第31話 ガレージ
エーテル台風の翌朝、街はもう動き出していた。
倒れた看板を起こす者がいる。店先に入り込んだ泥を掻き出す者がいる。屋根に被せていた青い布を剥がし、畳み、まだ使えるかどうかを日に透かして確かめる者がいる。
路地では子供たちが、どこから飛んできたのか分からない日本製の発泡スチロール片や、割れたプラスチックのケースを拾い集めていた。売れるものと、燃やすものと、分からないがとりあえず持って帰るものに分けていた。
大きな災害があった。被害も小さくはない。
それでも街は、泣き崩れるより先に、拾えるものを拾いにかかっていた。
ナイリザのアパートから、駐在員事務所に向かう。
昨夜のことを蒸し返す気にはならなかった。
蒸し返したところで、何か片付く類の話でもない。
事務所前の通りに入ったところで、足が止まる。
建物脇のガレージのシャッターが、閉まりきっていない。
下が十センチほど浮いていた。
完全に閉めたはずだった。昨日、ナイリザのアパートに向かう前に。
以前から、シャッターの鍵は壊れていた。
受け金具が歪んで、錠がうまく噛まない。
直そう直そうと思って、部品だけ買って工具箱に放り込んだまま、数ヶ月が経っていた。
侵入しようとすれば誰でも侵入できてしまう状態。
日本租界の中とはいえ、不用心だったかもしれない。現地の人間から見れば宝の山だ。
鞄を持ち直し、シャッターに手をかけた。軋みながら少し上げる。
すでに通りに人がいる時間帯だ。
侵入盗があったとして、まだ犯人が中にいるということはないだろう。
腰をかがめて薄暗い中の様子をうかがう。
油の染みた床。古いタイヤ。工具箱。空き箱。ハイラックスの予備部品。
ぱっと見て物が減った様子はない。
むしろ、見覚えのないものが増えていた。
ブルーシートと段ボールで組まれた、小さな陣地。
その中で、ハーフダークエルフの少女が寝ていた。
カーキのパーカーを丸めて枕にしている。
毛布代わりに破れたブルーシートを被り、口を半開きにして、規則的な寝息を立てていた。
「おい」
ブルーシートに近づき、声をかけたが、反応がない。
「ハシュラ」
もう少し声を張った。
ブルーシートの下で何かが蠢き、ぼさぼさの黒髪が起き上がった。
半分寝ぼけた目でこちらを見上げる。
「……おっさん」
ハシュラは俺の顔を見て、少し考えてから、もう一度目を閉じようとした。
「おい、ここで何をしている」
「……見りゃわかるだろ。寝てた」
「そういう意味じゃない」
ハシュラは渋々といった様子で青い布を払って起き上がる。
瞬きを二、三回。耳がぴくりと動いた。
「屋根が飛んだ」
「どこの」
「あたしのとこ」
一度だけ訪ねたハシュラのねぐらを思い出す。
普通の家でも屋根が飛ぶ台風だった。あんなバラックで保つはずがない。
「壁も半分。まあ、前から壁ってほどでもなかったけど」
そう言って軽く笑った。
深刻に言わない。そういう癖なのか、深刻に言ったところで何も変わらないと知っているのかは分からない。
寝床の脇に、ビニール袋があった。口が几帳面に結んである。
半透明のビニールの下に、ナイキのロゴが見えた。以前報酬で渡した予備のエアマックスだろう。
ほかに目ぼしい持ち物は見当たらない。
暴風雨の中、それだけは濡らすまいと抱えて走ったのかもしれない。
しばらく、なんとも言えずそのビニール袋を見ていた。
「事務所じゃないし」
ハシュラが言った。
「ガレージの端だし。車の下には潜ってないし。工具も触ってない」
「当たり前だ」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
「細かいな」
「細かい問題じゃない」
会社の敷地だ。車も工具も備品もある。
火を使われたら困る。盗まれても困る。怪我をされても困る。
そもそも子供を寝泊まりさせる場所ではない。
追い出す理由はいくらでもある。
追い出した後を考えなければ。
「今回は目を瞑る。だが、ここは会社のものだ。早く別のねぐらを探せ」
台風明け。やるべきことの優先順位はこれじゃない。一旦棚上げにすることにした。
埃を払って立ち上がろうとすると、ハシュラの目つきが変わった。
「馬鹿にすんなよ」
「何をだ」
「ちゃんと宿代は払うって」
