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第30話 エーテル台風

 メールの送信ボタンをクリックしたところで、プログレスバーが中途半端なところで止まった。

 しばらく待ったが動かない。

 あちこちクリックしてみるが、メールソフト自体が固まっていた。


 溜め息が出る。今朝から2回目だ。

 仕事にならない、というほどではないが、やる気は削がれる。


 デスクチェアに身を預け、今朝届いていたファクシミリを手に取る。本社からだ。


 途中で何らかの通信障害があったのか、途中の一行が上下に裂け、そこから1ページ近く、文字を引き延ばしたようなノイズが入っている。

 だが他の行は問題なく読める。上下に切られた行もなんとなく意味は察せる。

 こういうときには、やはりローテクの方が強い。


「エーテル台風12号の接近」


「不要不急の外出を控え、通信機器の動作確認を行うこと」


「管理責任者の判断で事務所を一時閉鎖し、自宅待機」


 会社として安全に配慮し、適切な指示を出したというエクスキューズのような文面だ。

 一時閉鎖の話を当日10時過ぎて送ってくる時点で、危機意識は感じられない。

 レベル1には影響の薄い台風程度。

 正社員1名契約社員1名の事務所のことを思い出しただけでも褒めて欲しい、というところか。


 ナイリザは欠勤だ。連絡はない。


 デスクには昨日の帳簿が開いたまま残っている。ワンカップの空き缶が三本。いつもより多い。

 昨日はナズィムへの納品やらで帰所が遅れ、ナイリザと顔を合わせていない。

 頼まれて買い出したストロングゼロも渡せなかった。


 合の当日は欠勤するかも、と言っていた。

 合――第二太陽が第一太陽の影に完全に隠れる日。

 厳密には明日のはずだが、台風が早まって、不調も前倒しになったのかもしれない。


 そうかもしれないが、気にはなる。


 着任からこれまで、ナイリザが遅刻したり欠勤したところは見たことがない。

 酒臭く千鳥足でも定時には出勤しているタイプなのだ。


 インボイスの処理で確認したいところがあった。

 有休申請も出させていない。


 シートに身を預けたまま、マウスを動かしてPCをシャットダウンした。

 モニターの光が消えるのを待って立ち上がる。


 欠勤関係の書類は鞄に入っている。

 渡しはぐったストロングゼロのビニール袋も持った。


 頭痛薬くらいなら、事務所に常備しているものがある。

 あとは、買い置きの栄養補給ゼリーもあったはずだ。

 必要そうなものをかき集めて、鞄とビニール袋に詰め込む。


 事務所を閉めて、ナイリザの様子を見に行くことにした。


 * * *


 外に出ると、街が静まり返っていた。


 いつもの人ごみがない。露天も畳まれ、荷車もない。

 窓という窓に板が打ちつけられ、通りには猫一匹見えない。

 じっと息を潜めている。街全体が。


 雨が降っていた。

 だが、いつもの酸性雨とは違う。水滴が肌に当たると、微かに虹色の光を帯びて弾ける。

 魔素の濃度が上がっている。イヤーバッズが断続的にノイズを発している。Bluetoothの接続が不安定だ。


 風も強い。唸りを上げるほどではないが、傘で立ち向かうのは無謀だ。

