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第27話 禁反言

 電話は翌朝に来た。

 まんじりともせず夜を明かし、窓から差し込む朝日が室内に舞う埃を照らすのを茫洋と眺めていたところで、コール音が鳴った。

 手放しかけていた意識を引き戻し、受話器をとる。


 架電の主はザファル商会の事務方だった。

 場所と時刻を告げ、一方的に切れた。


 ハシュラはまだ事務所のソファで丸くなっていた。

 肩をゆすって起こす。

 曖昧な様子で目をこするハシュラに告げた。


「留守居を頼む」


「……は? どこ行くんだよ」


「仕事だ」


「一人で?」


「一人でいい。従業員が出勤して来たら、俺の行き先を伝えろ」


 今日は月曜日だ。9時になればナイリザが出勤してくる。それまでに俺が戻れなければ、事情をわからない者同士が鉢合わせることになる。

 メモに場所を書いてハシュラに渡した。

 ハシュラはとび色の目でメモを見つめ、それから俺の顔を見た。


「おっさん。盗賊ギルドの事務所だろ、ここ」


「知ってるのか」


「知ってるも何も。この界隈のガキなら誰だって知ってる。……マジで一人で行くの」


「お前を連れていくわけにはいかない」


 ハシュラは何か言いかけ、口を噤んだ。


 * * *


 指定された場所は、日本租界の南端に近い倉庫街だった。


 ザファル商会の看板はない。

 ただの石造りの倉庫の前に、ダークエルフの男が一人立っていた。首筋に蜘蛛の刺青。

 男は何も言わず、顎で中を示した。


 倉庫の中は薄暗かった。

 天窓から差し込む光の下に、粗末なテーブルと椅子が置かれている。

 周囲には六、七人の男たちが壁に寄りかかるようにして立っていた。全員がダークエルフ。全員がどこかしらに蜘蛛の刺青を入れている。


 奥の椅子に、ザファルが座っていた。


 銀髪のオールバック。コールマン髭。今日はスーツではなく、革のジャケットを着ている。

 足を組み、煙草をふかしていた。ベンチャー経営者の皮は脱いでいた。


「カトーサン。お忙しいところ悪いね」


「用件を聞こう」


「せっかちだな。まあ座れよ」


 椅子に座った。テーブルを挟んでザファルと向き合う。

 周囲の男たちが、壁から一歩前に出た。


「言ったろ? 俺はこう見えても親日家なんだよ、カトーサン。御社の社員が呪い殺されそうだと聞いてね。ひとつ手を貸そうと思ったわけだ」


 ザファルは煙を吐いた。


「ナヒリの始末はナヒリがつける。同胞の不始末を処理するのも、ギルドの役割だ」


「止められるのか。呪殺を」


「術者が死ねば、呪いは止まる」


 ザファルの手が煙草を灰皿に押しつけて、揉み消した。

 さらりと告げられた言葉に鼻白む。


「殺す必要はない。呪いを止めたい」


「あれはもう、術者にも止められるような段階じゃあない」


「本人から話を聞きたい」


 内ポケットから封筒を出してテーブルに置いた。

 城島が持たせた示談金だ。 


「金は払う。ここに二百万円ある」


 ザファルはそれを一瞥し、鼻で笑った。


「桁が二つ違うよ、カトーサン。そいつは手切れ金の額だ。

 御社に買ってもらいたいのは、呪いの相手の社員の命だ。しかもそのためにこちらが手を汚すと言っている。その意味はわかるだろう?」


「話だけでもさせてくれないか」


 ザファルの笑みが消えた。


「聞き分けがねえのは困るなあ、カトーサン」


 声のトーンが変わった。ベンチャー経営者でもインテリチンピラでもない。

 利害を計算し終えた男の、素の声だった。


「こいつは商会のディールじゃない。ギルドが並べた札は、社員の命を買うか、買わないかだけだ」


「……会社にそんな判断はできない」


「それはあんたの意見だろう?」


 ザファルは僅かに身を乗り出して言った。


「あんたの役割はこの札を持ち帰ってカイシャの意向を聞くことだ。ここで駄々を捏ねることじゃない」


 諭すような言いぶりだが、声に軽い不快感がこもっていた。

 飼い主の感情に反応して、周囲の男たちの圧がじわりと上がる。


 恐怖を感じた。だが、同時に苛立ちも湧く。

 利口なようで、こいつは日本のことが何もわかっていない。


 誰かを殺して社員を守る。放っておけばその誰かも社員も死ぬ。

 日本企業の意思決定ルートは、そんな質の悪いトロッコ問題を解けるようにはできていない。

 呪いは実在する? 狂言の可能性は? 適法な代替手段は? 緊急避難は成立するか?