そしてガレージをぐるりと見まわす。
「雨風しのげて素泊まりなら銅貨二十枚ってとこだろ」
ふっかけてはいない。雑魚寝より高く、小部屋よりは安い。確かに相場ではある。
「お前、金持ってるのか」
「その分働くって」
「話にならん」
「なんでだよ」
「話にならんからだ」
「だから、なんで」
答えなかった。
住まわせる代わりに働かせる。
それを一度でも認めると、寝床と労働が同じ欄に入る。ずるずると。それは、駄目だ。
庇護するほど面の皮が厚くもないし、搾取するほど悪辣ではない、はずだ。
そもそも地権者は俺ではない。
ガレージの外で、砂利を踏む音がした。
振り向くと、ナイリザが立っていた。
ブラウスに、濃紺のスカート。ブラウスの袖は畳んで捲り上げていた。
髪は結い直してある。眼鏡もかけている。
だが、顔色はまだ少し薄く見える。
「今日は休んでいいと言っただろ」
「体調はもう大丈夫だから」
ナイリザはそれだけ言って、ガレージの中を見た。
ブルーシート。段ボール。丸めたカーキのパーカー。ビニール袋に包まれた予備のエアマックスの箱。ハシュラ。
それで全部察したようだった。
「……鍵、壊れてたものね」
「ああ」
「追い出さないの?」
少しの間、言葉に詰まる。
「……今日だけだ」
言い訳のように口にしたところで、身構える。
「甘いわね。飼う気?」とでも言われるかと思った。
だが予想に反して、ナイリザの反応は言葉少なだった。
「そう」
それだけだ。
毒舌はなく、小さく頷くと、ちらりとハシュラを見た。
ハシュラもナイリザを見返した。
挨拶はない。敵意もない。お互いが何者かをまだ決めていない目だった。
以前、ザファルの倉庫に行ったときに接触したはずだが、それだけの薄い接点のはずだ。
ナイリザは何も言わず、事務所の方へ歩いていった。
ハシュラが俺の袖を引いた。
「なんだ」
「メガネの人となんかあったの?」
「何もない」
「怒らせた?」
「怒らせてない」
「じゃあ、泣かせた?」
「黙れ」
ハシュラは口を尖らせたが、それ以上は突っ込まなかった。
「宿代はいらない。早く次を探せ。事務所には入るなよ」
なおも何かを言おうとするハシュラを置いて、ガレージを出て、事務所に向かった。
* * *
二階の事務室に入ると、ナイリザはもう帳簿を開いていた。
俺も自分の席につく。
デスクの上には、昨日のままのファクシミリ用紙が残っている。エーテル台風の通達。今さら読み返しても意味はない。丸めてゴミ箱に放り投げた。
「あのサヒリグムに、火は使わせないで」
帳簿から目を上げずに、ナイリザが言った。
「わかってる」
「備品には触らせないで」
「わかってる」
「工具箱は危ないわ。刃物も薬品も入ってる」
「わかってる」
「事務所には入れないで」
「わかってる」
責める調子ではなかった。ただ、注意事項を並べただけだ。
それが余計に悪い。しばらく置くことが前提の会話になっている。
俺がそれを訂正しないことも、たぶん見透かされている。
俺は頭を掻いた。
「……今日だけだ」
「そう」
「本当に今日だけだ」
「そうね」
ナイリザは特に否定はしなかった。そこではじめて顔を上げて、こちらを見る。
「まだ腫れてるわね」
視線が俺の口元に向いていた。
思わず口元に手をやると、指先が昨夜の傷口に触れて痛みが走った。
「……見せて」
ナイリザは自分のデスクの引き出しから薬箱のようなものを取り出した。
「大したことはない」
そう言ったが、聞き流された。
薬箱を持って俺の席まで来ると、ナイリザは、中を開けて個包装の清浄綿をひとつ破った。
「昨日、洗った」
「もう乾いてる」
反論する前に、冷たい綿が口の端に触れた。傷口をこするのではなく、乾いた血の縁を丁寧に拭っていく。そして傷口を保護するように、薄くワセリンを塗られた。
シャンプーの匂いが鼻をくすぐる。
距離は近いが、ナイリザは目を合わせなかった。
処置をしている間も無言だった。
ただ、終わった時、目を伏せたまま、小さく「馬鹿ね」と呟いた。
何に向けた言葉かはわからない。毒はこもっていなかった。
俺が何かを言う前に、ナイリザは綿を紙に包み、すっと身を引いた。
そして、自分のデスクに戻りながら、何事もないように口を開いた。