 ロッカーからビニール合羽を引っ張り出したが、肌にべったりと張り付く感じがひたすら不快だった。


 ナイリザのアパートはバザールを抜けた先にある。

 歩いて十分ほどの距離だ。


 だが、半分も歩いたところで後悔する羽目になった。

 角を曲がったところで、ごう、と突風に吹かれたかと思ったら、バケツをひっくり返したような土砂降りが始まったからだ。

 方向を見失うくらい、前後左右から風が雨を叩きつけてくる。

 ほうほうの体で路地に逃げ込んだときにはもはや合羽は何の意味もなくなっていた。


 足早に路地を抜け、ナイリザのアパートの庇に逃げ込む。

 アパートは特に変わりはなかった。

 まがりなりにも、ヤシマが従業員の寮として借りるような物件だ。

 現地建物の中ではしっかりとした作りだし、日本企業によるリフォームもされている。


 階段を上り、ナイリザの部屋のドアをノックした。


 返事がないので、もう少し力を込めてドアを叩き、呼びかける。

 暴風雨で耳が遠いので、ドアに張り付くようにして返事を待った。

 しかし、しばらく待っても何の反応もない。


 ポケットから合鍵を取り出した。

 以前、帳簿を取りに来たときに預かったものだ。


 どうしたものかと迷った矢先、部屋の奥からけたたましい破壊音が聞こえてきた。


「ナイリザ!?」


 鍵を回し、ドアを開けた。

 そのままワンルームに踏み込んだ。


 * * *


 最初に目に入ったのは、浮遊する家具だった。


 本棚の中身が宙に散らばり、グラスが壁の近くをゆっくりと旋回している。

 屋内なのに陽炎のように空気が歪んでいた。


 立ち尽くしたところで、まるで自分の後を追うように、誰かが慌ただしく駆け込む足音が響いた。

 侵入者かと身構えるが、何も起こらない。

 ふと、旋回するグラスが壁に叩きつけられ、無音のまま砕け散った。

 そして半拍遅れて、破砕音が鳴り響く。


 音がズレている。

 先ほどの足音が自分のものだと気づき、更に冷や汗が流れた。

 時間も空間も歪んでいる。


 部屋の中央に、ナイリザがいた。


 眼鏡をかけていない。髪はまとめておらず、金色の長い髪が背中に散っている。

 どこで手に入れたものか、日本の量販店で吊るし売りされているような緑色のジャージを着ていた。

 その姿だけなら休日の寝起きだ。

 だが、目が違った。

 深い緑色のはずの瞳が、赤く爛々と発光していた。


 ナイリザは部屋の奥でうずくまり、両腕で自分の体を抱えるようにしていた。

 その周囲を、引き出しや食器や本が、意志を持ったように飛び交っている。


「ナイリザ」


 おそるおそる声をかける。


「カ……トウ?」


 掠れた声が返ってきた。一瞬だけ、赤く光る瞳の奥にいつものナイリザが戻ったように見えた。


「おい、大丈夫か」


 ビジネスバッグを盾のように掲げ、ナイリザににじり寄る。

 割れたグラスの破片が舞っているのは、見なかったことにした。


「おい」


「……来な……い、で」


 あと半歩というところで、ナイリザが絞り出すような制止の声を上げた。

 自分で自分の喉を掴み、怯えるような眼でこちらを見ている。

 その様子に足が止まる。

 

