表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/46

第13話 鰐淵 後編

 鰐淵に連れて行かれたのは、日本租界の外れにある現地風のバーだった。

 看板は帝国語で書かれている。表音のとおりに読み上げてみると、イヤーバッズが「悪魔の巣穴」と訳した。


 居酒屋「新橋」とは何もかもが違った。

 低い天井。煙と獣脂の臭い。カウンターの向こうにはゴブリンのバーテンダーがいて、正体不明の酒を量り売りしている。

 客は現地人が中心だが、日本人の姿もちらほら見える。ただし「新橋」にいたようなスーツ姿ではない。

 くたびれた私服。剃り残しの顎。どこか焦点の合わない目。

 帰還不能者か、それに近い人間たち。


「こちらの方が落ち着くでしょう? 肩肘張らなくていい」


 鰐淵はカウンターに座り、バーテンダーに現地語で何か注文した。流暢だった。


 出てきたのは琥珀色の蒸留酒で、度数は高そうだが、飲めないほどではない。

 鰐淵は自分のグラスに口をつけた後、胸ポケットから煙草を取り出して咥えた。

 そしてライターを使うでもなく、合掌でもするように、両目を閉じて手を合わせる。


 奇妙な間があった。

 鰐淵はゆっくりと手を開いていく。水を掬うように開かれた両掌の中心を、半眼で見つめていた。


 帝国語の小さな呟きが聞こえた。


「ナロヤ」


 イヤーバッズが「火」と翻訳すると同時に、鰐淵の両掌に包まれるようにして、蝋燭ほどの小さな火が灯った。

 鰐淵は咥えた煙草の先端を近づけて火をつけると、パンパンと両手を叩いた。

 火はどこにもなくなっていた。


「……魔法か」


「ええ」


「渦とやらが、見えるのか」


 鰐淵の両目が見開かれた。

 能面のような笑顔が一瞬崩れ、虚を突かれた人間の表情が覗いた。

 今日初めて、この男の素の反応を見た気がする。


「驚きましたよ、加藤さん。現地のことをよく勉強されてますね」


「受け売りだ。魔法を見るのは人生で二度目だ」


「ますます面白い。ええ、彼らは渦と呼んでいますね。もっとも、私に見えているのが彼らと同じものかどうかは、分かりませんが」


 鰐淵は煙を吐き、グラスを傾けた。


「なぜ覚えた」


「なぜ、ですか」


 鰐淵はくっくっと笑った。


「加藤さん、あなたも大分アンカー心理に毒されている。異世界に来た。魔法がある。覚えて使ってみたくなるのが人間でしょう」


 普通ではない、と思った。だが口には出さなかった。


「私のような人間には便利な代物です。煙草に火をつけるだけで、日本人相手にハッタリが効く。……いささか効きすぎることもありますがね。以前、宇田川次長にこれをお見せしたら、それ以来避けられてしまいまして」


 宇田川次長の名前が出た。


「そうそう、宇田川次長はお元気ですか」


 連絡が取れていない、などと言えるわけがない。


「レベル1のオフィスに戻って、忙しくしてるんだろう」


 皮肉を込めてそう言った。嘘ではない。


「おや? そうですか」


 一拍の間があった。


「穴埋め業務が終わり次第、念願の帰国が叶うと聞いていたんですがね。辞令が延びたのか。会社勤めの辛いところですね」


 油断も隙もない。

 宇田川次長が本社に異動するという話は聞いていなかったが、考えてみればそうなってもおかしくない。

 足掛け5年はいる次長が帰れていないのは、アンカーが空席だったから、なのだろう。


 俺という後任に引き継いでもまだ帰国していない。少なくともその人事がまだ社内で公表されていないという事実は、抜かれてしまった。

 どこまでが世間話でどこからが探りなのか、この男の会話には継ぎ目がない。


 その後は他愛もない話をした。

 レベル2の飯屋の話、雨季の長さの話、日本から届く物資の話。

 鰐淵は一貫して上機嫌で、こちらの話を聞くよりも自分が喋る方が好きなようだった。

 だが、時折挟まれる質問は、必ずこちらの情報を引き出す形になっている。


 二杯目を飲み終えたところで、腰を上げた。


「そろそろ失礼する」


「ええ、お引止めはしません。——ああ、加藤さん」


 鰐淵が不意に声のトーンを落とした。

 能面の笑顔はそのままだが、目だけが変わっていた。


「つけられてますよ」


「……何」


「この店に入る前から。わかりやすい尾行です。プロの仕事ではない」


 鰐淵はグラスの底に残った酒を揺らしながら言った。


「心当たりは?」


 心当たりはあった。ありすぎた。


「……さあな」


「ご入用であれば、いつでもご相談ください。現地に詳しい人間がそばにいると何かと便利ですよ」


 営業トークに戻った鰐淵の顔に、それ以上の追及はなかった。


 * * *


 店を出ると、夜気が肌に纏わりついた。雨季の湿気は夜になっても引かない。


 アパートへの帰り道、遠回りをした。

 角を曲がるたびに、背後の足音を聞いた。規則的な、隠す気のない足音だ。


 プロの仕事ではない、と鰐淵は言った。

 ならば盗賊ギルドでも末端か。俺が何を持っているか確認し、どう動くか監視している。


 アパートの前まで来ると、あの吟遊詩人の老人がまだいた。

 空き缶の前で、リュートを抱えて歌っている。

 だが、何かが違った。


 俺が近づくと、老人がゆっくりと顔を上げた。

 フードを外した。


 黒檀色の肌。銀髪。深い皺の刻まれた顔。

 そして、左頬に蜘蛛の刺青。


 老人はこちらを見て、歯のない口で笑った。

 何も言わなかった。ただ笑って見せた。

 それから再びフードを被り、歌いながら通りの闇に消えていった。


 空き缶には、俺が入れた銅貨がまだ残っていた。


 部屋には上がらず、事務所に戻った。

 ソファに横になり、天井を眺めた。


 あの老人は家探しの日からあそこにいた。

 あの蜘蛛の刺青は見せるために見せたのだ。


 お前を見ているぞ、と。


 鰐淵の名刺を内ポケットから取り出した。

 氏名と連絡先だけの、空白だらけの名刺。

 しばらく眺めてから、ポケットに戻した。

次話は4月9日(木)21時00分に投稿予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