 状況確認と法務照会で稟議が止まっているうちに、呪いで二人とも死ぬのがオチだ。


 では、ザファルに処理を任せれば、社員が助かる可能性があると、その報告だけを上げたら?

 女を殺すという手段を伏せて伝えたらどうか。

 冷静に考えている自分もいた。


 二桁増えるかはわからないが、金は出るかもしれない。

 金が出たらどうする?

 この金で、哀れな女を殺せと、誰がザファルに依頼する?

 誰が?

 俺がか。


「駄目だ」


「駄目?」


 囁くような問い返しだった。

 声音や所作にじわりじわりと暴力の気配が積まれていく。

 わかっているのに動けない。動いたところでどうにもならない。

 ザファルは大げさに天井を仰いで見せた。

 

「日本人には手を出せないと思ってるのかい? カトーサン。

 駐在員一人死んでも、代わりが来るだけだ。こっちは、聞き分けのいい奴が引けるまで山札を捲ってもいい」


 その言葉が終わるや否や、周囲の男たちが弾かれるように動いた。

 誰かが俺の椅子を蹴り倒す。

 床に転がされ、とっさに両手をついた。

 その両手を男たちの足が踏みにじる。

 痛みに呻く間こそあれ、髪の毛を掴まれ、力づくで顔を引き上げられる。

 ザファルが無感動に俺を見下ろしていた。


「さて——」


 ザファルが何か言いかけた瞬間、倉庫の入口が轟音と共に吹き飛んだ。


 木の扉が二枚、蝶番ごと内側に弾け飛ぶ。

 見張りの男が扉と一緒に倉庫の床を滑った。

 土埃が舞い上がり、天窓からの光が一瞬遮られた。


 埃の中から、一人の女が歩いてきた。


 事務用ベスト。ブラウス。100円ショップの眼鏡。

 ただし、眼鏡の奥の緑色の瞳は、今まで見たことのない光を帯びていた。


「世話が焼けるわね」


 ナイリザの声は低く、平坦だった。不機嫌の極み。


「自殺願望があるとは知らなかったわ。一人でギルドと交渉できると思ったの」


「……どうやってここを」


「あなたが事務所に残したサヒリグムに泣きつかれたわ」


 サヒリグム。混血児。ハシュラのことだ。

 メモを渡しておいたのは正解だった。正解のつもりではなかったが。


 ナイリザは倉庫の中を見渡した。

 六人の男たちが短剣を構えている。

 ナイリザは構えなかった。


 空気が変わった。

 ドリルジャンボのときと同じ——石から色が抜けるような、乾いた冷たさが倉庫の中に満ちた。

 男たちの足が止まった。


 ザファルがため息をついた。


「面倒な女を連れてきたな、カトーサン」


「連れてきたんじゃない。勝手に来た」


「まあいい。話をしてどうする気だ。とうにそういう状況じゃないんだがね」


 ザファルは椅子の背もたれに体を預けた。


「金を払うなら好きにしろ。話でも説得でも。どうせ無駄だがな」


 俺は無言で二百万円入りの封筒を置き直した。

 ザファルは端金に興味がないという風に、部下に顎をしゃくって回収を指示した。


 * * *


 倉庫の奥の、鍵のかかった部屋に通された。


 暗い部屋だった。窓がない。蝋燭が一本、床に置かれている。

 その明かりの中に、女が座っていた。


 黒檀色の肌。長い銀髪。尖った耳。

 手首に縄の痕がある。


 茉莉花——マーリハ。

 地獄の底のゴミ山に咲く花の名前。

 渦に引き込む女。

 ようやく対面したその女は、ただのやつれた小娘だった。

 

