吸い殻を灰皿に落とした。


 振り返ると、扉の隙間からスクリーンの光が漏れていた。

 俺たちが出た後、新しい客は入っていない。

 眠りこけたゴブリンと、影のような老人。意味を受け取る者もいないまま、フィルムが回り始めたようだった。

次話は6月13日(土)21時00分に投稿予定です。

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