「台風で止まってた分の伝票、ギンネから回収してもらえる? 今日中に整理して本社にファックスしないと」
「……ああ。そうだったな」
ギンネの店は、ここから歩いても行ける。台風後の道を見て回るにも、ちょうどよかった。ついでに食料と乾電池の値も見ておける。
そう考えたところで、携帯が鳴った。
画面を見る。
管理本部出張所・現地連絡調整室。
「ちょっと待て」
電話に出た。
「はい。加藤です。……はい。……はい、分かりました。すぐ伺います」
切ったところで、ナイリザが顔を上げた。
「誰?」
「現地連絡調整室だ。坂崎が呼んでる」
ナイリザは肩を竦めた。
「ギンネの伝票はどうするのよ」
答えられなかった。
坂崎案件を後回しにはできない。だが、ギンネの伝票も今日中に必要だった。本社へのファックスが遅れれば、また電話が来る。電話が来ると、ナイリザの機嫌が悪くなる。
そこで、事務室の入口から声がした。
「ギンネじいさんのとこなら、あたしが行ってもいいけど?」
ハシュラが扉のところに立っていた。
いつの間にそこにいたのか分からない。足もとにエアマックスを履いていた。
普段使いしている方だろうが、意外に汚れていない。
泥のついたままの足首の下で、その白さだけがやけに目だった。
「事務所には入るなと言ったぞ」
「入ってない。扉のところ」
屁理屈だった。そもそも母屋に立ち入るなという話だ。
「お前が?」
「ギンネじいさんの店くらい知ってるし。おっさんに案内したのあたしだし」
「伝票だぞ」
「紙でしょ。濡らさなきゃいいんでしょ」
「開けるな」
「開けねーよ」
ナイリザが口を開いた。
「使い番くらいならギンネも目くじら立てないでしょうね」
承認ではない。ただの事実の確認だ。
これまでも手紙の配達くらいはその辺をうろつく御用聞きにやらせていた。特に信用が要るわけではない。隣の店に配達されたこともある。郵便制度のない世界では、そういうものだ。
ハシュラはナイリザの言葉を承認として受け取る顔をして、こちらを見た。
「伝令、当日。銅貨二十枚」
「高い」
「相場」
「ただの伝票回収だ」
「じゃあ、使い番。銅貨二十枚」
「同じじゃないか」
「同じだし」
ハシュラがにやりとして勝ち誇ったように言った。
「今日の宿賃と相殺でいいよ」
俺は無言で引き出しを開けた。
銅貨を二十枚、きっちり数える。
ハシュラの手を掴み、その掌に押し付けた。
「これは使い番の分だ」
掌の中の銅貨を見下ろしたハシュラが不思議そうに呟く。
「宿代は?」
「今日も居座るなら明日の朝に払え」
「同じ額じゃん」
「帳簿が違う」
ハシュラは一瞬、考えたような顔をしてから、ぷっと吹き出した。
「おっさん、めんどくさ」
「いいから行け」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
「ギンネから封筒を受け取れ。曲げるな。開けるな。途中で誰かに預けるな」
「はい」
「それと、ギンネに言え。今日の午後、俺が顔を出す。缶詰と乾電池の値を見ておけ、と」
「それも銅貨二十枚に入ってんの?」
「入ってる」
「けち」
「嫌ならいい」
「行くし」
ハシュラは銅貨をパーカーの内側にしまった。
背を向けて走り出す直前、ナイリザが言った。
「駆け込まないで。伝票が濡れるから」
「わかってるって」
白い靴が、事務所の床で軽い音を立てた。
ハシュラはニカっと笑い、手を振ると、階段を駆け下りていった。
* * *
ハイラックスを出すために、ガレージに戻った。
ブルーシートの陣地はそのまま残っている。
カーキのパーカーはない。予備のエアマックスの箱は、ビニール袋に包まれたまま、古いタイヤの陰に置かれていた。
出かけている間、置き場所として信用されているらしい。
工具箱に目をやる。
シャッターの錠前は前から壊れている。受け金具とビスは、あの箱の二段目に入っている。今なら直せる。三十分もあれば終わる作業だ。
直せば、ハシュラは戻れない。
坂崎を待たせている。伝票の件もある。ナイリザが本社にファックスを送る準備をしている。街はまだ台風の後始末の最中だ。
工具箱には手を出さず、ハイラックスのドアを開け、エンジンをかけた。
次話は6月2日(火)21時00分に投稿予定です。




