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第25話 朝顔

「嬉しい! 来てくれたの?」


 両手を顔の前で合わせ、飛び跳ねるような大げさなリアクション。

 店内の何人かの客がこちらを振り返った。

 一瞬、小夏が場を支配したように見える。


 だが一瞬だけだった。

 引き際も心得ていて、うるさく見える前にすっとスポットライトから身を引き、俺の隣に体を滑り込ませてくる。


「……小夏、か?」


 まじまじと見返した。

 相変わらずのミニドレスだが、オフショルダーで丈も短い。ニュー・エデンで見慣れたスタイルより少しだけ扇情的だった。


「えー、何その反応。ひょっとしてたまたま? 偶然?」


「ひょっとしても何も。店を移ったのも知らなかった」


「うそ。案内状出したんだけどなあ。ヤシマの事務所宛に」


 ナイリザが捨てたか。


「それで来てくれたのかと思った。あーあ。前の卓抜けてきたのに!」


 小夏は口を尖らせる。


「すまん」


「まーいっか。おかげで案内状見ない系のカトウさんにも繋げたわけだしね。えらい、私」


 そんな話をしながらも、小夏は黒服にさりげなく合図を送り、ハウスボトルと水割りセットを用意させていた。

 手早くアイスペールから氷を取り出し、水割りを作る。出来上がったグラスの結露をハンカチで拭って、ごく自然にコースターの上に置く。

 こういったところはニュー・エデンの仕込みなのだろう。


「このお店では朝顔、だよ。ガオって呼んで。がおー」


 両手を顔の両脇に揃えて肉食獣の威嚇のようなポーズをとってみせる。

 名前を決めたのは日本人だろうが、花の名前だとは教えなかったらしい。


「覚えきれん」


「もー」


 馴染んだ頃にはまた名前が変わっていそうな気がする。


「じゃあ名前覚えてくれないカトウさんに特別サービスね」


 朝顔——小夏——は、ぐいと距離を詰めてきた。

 耳元に、吐息がかかるほど近づく。

 猫獣人特有の甘い体臭。


「ニャーラ」


 囁いた。

 耳朶を舐める声音に、一瞬意識を持っていかれる。

 だが朝顔、小夏、ニャーラはすぐに身を引くと、悪戯が成功したような目でこちらを見た。


「本名か」


「そ。お店変わっても指名してね?」


 軽くウインクしたときには、もう営業の顔に戻っていた。

 切り替えが速い。


「……それで?」


「ん?」


「私目当てでも接待でもなく、なんで商社サマがこんな中途半端なお店に来たの? どうせつまんない理由があるんでしょ」


 話が早い。


「ここで働いている茉莉花って女とツナギが取りたい」


 ニャーラの表情が変わった。

 営業の笑顔が消え、耳がぴくりと動いた。


「茉莉花ちゃん?」


 一拍。


「あー……そういう。カトウさん、ヤシマだもんね」


 何かを了解した目だった。

 茉莉花とヤシマの社員のトラブルを知っているのだろう。


「どうしよっかなー」


 ニャーラは考え込むような素振りの後で、横目を使って言った。


「じゃあさ、今日こそアフターしてよ」


「アフターはしない」


「えええ。何それ傷つくし」


 そこで黒服から声がかかった。


「朝顔さーん!」


 指名客が入ったのだろう。

 ニャーラは片手を上げて「はーい!」と応えた。


「……閉店まで待っててね? 浮気しちゃだめだよ?」


 俺はグラスを傾けながら片手を上げて了承の合図を送った。

 ニャーラが卓を移ったところで、手近な黒服を呼んだ。


「朝顔に指名を入れてくれ。あと、一番高いボトルを頼む」


 今夜は長そうだ。

 挨拶状を捨てた詫びも込めて、ボトルを入れる。


 やがて黒服が恭しい手つきでボトルを運んできた。

 なぜかワインバスケットに入れて置かれたそれは、しかし日本のドラッグストアで見慣れた瓶だった。

 ラベルに「JIM BEAM」と印字されている。


