【幕間】 青い布
店の表で、釘を打つ音がしていた。
夢幻楼の昼間は、たいてい眠っている。
客が抜けたあとの酒と香水の匂いが低い天井に沈み、女たちは化粧を落とした顔でだらだらと煙草を吸う。
黒服は伝票を締め、裏口では残飯を漁りに来た野良猫が喧嘩をする。そういう時間だ。
だが今日は違った。
黒服が脚立に乗って窓枠へ板を打ちつけ、用心棒が軒先の布看板を外している。表通りでも似たような音があちこちから響いていた。
歓楽街全体が、まだ昼のうちから店じまいの支度を始めている。
ニャーラは裏口の壁にもたれて、その音を聞いていた。
煙草に火をつける。
風がいつもと違う。湿り気の方向が逆だ。鉄を煮たような匂いが混じっている。
空を見上げた。
さっきまでにわか雨が降っていたのに、雲は薄い。
雲越しの太陽は楕円に見えた。第一太陽と第二太陽が近づいている。
今朝は体が重かった。
眠りが浅いのはいつものことだが、今日はそれとも違う。
胸の底に沈んだ澱のような重さが、四肢に張り付いて取れない。
昨夜も夢を見た。中身は覚えていない。目が覚めたとき、枕が濡れていた。それだけだ。
ニャーラは煙を吐き、路地の向こうを眺めた。
二軒先の薬屋では、店主のゴブリンが屋根の布を外して畳んでいる。
あの青い布は先月まで銀貨六枚だったが、今朝ギンネの店で聞いたら八枚と言われた。
仕入れ値が上がっているのか、需要を見越した値付けなのか。どちらにしても、街が身構えている。
煙草を半分まで吸ったところで、路地の角から小柄な影が現れた。
カーキ色のパーカーを目深に被り、新品の白い靴を履いている。
「ニャーラ姐。ギンネのじいさんから。これ」
ハシュラが紙袋を突き出した。中を覗くと、蝋燭が十本ほどと、マッチが二箱。
ニャーラは受け取って裏口の棚に置いた。
「ありがと。助かる。最近ろうそくも品薄でさ」
「だよね。じいさんも仕入れが足りないってボヤいてた」
ハシュラは壁にもたれて、新しいエアマックスの爪先をとんとんと地面に当てた。
白いソールが路地の薄暗さの中で浮いて見える。
ニャーラはそれに目を止めた。
「いい靴じゃん」
ハシュラの顔が緩んだ。隠しきれない得意げな表情。
「でしょ。本物」
「どうしたの、それ」
「カトウのおっさんにもらった」
「ふうん」
ニャーラは煙を細く吐いた。
ハシュラが爪先を見下ろしている。耳の先がパーカーのフードから覗いている。
「二足もくれたんだよ。予備だって。サイズ合わなかったら売れって」
「カトウさんらしいね」
ハシュラは顔を上げ、覗き込むようにニャーラの顔を見た。
「ニャーラ姐。あのおっさんのこと好きなの?」
一瞬の間があった。
ニャーラは煙草を口から離した。
「バカね」
笑った。営業の笑顔ではなかった。
「いいお客さんよ」
ハシュラは「ふうん」と鼻を鳴らした。納得したのかしていないのか分からない顔だ。けれど、それ以上は突っ込んでこなかった。
そこが、この子のいいところでもあり、悪いところでもある。
街の空気を読むのがうまい。読みすぎるくらいに。
ニャーラは視線を靴から外した。
「それより、今は靴より屋根よ」
「青い布のこと?」
「そう。あれが全然ないの」
「みんな屋根にかぶせるもんね」
ハシュラは壁から背を離し、パーカーのフードを引き直した。
「ニャーラ姐」
「ん?」
「おっさんのとこにも蝋燭持ってった方がいいかな」
ニャーラは少し考えた。
「カトウさんはレベル1で買えるから平気よ。あんたこそ、ねぐらの配線大丈夫? 風で飛ばされたら感電するわよ」
「大丈夫だし。補強した」
「嘘くさい」
「してるって」
ニャーラは煙草を揉み消すと、パンパンと手を叩いた。
「さ、あんたも早く帰りな」
「アタシはまだ仕事あるし」
「その靴で泥道走る気?」
ニャーラが言うと、ハシュラは反射的に足元を見た。新品の白さを惜しむ顔をして、それから悔しそうに唇を尖らせた。
「……替えの靴、持ってくりゃよかった」
「ほらね」
ニャーラは笑った。さっきより少し自然に笑えた気がした。
ハシュラはそれを見て、少しだけ顔を緩めた。
「じゃあな、ニャーラ姉」
「うん。暗くなる前にどっか潜り込むのよ」
「わかってるって」
そう言いながら、ハシュラは去り際にもう一度だけ靴を見せるように足を鳴らした。白いエアマックスが、薄曇りの光を受けて一瞬だけ光る。
パーカーの背中がすぐに路地の角に消えた。
店に戻ると、黒服が板打ちの進捗を報告してきた。窓は全部塞いだ、入口は明日の朝に、と。
ニャーラは頷いて、カウンターの裏に回った。
棚の酒瓶を一本ずつ確認し、倒れないように布で巻いて固定していく。