 その瞬間、ナイリザの頭ががくりと下がった。

 同時に、浮遊物の動きがぴたりと止まる。

 代わりに、部屋の温度が下がった。

 気のせいではない。自分の吐く息が白い。

 ジャンボドリルの坑道で感じた、あの石から色が抜けるような冷たさが、部屋全体を満たしていく。


 顔を伏せたナイリザが何かを呟いた。


「頭……が」


「なに?」


 よく聞き取れない。


「頭が……高い」


「何だって?」


 最後の半歩を踏み出す。


 しかし、抱え起こそうと伸ばした手が、強い力で跳ねのけられた。

 ナイリザが顔を上げる。

 赤く、さっきよりも強く発光する瞳でこちらを睨みつけ、叫んだ。


「頭が高い! 平伏せ!」


 普段の声ではない。

 掠れているのに、妙に通る。宮廷の広間に響くような、鋭く固い声だった。

 そしてゆらりと立ち上がる。


「双陽の御前であるぞ」


 屈んだ俺を見下ろす位置から、底冷えするような声が降ってきた。

 怒鳴ったのではない。命じたのだ。


 そこに立っているのは、よく知る経理の契約社員ではなかった。

 思わず二、三歩後退る。

 刺激しないように腰を落として、頭を低くして様子をうかがう。


 ナイリザは俺の正面から少しだけ脇にずれた位置で、斜めに構えてこちらを見ていた。

 誰かと対峙する立ち方ではない。

 主君と対峙する誰かを掣肘するための立ち方だった。

 踏み込んだ者を玉座の手前で止める、そういう動きだ。


 ナイリザの背後にはただのパイプベッドしかない。

 だが今のナイリザには、「双陽」とやらの至尊の玉座が見えているのかもしれない。


「愚かなヤポン」


 歪んだ空間の中で、ナイリザの歯ぎしりが耳元で鳴った。


「帝国に仇なす、下等なサルどもが……!」


 歪んだ唇から、敵意と、侮蔑と、怨嗟が漏れ出した。

 俺に向けられた何かの圧が一段と高まる。


 そして一歩二歩と、俺を威圧したまま、クローゼットの方へとにじり寄る。

 視線はこちらに向けられている。

 だが、左手は探るようにクローゼットに向けられていた。


 その手の先にあったのは、ナイロン地のケース。

 中継局のとき、ドリルジャンボのときに見かけた、背丈ほどもある長い釣り竿バッグだった。

 もちろん中身は釣り竿などではない。


 まずい。


「殺す気か!」


 一瞬恐怖を忘れ、クローゼットに駆け寄る。


 今のナイリザが杖を手にしたらどうなるか、考えたくもない。

 アンカーの魔法耐性とやらで多少は耐えられるのかもしれない。

 ドリルジャンボと同程度なら、スクラップにされる。

 試してみる気にはなれない。


 ナイリザの手が届くより先に、釣り竿バッグを力いっぱい蹴り飛ばした。

 想像よりも重い感触を残し、バッグはキッチンの方へと床を滑る。

 バッグを追おうとするナイリザに後ろから飛びついた。


 手を回し、羽交い絞めにしようとする。

 振り払おうとするナイリザと揉み合いになった。


「離しなさい……! 汚らわしいッ……!」


 圧倒的な力の差で弾き飛ばされた。

 背中から壁に叩きつけられる。

 ビジネスバッグの口が開き、書類が床にまき散らされた。


 跳ね起きると、ナイリザがこちらに対して腰だめに構えていた。

 今にも飛び掛かろうという姿勢。

 弾き飛ばされた場所がキッチンへの入り口だったのは僥倖だ。

 杖は俺の背後にある。


 お互いじりじりとにらみ合う。

 どこか切れていてもおかしくないが、痛みは感じなかった。

 魔素の圧を受けながら、頭だけは冷えていく。


 止めなければならない。


 魔法に対抗する力はない。腕力でも無理だ。

 アンカーは特殊能力者ではないのだ。

 俺たちは中継器として日本のポスチュレートを垂れ流すことしかできない。


 俺はナイリザから視線を外さず、床に散らばった書類から咄嗟に一枚を拾い上げた。

 それをナイリザに突き付ける。

 閃きというよりはヤケクソだった。


「魔術書……!」


 ナイリザが身構える。


「有給休暇申請書だ」


 書式を見せつけるように掲げた。

 ただの紙だ。

 社内LANからダウンロードしたひな形をプリントアウトしただけのただの日本製のコピー用紙だ。


「ナイリザ」


 声を張った。


「就業規則では、病欠は当日朝までに申告が必要だ。このままだと無断欠勤になる。服務規定違反だ」


「服務……キテイ?」


 冷ややかな宮廷魔術師の顔に当惑が浮かんだ。

 理解できないものに戸惑うように、虚を突かれた顔で書式を見つめている。

 圧がわずかに緩んだ気がした。


「有休を申請しろ、ナイリザ」


 噛んで含めるように言い聞かせる。

 ここは謁見の間などではない。

 上長である俺がいて、契約社員であるナイリザがいる。今は勤務時間中だ。


「これに署名するんだ、ナイリザ。昨日申請があったことにしてやる。そうすれば欠勤じゃない」


 馬鹿なことをやっている自覚はある。

 だが、やっていることの理屈は、中継局の巡回業務と一緒だ。