 まあ、こういったものは高い金を払うこと自体に意味がある。

 閉店まで腰を据えるなら久しぶりにバーボンも悪くない。


 * * *


 その後は、ニャーラが戻ってきたり、ちょこちょことヘルプの女に入れ替わったりしながら、他愛のない時間を過ごした。

 ニャーラは人気のようだった。


 ヘルプの質はまちまちだ。

 こちらを「社長さん」と呼ぶ女がいて閉口する。

 レベル2に社長は来ない。


 気がつくと、閉店の空気に変わっていた。

 新たに入る客はなく、帰った客の数だけテーブルが空いていく。

 淀んだ空気の中で、まだ飲み続ける客もそれなりに残っていたが、店全体は緩やかに鎮まっていくのがわかった。


 先に出て待っていてくれと言われた。

 会計を済ませ、入り口で待つ。

 ジムビームはそれなりの値段だった。


 何とはなしに周囲を見渡す。

 日本租界は不夜城ではない。

 深夜を過ぎればほとんどの店は閉まる。道行く人影もまばらだ。


 夢幻楼の入り口のネオンサインはとっくに消えている。

 窓のない建物なので、中の熾火のような喧騒は外までは聞こえてこない。

 ネオンの灯りを落とし、入り口の黒服が中に消えただけで、まるで廃屋のようだった。


「お待たせ。じゃ、行こっか」


 着替えたニャーラが出てきた。

 店の中の派手なドレスではないが、私服も日本製品だった。タンクトップに薄手のシャツを羽織り、下は短いデニム。

 強めの化粧と派手目の耳飾りが夜の店の余韻を残している。


 ニャーラは俺の脇にぴたりと付くと、腕を絡めてきた。

 シャツ越しに、女の高い体温を感じる。


「どこへ?」


「私のうち」


 にっと笑った。


 歩き出すと、夜風が肌に当たる。

 石畳に滞留した空気は湿っていて、風は生温い。

 灯を落とした歓楽街が背後に遠ざかる。

 ニャーラは慣れた足取りで裏通りに入った。


 道すがら、まるで世間話か店の愚痴を言うような気軽さで、茉莉花の話がはじまった。

 本名はマーリハ。ダークエルフ。城壁外のスラム出身。

 もともとはニュー・エデンで働いていたが、2か月ほど前、店とのトラブルで辞めて夢幻楼に移ったのだという。


「客とのトラブルではなくて?」


「どっちかっていうと、お客さんとのトラブルを解決してくれないお店側と揉めた感じかな」


 トラブルの相手はもちろん例の若手だ。半年くらい前からニュー・エデンに顔を出すようになり、すぐに茉莉花の指名客になった。

 来店も多く、金も遣う太客だったようだ。来店すれば確実にアフターまで行く。

 この世界でアフターとは、つまりそういうことだ。


「すごく束縛が強かったの。茉莉花ちゃんが他のお客さんにつくと、店側にクレーム入れたり、待ち伏せしたり」


「店は」


「ニュー・エデンはさ。お客さんとは絶対に揉めないんだよね。日本人専用だから」


 ニャーラが口の端だけを歪めて言った。


「一度、その客が怒鳴り込んできたことがあって。茉莉花ちゃん、すごく怖がってたのに、結局連れていかれちゃって。店は守ってくれなかったよ。『アフターは各自の判断』だってさ。そのあと一週間くらい、茉莉花ちゃんお店に出なかったんだよね」


「……暴力か?」


 ニャーラは少し黙った。


「……手は出してたと思う。茉莉花ちゃん、あざを隠すの上手だったから」


 結局、居づらくなった茉莉花はニュー・エデンを辞めた。

 一連の流れで店を見限った者も多かったようだ。ニャーラもその一人で、先月、茉莉花を追う形で夢幻楼に移ってきたのだという。


 事務所で聞いた話とは随分違う。

 当事者である社内の人間の話と、女の同僚の噂話。

 どちらを信じるか、悩むまでもない。ニャーラに嘘をつく理由はない。

 何より、ありふれた話だ。


 日本租界の夜は、日本人にとって都合が良過ぎる。

 駐在員レベルでも湯水のように金が使える。レベル2での乱痴気騒ぎなど誰も気にしない。何ならレベル1の同僚は皆緩やかな共犯関係にある。日本にいる家族にバレる心配もない。

