第26話 渦
ニャーラによると、案内人が来るのは明日になるということだった。
「あの子、昼間は捕まらないから」と言っていた。
ニャーラと別れた後は家に帰って泥のように眠った。
徹夜で飲み明かすのはきつい年齢になりつつある。
翌朝、休日の職場に出勤し、一人であれこれ雑務を片付ける。
昼前、事務所のドアが叩かれた。
開けると、たぼっとしたカーキ色のパーカーを目深に被った小柄な人影が立っていた。
偽物のエアマックス。加水分解しかけている。
「よう、おっさん」
ハシュラだった。
褐色の肌、短い黒髪。パーカーのフードの下から、長い耳が覗いている。
メモリカードを押しつけて以来、直接顔を合わせるのは初めてだ。
ギンネ老から「昨日も見かけた」と聞いていたから、生きていることは知っていた。
「ニャーラに言われてきた。アタシがどこに案内するって?」
「レベル3。城壁外のスラムだ」
ハシュラはフードを少し上げ、とび色の瞳でこちらを見た。
「……マジで言ってんの、おっさん」
「マジだ」
「ヤポンが一人で行くとこじゃないんだけど」
「だからお前が来た」
ハシュラは鼻を鳴らした。
「報酬は」
「銀貨二枚。帰ってきたらもう二枚」
「安い」
「妥当だ」
ハシュラはしばらく眉間にしわを寄せてこちらを見ていたが、やがて肩をすくめた。
「まあいいよ。ニャーラ姐の頼みだし。実費は別ね……あと、エアマックス」
「何」
「新しいの。日本のやつ。それが追加条件」
「帰ったら考える」
「考えるじゃなくて約束」
「……わかった」
* * *
レベル2の日本租界から、旧帝都の市街に入る。
街の中心部、丘の上に立つ花崗岩の城を望みながら、市街を横断する。
終点の西門を出ると、そこが城壁外だ。レベル3。
門を出た瞬間に空気が変わった。
日本租界に満ちていた、微かだが確かなアンカー効果の残滓が消える。
イヤーバッズの翻訳が一拍遅れるようになった。Bluetoothの接続が不安定になっている。
「ここからはアタシの言うとおりに動いて。勝手に路地に入るな。目を合わせるな。聞かれたらアタシの雇い主のヤポンだと言え」
ハシュラの声のトーンが変わっていた。
ストリートチルドレンの軽口が消え、慣れた土地の空気を読む者の緊張感がある。
城壁外のスラムは、帝都の裏側だった。
崩れかけた石壁の建物が密集し、路地は暗く、湿っている。排水溝がなく、汚水が道の中央を流れていた。
歩く者の人種は多様だ。ゴブリン、コボルト、ダークエルフ、獣人。レベル2のバザールとは違い、ここでは誰もが疲弊した顔をしている。
物売りの声も低い。活気ではなく、惰性で商っている。
最初の街区を抜けるのに、一時間かかった。
ハシュラは要所で足を止め、路地の角に座る男や、屋台の裏に潜む影に目配せをする。
道中、獣人の男たちがたむろっている通りがあった。
もろ肌を脱いだ男たちが、何をするでもなく車座になって道を塞ぐ。
ハシュラがゆっくりと近づくと、隅の一人、黒い豹頭の男が振り向いた。
「……グムの坊主。誰の口利きだ」
「ジャラランダのニャーラ」
「なら3枚だ」
男はちらりとこちらを流し見て指を三本突き出した。
ハシュラは何も言わず懐の袋から銅貨3枚を取り出して男に渡す。
俺が預けた硬貨袋だ。俺が直接金を払うのは止めた方がいいらしい。銀貨は絶対に見せるなとも言われた。
「通行料か」
「ここの仕切りは獣人の元締め。目こぼし銅貨三枚」
「毎回払っているのか」
「一人なら一枚で通れる。ヤポン連れだから」
二つ目の街区に入ると、空気が変わった。
鉄錆と、膿んだ傷口の腐臭が鼻をつく。
路地の両側に、武装した男たちがたむろしている。
欠損を抱えた者が多い。片腕のオーク。片目のリザードマン。義足の人間。
帝国の残兵だろう。敗戦後の行き場をなくした兵士たちが、武器を手放さず、ここに溜まっている。
壁に文字が殴り書きされていた。
帝国語だ。小声で読み上げると、イヤーバッズが訳す。
「双陽は不滅なり」。
サヒル・ヴァルヤ——双陽戦線。反日組織の落書きだ。
ハシュラが俺の袖を引いた。
「見るな。足を止めるな」
低い声だった。
俺はハシュラの背中に従って、早足で街区を抜けた。
背中に視線を感じた。殺気とまでは言わないが、凝視する冷たい目。
日本人がここにいること自体が、挑発に等しいのだろう。
三つ目の街区。ここはダークエルフが多かった。
密集する建物の軒先が重なり合い、空が見えない。
路地は暗く、建物の中を通っているのか、外を通っているのかわからなくなる。
路地に面した小屋の前に、老婆が座っていた。
黒檀色の肌。ハシュラとは違う、ずっと濃い闇の色。
そのうえに、銀髪か白髪かわからない長髪を垂らしている。
首から下げた骨の飾りが、風もないのに揺れていた。
ハシュラが老婆の前でしゃがみ込み、帝国語で何か話しかけた。
老婆はハシュラを見上げ、次に俺を見た。
白濁した目が、こちらの輪郭をなぞるように動く。
老婆が口を開いた。帝国語だが、訛りが強い。
「マーリハを探しているのか。ヤポンが」
「知っているのか」
俺が帝国語で答えると、老婆は歯のない口で笑った。