 ただ、彼女の周囲の空気が、微かに歪んでみえる。

 ドリルジャンボの坑道で感じた、あの頭が重くなる感覚の、もっと濃いもの。


「マーリハ」


 帝国語で呼びかけた。


 娘はゆっくりと顔を上げた。

 痩せ細り、頬がこけている。目の焦点が合っていない。


「……ヤポン」


「ヤシマの加藤だ。話がある」


「彼の会社の人?」


 声は掠れていた。


「彼はどこ?」


 焦点が合わないまま、何かを探すような素振りをして呟いた。

 その様を見た瞬間、自分でもよくわからないくらい感情が波立った。

 さっきの理不尽な暴力への怒りが時間差で沸き起こったようだった。


「彼はいない」


「彼は日本に連れて行ってくれるって言った」


 嘘だ。


「嘘だ」


 誤魔化すべきかどうか、考えるより先に呟いていた。

 苛立ち。胃にわだかまる不快感。言葉が止まらない。


「査証が出ない。検疫を通らない。そんなことは……不可能だ」


「知ってるわ」


 マーリハは微かに笑った。


「知ってた。最初から。でもいいの。彼と一緒に渦で一つになる」


「……命を賭けるような相手じゃない」


「それも知ってるわ」


 マーリハは蝋燭の炎を見つめていた。


「ずっと見てたの。ゴミ山で見つけたガラス玉の先に。羽虫のわかない、きれいな水がある。惨めにゴミを漁らなくても食べていける。そういう世界が、あっちにはあるの」


 ビー玉。

 あの部屋に残されていたビー玉。

 日本から流れ着いたゴミの中から拾ったガラス玉の、小さな球面に映った反転世界。

 それがマーリハにとっての日本だった。


「帰してやる。示談金もある。新しい生活を始められる」


「いらない」


「考え直せ」


「考えた。ずっと考えた。集落に帰って、術を編んで、考えた。もう終わりにするの」


 マーリハの目に、初めて焦点が合った。

 俺を見ている。だが、俺を見ていない。

 俺の向こうにある何かを——あるいは、俺の向こうにいる誰かを見ている。


 背後でナイリザの声がした。


「出ましょう」


 振り返ると、ナイリザは部屋の入口に立っていた。

 マーリハを一目見て、首を振った。


「もう駄目ね」


 廊下に出た。ナイリザは壁に背を預け、眼鏡を外した。


「悔しいけど、ザファルの言う通りよ。呪術がここまで進んだら解呪はできない。繰り返された嘘、禁反言のギアス、体液の交換。すべてが幾重にも編まれている」


「止める方法は」


「術者が死ぬか、対象が死ぬか。それだけ」


 ナイリザは眼鏡をかけ直した。


「それに……ともに渦に還ろうとすること自体は、願いであっても呪いではないもの」


 * * *


 倉庫を出た。

 ザファルは見送りもしなかった。


 日本租界に戻る道すがら、ナイリザは何も言わなかった。

 俺も何も言わなかった。


 事務所に着くと、ハシュラがソファの上で膝を抱えていた。

 俺たちの顔を見て、何かを察したのか、何も聞かなかった。


 三日後。

 ゲートの検問で、ヤシマの若い社員が心停止で倒れた。

 帰国の辞令が出て、ゲートを潜ろうとした瞬間だった。

 検問の自衛官が心肺蘇生を試みたが、搬送先のレベル1の診療所で死亡が確認された。


 同日。

 夢幻楼のキャバ嬢が、寮の自室で死亡しているのが発見された。

 外傷はなかった。


 城島にファクシミリを送った。

「対象の死亡により、本件は終了」。

 それだけ書いた。


 二百万円の使途について問われれば、反社を通じて面会の場を買ったと答えるしかない。

 事情説明の文面を作るのは明日でいいだろう。ナイリザにも確認してもらった方がいい。


 ビー玉はまだポケットにあった。

 取り出す気にならなかった。


次話は5月14日(木)21時00分に投稿予定です。

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