 つまり、日本でそれをしない理由が、タガが全部外れる。

 だから大抵の男はやってしまう。それだけだ。


「その客、ヤシマの社員だって言ってたもんね。カトウさんと同じ会社」


 たっぷり一呼吸置いて、ニャーラは聞いた。


「日本に奥さんでもいた?」


「なぜそう思う」


「日本人はね、日本の話ばかりするでしょ。でも全部嘘」


 * * *


 路地裏のボロアパートに着いた。

 漆喰が剥がれた壁。外階段に洗濯物が干してある。

 女性物の下着が無造作に吊り下げてあるところに妙な生活感があった。

 並んだドアのひとつを、ニャーラが指さした。


「ここがあたしんち」


 しかし通り過ぎた。

 その先のドアの前で立ち止まる。


「で、ここが茉莉花ちゃんの部屋。お店の寮なの」


 ニャーラが鍵を開けた。合鍵を持っているらしい。


 中を覗いた。

 電灯をつけると、もぬけの殻だった。


 家具はほとんどない。寝台と、小さな座卓と、壁に掛けられた蔦で編んだタペストリー。

 タペストリーには見覚えのない文様が刺繍されている。装飾というより、呪術的な何かに見えた。


 ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れる。

 生活の匂いは、かろうじて残っていた。

 窓際の小瓶に活けられた白い花が一輪。すっかり枯れて、茎の根元にくすんだ水滴の跡だけが残っている。

 座卓には一冊の本が置かれていた。手に取ってタイトルを確認する。


 日本語の教本だった。


 表紙はとうに色褪せ、角は擦り切れ、背表紙は何度も糊付けし直した跡がある。

 ページをめくると、一行ごとに現地語の書き込みが入っていた。朱色のインクで、丁寧な、しかしどこかぎこちない筆致。家族、結婚、故郷。そういった項目に、強い筆圧で線が引かれていた。


 教本を座卓に戻すと、何かが転がって床に落ちた。

 拾い上げてみると、それはビー玉だった。

 なんの変哲もない、ただのガラス玉だ。透明な球体の中に、室内が反転して映る。

 窓の光、天井の染み、自分の指。すべてが上下逆さまに、小さく閉じ込められていた。


「五日前にいなくなったの」


 ニャーラは部屋の入口に寄りかかって言った。


「お仕事終わっちゃったね、カトウさん」


 * * *


 外に出ると、第一太陽が地平線に顔を出し始めていた。

 薄明の光が路地裏のアパートを照らしている。


 昼の光の中で見るニャーラは、夜の店にいた女とは別人だった。

 化粧が落ちかけ、目の下に薄い隈がある。猫獣人の耳だけが、朝日を受けて金色に光っている。


「手切れ金、渡す相手がいなくなっちゃったら、解決でしょ」


 ビー玉を朝日に翳した。

 小さな球体の中で、世界が反転している。

 何もない部屋で日本語の教本をボロボロになるまで読み込んでいた女。

 婚約者のいる男に支配され、擦り切れて、失踪した女。


「……解決はしていない」


 手切れ金すらもらわずに消えるのは、帳尻が合わない。

 渡すべきものは渡す。

 会社もはっきりとした示談書があった方が都合が良いだろう。


「金を受け取らせて、示談を成立させるのが仕事だ」


 ニャーラが逆光に目を細める。


「金を受け取らせるために、わざわざ探し出すつもりなの?」


「会社がそれを望んでいる」


「……ふうん」


 ニャーラは腕を組んだ。


「で、探すにしたって、アテはあるの?」


「ない」


 言ってから、少しだけ考える。

 城壁外のスラムの出身と言っていたか。親族か、身内がいれば話もできるかもしれない。


「実家は?」


「茉莉花ちゃんの故郷は、ここから帝都を突っ切った先よ。西門の先のスラムの外れに、ナヒリたちの集落がある」


 ナヒリ。夜の人。現地語ではそう呼ぶ。

 ダークエルフというのはそれっぽい訳語というだけだ。

 エルフたちの帝国で差別されていた彼ら彼女らは、帝国崩壊後も特に地位が向上したわけでもない。

 多くはスラムに留まり、ザファルのような一部は裏社会に潜む。


「レベル3か」


 レベル1と日本租界に持ち込まれたポスチュレートが効くのは城壁の際まで。西門を抜けた先はレベル3だ。


「行くの? 日本人が?」


「仕事だからな」


 ニャーラは深いため息をついた。


「案内してくれる子に心当たりがある。ヤシマの事務所に行かせるから。一人で勝手に行かないでね」


「なんでそこまで手を貸してくれるんだ」


 ニャーラは少し黙った。

 それから、寂しそうに笑った。


「なんでだろ。カトウさんは日本の話しないから、少しだけ信用できる、かな」


 朝日が路地裏の壁を赤く染めている。

 ニャーラは目を細めた。


「茉莉花ちゃんに会ったらさ……」


 言いかけて、止めた。


「いいや。『元気でね』って。それだけ伝えといて」

次話は5月9日(土)21時00分に投稿予定です。

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