「知っているとも。あの娘はこの先の集落で生まれた。シャーマンの秘蔵っ子だった。渦を視る力を持って生まれた」
「渦」
ナイリザが中継局で説明した言葉が浮かんだ。
魔素の流れ。魔法の源。
「お前が知っている渦とは違う」
老婆は俺の顔を覗き込んだ。
「お前たちの女が視る渦は、天の星のように冷たく、遠い。だが本当の渦は違う。地の底を這う。血と泥と情念のうねりだ。名前をつけることもできない深淵だ」
老婆は骨の飾りを指先で弾いた。乾いた音がした。
「あの娘が何をしようとしているのか、分かっているのか。ヤポン」
「……分からない」
「引き込む術だ。己の命を渦に沈め、恨みの相手を引きずり込む。古い術だ。一度始まれば、術者が死ぬまで止まらない」
ハシュラが立ち上がり、俺の腕を引いた。
「行こう、おっさん。長居は良くない」
* * *
ハシュラに手を引かれ、腰をかがめて暗闇を進む。
むせ返るような死臭の中で、ふと、微かな花の香りが鼻をついた。
細い糸を手繰るように、場違いなその甘い香りを追って進む。
突然、建物が終わり、視界が開けた。
あたり一面に広がる沼沢地。
久しぶりに空を見上げると、既に黄昏時の色をしていた。
沈みかけの第一太陽を追うように傾く第二太陽。
燃えるような赤と冷たい紫のグラデーションに、散在する粗末な掘立小屋の影がぼんやりと浮かぶ。
目に入ったのは、ゴミだった。
日本から不法投棄された産業廃棄物。ビニール袋、ペットボトル、壊れた家電、錆びた鉄骨、そして、褪色した日本語のラベル。
それらが沼沢地の縁に山と積まれ、集落の裏手を覆っている。
越界障害で劣化が進み、原形をとどめないものも多い。プラスチックが溶け、金属が錆び、異世界の植生と混ざり合って、奇妙な地層を成していた。
その隙間から、白い花が咲き乱れていた。
暗闇で嗅いだ花の香りはここから流れてきたのだろう。
濃厚な甘い香り。ジャスミンに似ている。
ゴミの山を苗床にして、花だけが狂ったように咲いている。
花の名の女の生まれ故郷。
「地獄の底だ」
思わずそう呟いていた。
集落の住民たちが、ゴミの山から使えるものを拾い出していた。
ペットボトルを切り開いて容器にする者。ビニール袋を紐状に裂いて編む者。
壊れた基板から金属片を外す子供。
日本が捨てたものを拾って、生きている。
住民の一人に声をかけて道を尋ねた。
友好的ではないが、敵対的でもない。
珍しいヤポンに話しかけられても、そのヤポンが混血児を連れていても、特に感情も関心も動かさない。問われれば言葉少なく答える。
小屋のひとつに案内された。マーリハの実家だという。
中に入ると、壁一面に呪符が貼られていた。
ナイリザが見せたような整然とした魔法の痕跡ではない。墨とも血ともつかない液体で描かれた文様が、壁を床を天井を覆い尽くしている。マーリハの部屋で見たタペストリーの文様と似ていたが、より禍々しい。
部屋の中心に、焦げた跡があった。何かが燃えた痕ではなく、何かが「抜けた」跡。
空気が歪んでいる。ここにいると頭が重くなる。
「やばいって、おっさん。出よう」
ハシュラが袖を引いた。俺も同意見だった。
外に出て、集落の長老に話を聞いた。
マーリハは数日前にここに戻ってきた。実家にこもり、誰とも口をきかなかった。
昨日の夜、刺青のある男たちが来て、マーリハを連れていった。
「蜘蛛の刺青か」
長老は頷いた。
盗賊ギルドだ。
* * *
帰路は来た道を逆に辿った。
夜が近づき、灯りの少ないスラムの路地は闇に閉ざされつつある。
ハシュラの足取りにも焦りが滲む。
だが、帰りは道が分かるぶん速い。
事務所に着いた頃には、すっかり夜も更けていた。
ハシュラに銀貨二枚を渡した。
「帰りの分の報酬だ」
「エアマックス」
「忘れてない」
ハシュラは銀貨を仕舞うと、ためらいがちに口を開いた。
「攫われたんだろ? 探さなくていいのか」
「いい」
「いいって……」
「向こうから来る。そのために攫ったんだろう」
ハシュラはとび色の目を瞬かせた。
何か言いたそうだったが、口を閉じ、そのまま事務所のソファに横になった。
このまま帰る気にならなかったのか。
最後まで見届けるよう、ニャーラに言われているのかもしれない。
そうこうするうちに寝息を立て始めた。
事務所のデスクチェアに座り、煙草に火をつけた。
盗賊ギルド。蜘蛛の刺青。
ザファルの組織だ。
茉莉花——マーリハを攫って、何がしたいのか。
答えはひとつしかない。取引だ。
呪殺が進行中であることを知っている。マーリハを押さえている。
俺に連絡してくるのは時間の問題だ。
煙草の煙が蛍光灯の光に巻き上がっていく。
ビー玉をポケットから取り出した。
これは、あのゴミ山で拾ったものなのかもしれない。
透明な球体の中で、蛍光灯の光が反転している。
マーリハが見ていた世界。
ゴミ山の向こうに幻視した日本。
ドレスをまとい、夜の蝶になり、日本人の男に恋をした。
あるいは恋だと思い込んだ。
そして棄てられた。
ビー玉をデスクの上に置いた。
電話が鳴るのを待つ。
次話は5月12日(火)21時00分に投稿予定です。




