第32話 ノイズキャンセラー
雨脚は弱まった。空も、ときおり青さを見せる。
だが、街路の石も漆喰壁も、まだ台風の水気を含んでいる。
風が弱まったぶんだけ熱が溜まり、じわじわと蒸し暑さが増していく。
シャツの背中が張りつく。酸性雨除けのブルゾンからは解放されたが、それでも湿気の中を泳ぐような不快感が付きまとう。
朝に替えたはずの襟元は、昼前にはもう汗で湿っていた。
現地連絡調整室の要件は、要するにヤシマへの備蓄品の供出要請だった。
「域内安定化のためのご協力のお願い、です」
坂崎はそう言って、いつもの官僚的な微笑を浮かべた。
現地支援の名目で、期限の近い飲料水や保存食の任意供出をお願いしたい、とのことだった。
台風明けのタイミングで、各社が一斉に備蓄を入れ替える。
その廃棄寸前の品を管理本部が引き取って、レベル2の倉庫へ積み上げる。
例年のことのようで、本社も否やはない。どうせ更新する備蓄だ。廃棄品で管理本部の関心が買えるなら安いものだ。
日本租界縁辺の倉庫に、軽トラックが次々と段ボールを運び込んでいく。
ペットボトルの水、乾パン、レトルトパウチや缶詰の箱が、汗だくの現地雇い人夫の手でうず高く積み上げられていく。
現地でレトルトの親子丼やサバの味噌煮の需要があるのかはわからない。案外、高値で取引されるのかもしれない。
「台風が去ると、皆さん安心なさるんですよ。屋根が飛ばなかった、浸水がなかった、良かった良かった、と」
納入には坂崎が立ち会っていた。
タブレットで備蓄量の数字を確認していた坂崎が、画面から目を離さずに呟いた。
「違うんですか」
「違います。次は乾季です。むしろ、ここからが本番でして」
「本番?」
「渇水です」
坂崎はそう言い切った。
長い雨季のあとには、うって変わって長い乾季が来る。
人は渇き、作物は枯れる。渇水と干害。
去年の乾季の記憶を引っ張り出してみる。
鬱陶しい雨が止んだはいいが、酷暑で外出できない日が増えた。せいぜいその程度のイメージだ。
レベル1の内側で暮らす限りは。
「現地では、今から飲料水と備蓄食糧のロジを組まないと詰みます」
搬入先の倉庫に積み上がった備蓄品の山、山、山。
もちろんヤシマの分だけではない。おそらく供出品だけでもないだろう。
段ボールの角で区切られたその光景は、援助物資というより簡易な城壁に見えた。
「この量を毎年」
「ええ、この量を毎年」
軽く目眩がした。
各社、ゲートの搬入搬出枠を確保するために血眼になっている。
渇水対策がペットボトルの水というのも、そのただの水を通すためにゲートの枠が占められるというのも、素人目にはかなり馬鹿げた方法に思える。
「井戸を掘ったりとかは?」
「実は井戸はもうあります。だが、深すぎる。人力揚水では、帝都五万を支えるだけの量には到底届きません。ましてや農業用水など論外です」
「帝国はどうしていたんでしょうか」
至って素朴な疑問だ。素朴過ぎたかもしれない。
「降雨魔術ですよ。『偶発的接触』で失われました」
坂崎は倉庫の奥の備蓄品の山を見上げたまま言った。
偶発的接触。
第一波の自衛隊が城壁を砲撃したあれを、行政はそう呼ぶ。
失われたのは技術か人か。両方だろう。ナイリザの話を聞く限り、この世界の魔法は徹底して属人的な技術だ。
文明を支えるインフラが欠損した後の世界を、段ボールの山を積み上げて延命している。
「……そんなわけで、民間の皆さんにも備蓄品供出のご協力をお願いしている次第です」
「本社は前向きにと」
「ありがたいことです」
坂崎はタブレットを閉じた。
「政府としては、現状をむしろ歓迎している部分もあるのです。
人道支援は聞こえがいい。わずかなコストで、わが国のゲート使用に国際的名分が立つ」
一瞬、マッチポンプという言葉が浮かんだ。
だが、それを口に出さない程度の分別はある。
「実際に飢える人間は減る」