 アンカーが立ち寄って何かしらの業務行為を行う。

 点検表に記入するとか、端末を操作するとか。

 それによって日本のポスチュレートが持ち込まれる。

 機械が動く。魔法が止まる。


 日本にいるように振る舞うことで、異世界を退屈なオフィスに塗り替える。

 それがアンカー効果だ。


「有休だ。賃金が出るぞ」


 赤く発光した瞳が、俺の顔を見た。

 浮遊していたグラスが、ことりと床に落ちた。


「賃金」


「そうだ。有休が溜まっている。消化させるのも上司の義務だ」


「上司……カトウ」


 宙に浮いていた本棚の中身が、ばさばさと落下した。

 回転していた引き出しが、がたんと元の位置に収まった。


 ナイリザが崩れ落ちた。


 膨らんだ風船から空気が抜けるように、耳鳴りを残して圧が下がる、歪みが消える。


 部屋に静寂が戻った。

 外の風鳴り、叩きつける暴雨の音、そういったものが一気に流れ込んでくる。


 無精ひげを撫で上げると、指先にぬらりと血がついた。

 口元が切れていたようだ。

 忘れていた脂汗がどっと吹き出した。

 膝から力が抜け、床にへたり込む。


 散乱した家財の中で、俺とナイリザだけが残された。


 * * *


 ナイリザをベッドに運んだ。

 軽かった。


 毛布をかけ、散乱した部屋を片づけ始めた。

 割れたグラスの破片を拾い、散らばった本を棚に戻し、引き出しの中身を詰め直す。

 釣り竿バッグはクローゼットの一番奥に突っ込み、その上に床に散乱していた衣類を重ね、扉を閉めた。

 気分の問題だ。


 あらかた片づけ終わったところで、床に座り込んだ。

 ベッドに背を預ける。


 身じろぎする気配があった。


「……カトウ」


 背後から、うわごとのような掠れた声が聞こえた。


「ごめんなさい……また、昔の夢を」


「いいさ。台風のせいだ」


 外からは豪雨の音がしていた。

 虹色の雨が窓を叩いている。


 嵐が過ぎるまではここにいる。

 アンカーとして。それが仕事だ。


 スマホを取り出した。メールを確認する。本社からの追加通達はない。

 帳簿のデータを開き、ダラハール家のインボイスの数字を確認する。

 電波は心もとないが、スマホの画面は安定して光っている。

 アンカー効果が出ているのだろう。


 いつしか、うとうとと眠りに落ちていた。


 * * *


 目を覚ますと、外が明るかった。


 体が痛い。床で寝たせいだ。

 首を回すと、ベッドの上のナイリザはまだ眠っている。寝息が聞こえる。穏やかだ。


 カーテンの隙間から窓の外を覗いた。

 雨が上がっている。


 アパートの外に出た。


 台風一過だった。

 空が嘘のように晴れ渡っている。

 目を細めて見上げると、太陽が一つ。

 地面に落ちた自分の影を見る。久しぶりに、ぼやけもせず、二重にもなっていない影があった。

 合の日。第一太陽と第二太陽が、完全に重なり合った瞬間。

 だが台風は去った。ここから少しずつ、二つの太陽がずれていく。


 ふと、足元に、濡れて地面に張りついたカラフルな紙が見えた。

 スーパーのチラシだった。

 卵が十個で198円。

 ゲートを通った荷の梱包材にでも紛れていたのだろう。

 風に煽られたチラシは、泥水の中でぺたりと裏返った。


「……一晩中いたの」


 振り返った。

 アパートの入口に、ナイリザが立っていた。

 髪は寝癖でボサボサ。瞼は腫れぼったい。まだ緑のジャージを着ている。

 だが、瞳は深い緑色に戻っていた。


「ああ。暴風雨で足止めだ」


 ナイリザは俯いて言葉を探しているようだった。


「調子はどうだ」


「……よく眠れたわ」


「そいつはよかった」


 答えたところで、ナイリザの視線が俺の口元を見ていることに気づく。

 血は洗い流したが、腫れが目立ったのかもしれない。


「街がこの様子じゃ仕事にならない。今日も休暇にしておく。出勤は体調が戻ってからでいい」


 無理やり話を畳むと、ナイリザは曖昧に頷いた。


 去りかけた背中に、声がかかった。


「カトウ、昨日の……」


 そこで珍しく言い淀む。

 立ち止まり、振り向かないまま続く言葉を待ったが、出てこなかった。


 ナイリザは言いかけた言葉を飲み込んで、別の言葉を口にした。


「昨日は……ありがと」


 振り向かないまま、手を振った。


 通りに出ると、街はひどい有様だった。屋根が剥がれ、看板が飛び、通りに土砂が堆積している。

 だが、もう活気を取り戻しつつあるようにも見えた。


 飛んできた日本製品の残骸から宝探しを始める子供たち。

 悪態をつきながら泥を掻き出すゴブリンの老婆。

 ブルーシートの釘を引き抜いているオークの若者。


 壊れた屋根の下で、それでもレベル2は今日も平常運行だった。

次話は5月29日(土)21時00分に投稿予定です。

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