手が止まった。
ジムビームのボトルが一本、棚の端に残っていた。
先週の客が入れて、半分残したまま帰ったやつだ。
ニャーラはそのボトルを手に取り、ラベルの剥がれを指で撫でた。
そっと目を閉じて胸の内を探る。
ハシュラとの他愛のない会話で、少しだけ調子を取り戻せた気がした。
誰かが消えても街は動く。
ニャーラはジムビームを棚の奥へ少しだけ押し込み、代わりに倒れそうな瓶を並べ直した。
* * *
レベル1、異界特区派遣後方支援隊本部。
後方支援隊を預かる如月二佐の執務室は常に清潔で静寂でなければならない。
だが今日は少しだけ毛色の違う客を迎え入れていた。
「合は三日後。ただシナディック周期とは別に、境界面の励起が早い。レベル2はちょっと面白いことになるかもしれません」
真鍋は、嬉しそうにそう言った。
如月は正面の男を見た。
同じ陸自の制服を着ている。
だが、如月のそれが糊の利いた布の面でできているとすれば、真鍋の制服は一日中椅子と車と観測塔に擦られた結果の皺でできていた。
靴には乾いた泥がこびりつき、胸ポケットにはペンやら小型の計器やら、何に使うのか分からない金属片まで差し込まれている。
防衛装備庁本籍。技術試験隊隊長。真鍋二等陸佐。
本人は、自分が何の隊長であるかよりも、今どんな観測値が出ているかのほうにしか興味がないように見えた。
「レベル1への影響は?」
如月が尋ねると、真鍋は指先で胸ポケットの計器を弾いた。
「通信ノイズ、軽微な電圧不安定、搬入物資の劣化率上昇、くらいですかね。居住区は平時許容範囲内です」
それで十分だった。
如月の頭の中で、警戒レベルの表が一段だけめくれる。次の段へ進む必要はない。少なくともレベル1に限れば。
ならば、物資統制を引き締めるほどではない。備蓄の前倒し放出も、警備隊への増援要請も不要だ。平時の枠内で回る。
「それでですね、観測機材を増やしたいのですよ。こんな機会はまたとない」
予想どおりの言葉が続いた。
「申請書式を整えてからお願いします」
如月は微笑を貼り付けたまま言った。
「それからレベル1の定点機材を動かすなら警備隊長の承認も」
真鍋は、子どものようにあからさまに肩を落とした。
「八神さんかあ。それは無理だ」
「真鍋隊長」
「失礼しました。如月隊長」
口ではそう言うが、反省の色は薄い。八神二佐を「八神さん」と呼ぶ時点で、この男は組織人としてだいぶ雑だ。
だが、観測精度は悪くない。そういう人間だった。
真鍋は二、三言、機材の型番や観測点の再配置について未練がましく呟いたあと、ようやく諦めて出ていった。
警備隊の承認は下りまい、と如月は思った。
八神二佐は警備の例外を認めない。
あれは職務への忠実というよりは、妄執に近い。
部屋に静けさが戻る。
如月は机上の書類を揃え、立ち上がった。
外へ出る。
駐留地の空は低く曇っていた。
兵舎のあいだを抜ける風が、いつもより湿っている。だが、それだけだ。
少なくともレベル1にいる限り、まだ災害と呼ぶほどの気配ではない。
詰所の前で若い隊員を呼び止めた。
「物資の動き、少し見ておけ」
「はい」
「レベル1で防災物資の需要が増えるかもしれない」
隊員が手元の端末を構える。
「備蓄指定に上げますか」
「そこまでは。平時のとおり管理。多量の搬出には注意しろ」
「はい」
「乾電池、携行燃料、ロープ。このあたりは動くか」
言いながら、如月は視線を横へ滑らせた。
整備区画の隅に、機材へ掛けられた青いシートがあった。風に煽られ、端がぱたぱたと鳴っている。
「ああ、ブルーシートもだな」
隊員が顔を上げる。
「最近はレベル2で需要があるせいか、搬出量が多い」
「確認対象に入れておきます」
「頼む」
如月は頷いて、その場を離れた。
ブルーシート。ロープ。乾電池。携行燃料。
いずれもレベル1で人の生死を分ける物資ではない。少なくとも、彼女の職分においてはそうではない。
必要な場所へ、必要な量だけ、逸脱なく流れるべき管理対象だ。
駐留地の端まで歩いたところで、通信塔の上に据えられた小さな赤色灯が、一瞬だけちらついた。
如月は足を止め、見上げた。
すぐに安定した光へ戻る。
許容範囲内。真鍋の言うとおりだ。
そう判断して、彼女は踵を返した。
いつもお読みいただきありがとうございます。
ペース調整のため、次回から更新頻度を毎週火曜・土曜の週2階に変更させてください。
次回は5月19日(火)21時00分に投稿予定です。
本編側に人物紹介・用語辞典を追加し、あわせて、作品の入口として読める短編を公開予定です。
引き続きよろしくお願いします。