「そうです。そこが肝要です。しかし食糧支援が現地で手放しで歓迎されているわけでもない」
坂崎は眉間に皺を寄せつつ、そこで言葉を切り、じっとこちらを見た。
試験のようで気に入らない。だが、この男の機嫌を損ねて得になることなど何もない。
「……麦を押さえている貴族は反発するでしょう。産量が減れば、その分価格に転嫁しなければ帳尻が合わない」
半分は当てずっぽうで答えた。
根拠がまったくないわけでもない。ラズワーンのことだ。
麦の商いで潤っていた家が、日本の食糧支援で値を崩され、金策に走っていた。
俺の答えに満足したのか、坂崎はすっと目を細めて、低く笑った。
「さすが、駐在員は見えてらっしゃる」
そして真顔で続けた。
「値が上がれば人々は飢える。支援で下げれば、今度は貴族が立ち行かない」
聞くだけで気が滅入る話だ。
「八方ふさがりですね」
「行政にとっては、いつものことです」
「貴族が没落するのは……良くないことですか?」
「管理本部としては、旧支配層はできる限り温存したい方針でして。彼らに代わって君臨する正統性も、統治する人手もありませんので。
食糧支援は続ける。その代わり、参与だの顧問だの、もっともらしい役職につけて銀貨を配る。
皇族や領袖への贈答も大事です。権益の配分は彼らにお願いすることになりますから。日本製品はことのほか喜ばれます」
滔々と語る坂崎の顔を見上げた。
この男の話は常に明瞭だ。
食糧が足りない。配る。貴族が細る。別のものを与える。
複雑な行政課題を、妙にシンプルに図式化してみせる。
わかりやすい。
わかりやすすぎる、とも思う。
坂崎はわずかに口角を上げた。
「そうそう。今年は台風の当たり年だったせいか、貴顕の方々にまた妙なモノが受けている」
「妙なモノ」
「お教えしましょうか。まだ多少在庫が残っていたはずです」
有益な情報は聞けたが、どっと疲れる会話だった。坂崎は満足そうだった。
* * *
納入が終わったあと、俺は一人でレベル1に戻った。
備蓄品の引き渡し確認、本社への報告。
ついでに、「妙なモノ」を取り扱っているという他社のオフィスに顔を出してみた。
翻訳用イヤーバッズを製造しているメーカーの代理店でもあり、カスタマーサポートの窓口が設けられている。
正式な商品名がわからなかったので、坂崎参事官から話を聞いて、と前置きしたところ、管理職が出てきて妙に丁重に説明を始めた。
「水道局の方から来ました」に近い誤解があったようにも思うが、訂正はしなかった。
問題の品は、耳栓に似た形状のイヤーバッズだった。見た目は翻訳用とほぼ同じように見える。
商品名は日本語と英語の併記で、箱には「高性能ノイズキャンセリング」と書かれていた。
充電用のケースは白く無味乾燥なベースに、現地風の紋様が控えめに装飾され、ちぐはぐなようで丁寧なデザインだ。高級感がある。
管理本部の依頼で試作したもので、この装飾付きは現品限りだという。
提示された価格は機器というよりは宝飾品寄りの値付けだったが、迷わず購入した。
レベル1の口座には使い道のない円が貯まっている。
領収書は不要だと伝えたら妙な顔をされた。
* * *
そのほかにも雑用があり、事務所に戻った頃にはもう夜だった。
ガレージに人の気配はない。ハシュラは出たり入ったり、気ままな半野良のような状態だ。
スコールが降り出していた。
ちょうど事務所を閉めたナイリザが出てきたので、ハイラックスに乗せた。
台風と比べれば雨も風も常識的な範囲だが、ビニール傘で乗り切るにはまだ厳しい。
車を出す。
エーテル台風以来、微妙に距離があった。
ハシュラがガレージに住み着いたこともあり、二人きりになるのは久しぶりだった。
車内にはエアコンの冷気が回っていたが、昼の熱気がシートの奥に残っている気がした。
しばらく無言だった。
ナイリザは助手席で耳の付け根を押さえていた。まだ台風の余韻が残っているのか、体調も本調子ではないように見える。
「ねえ、カトウ」
ナイリザが口を開いた。
「何だ」
「台風の夜のこと」
そこで言葉が切れた。
動き出したワイパーを見ながら、続きを待つ。
「見たでしょ。あれも私よ」
ナイリザは顔をこちらに向けず、助手席のサイドガラスを眺めながら呟いた。
「……そうだろうな」
見られた以上、なかったことにはできない。
見た側が気にしない、で済む話でもないのだろう。
「聞かないの?」
「聞かない」
「そう」
聞いたところで、ナイリザが元宮廷魔術師で三席だった過去が変わるわけじゃない。
俺が日本人でなくなるわけでもない。
しばらく無言で走った。
路上にはまだ水たまりが残り、街灯の光を鈍く弾いている。湿った熱が車外に溜まり、窓の向こうの空気だけがひどく重そうだった。
小さな逡巡のあと、内ポケットから小さなケースを取り出した。
レベル1で仕入れたものだ。
「これをつけてみろ」
「何よ、これ」
ナイリザが装飾されたケースを開ける。
中には一組のイヤーバッズが収まっていた。
「ノイズキャンセラーだ」
「……は?」
「つけてみろ」
半信半疑といった顔で、ナイリザは片方を耳に差し込んだ。
それからもう片方も嵌める。
表情が変わった。
「嘘」
「台風のノイズにも効くらしい」
「嘘みたい。全然、聞こえない」
「そいつはよかった」
ナイリザはシートに身を預けた。
半笑いだったが、笑っているというより、急に力の抜き方がわからなくなった顔に見えた。
「合の季、魔術師たちがどれだけ苦しんできたか。……それを、こんなちっぽけな日本製品で消せちゃうのね」
イヤーバッズに触れた指先が、そっと耳の縁をなぞる。
「ふふふ。笑えるわ。本当にあなたたち日本人って」
「そうか」
「これ、きっと売れるわよ。ヤシマで扱うの?」
ナイリザがイヤーバッズに指をかけた。
「外すな」
「え?」
「プレゼントだ」
「何?」
ナイリザが眉を寄せた。
どうやらノイズキャンセラーでこっちの声まで拾いにくくなったらしい。
「……福利厚生だ。私物化してかまわない」
「え? ……あ」
ナイリザの耳の先が、少しずつ赤くなる。
「ありがとう」
小さな声だった。
ナイリザはイヤーバッズを嵌め直すと、その感触を確かめるようにシートに深く沈み込んだ。
さっきまで眉間に寄っていた皺が、少しずつほどけていく。
尖った耳の付け根に触れていた指が力を失って膝に落ちた。肩が一度、浅く上下する。息を吐いたのだとわかった。
「……静かね」
声が低かった。
いつもの皮肉を乗せるための声ではない。喉の奥から、ほとんど素のまま漏れた声だった。
「そうか」
「ええ。腹が立つくらい」
ナイリザは小さく笑った。
台風の夜以来、久しぶりに、固くない表情を見た気がした。
ナイリザのアパートに向かう路地の前に差し掛かる。
ナイリザは目を閉じてシートに沈み込み、久々の静寂を味わっているようだった。
ゆっくりと停車させてから、聞いた。
「今日、うちに来るか?」
ナイリザが目を開けた。
「……まさか、誘ってるの?」
「良ければだ」
「……ぷっ」
ナイリザが吹き出した。
「あー、おかしい。あれを見た後でもその気になるのね。その鈍さ。さすがアンカーだわ。あーあ、深刻ぶって損した」
返答に窮して無精髭を撫でる。
ナイリザと目が合った。
緑色の瞳がこちらを覗き込んでいた。
「アルコールはあるんでしょうね?」
「缶ビールなら」
「今日はそれで妥協してあげるわ」
口元が緩んだ。
バックミラー越しに映ったナイリザの口元も、たしかに笑っていた。
俺はゆっくりとアクセルを踏んだ。
ナイリザを乗せたまま、自宅のアパートへ向けて車を走らせる。
雨は減った。
だが、街はまだ台風の水気を吐ききれていない。
窓の外には、湿った熱を抱えた日本租界の夜が、鈍い光を返しながら続いていた。
次話は6月6日(土)21時00分に投稿予定です。




