基衡の妻
園池が結氷し、浄土庭園の庭にはチラチラと雪が舞っている。
早朝、観自在王院の仏堂には、念仏が凍える大気を震わせて低く響いていた。
初老と思われる女性の声には、張りが有り力強く朗々と響いている。
仏教の浄土思想をうけたこの庭園は、毛越寺に寄り添う様に造立され、金堂や仏堂、寺院建築物が前に広がった園池に映り込む様に設計されていた。
結氷していなければ、水面に映ったそれら華麗な堂塔が浄土を空想させたであろう。
この観自在王院を建立したのが、過去無念の思いで命を落とした一族縁者の冥福を祈り読経している、奥州藤原氏二代当主基衡が妻、結惟の方である。
この仏堂は典型的な阿弥陀堂の造りで、堂内に立つ四本の巻柱の内側を内陣、外側を外陣とし、内陣には金工や漆芸で飾られた須弥壇があり、本尊である阿弥陀三尊像の仏像が安置されていた。
その内陣をぐるりと囲む高欄は紫檀と呼ばれる東南アジア産のローズウッドが使用され、バラの香りに近い甘い芳香を放っていた。
九州の筑前国(現福岡県)の宗像郡、筑前大島で生まれ育った彼女の老体には、東北の寒さは身に染みた。
少々長くなってしまうが、彼女の生い立ちについて触れておきたい。
そうでなければ、これから彼女に降りかかる運命を説明しきれないからだ。
声の張りからは想像できないが、この時86歳、ピンと伸びた背はその様な高齢とはとても思えぬ立居姿であった。
若い頃はさぞ美しかったであろう、うりざね顔は歳を取り垂れ下がったものの、意志の強さを象徴するつりあがった眉と目が印象的だった。
彼女の父、安倍宗任は基衡の祖父にあたる藤原経清と共に、前九年の役を戦い抜いた人である。
当時(1051年)奥州北部には二つの強大な勢力があった。
陸奥の国、奥六郡の安倍氏と、出羽の国、山北三郡の清原氏である。
出羽山北の俘囚の主と言われた清原満頼と、同じく俘囚の主と呼ばれた奥六郡の安倍頼時の関係は良好であったが、満頼の弟武則・武則の嫡男武貞に実権が移ると関係が急変した。
前九年の役、”黄海の戦い”で源氏軍が安倍軍に敗れ、安倍軍が国府を凌ぎ陸奥全土を支配しかねない状態になると、脅威を感じた清原武則は、源頼義・義家親子の援軍要請を受ける形で挙兵する。
そこには、機に乗じて奥州の覇権を狙う清原氏の野望があった。
東北を舞台にした長い戦いは、山北三郡の領主、清原氏の裏切りで朝廷側の勝利、安倍氏側の敗北で決着がつき、安倍の領地は全て清原氏の物となった。
乱の首謀者であった宗任の兄、貞任と、基衡の祖父、藤原経清は討ち取られ、宗任は配流となって命を繋いだ。
そんな宗任終焉の地となった筑前国(現福岡県)宗像郡、筑前大島で晩年の子として生を受けたのが結惟の方である。
幼少期、配流先とはいえ暖かい地方でのびのびと住み暮らし、宗任にとっても高齢でもうけた子が可愛いくてならず、甘やかされて育った。
彼女の良く言えば一本木である傲慢で融通のきかない性格は、この時形成されたものと思われる。
では藤原家はというと、経清亡きあと経清の妻が清原家当主武貞に再嫁し、経清の子清衡は母の連れ子として清原清衡を名乗った。
清衡は清原家の人間として、かろうじて藤原の血脈を繋げる事が出来たのである。
奥六郡と山北三郡を領する事になった清原氏の懐で生き延びるしかなかった清衡は、祖父の代からの仇敵である清原一族の力なくしては、その後訪れる内乱を生き抜く事が出来なかった。
嫡子であった義理の兄、清原真衡には子がなく、その家督相続で異父兄弟の家衡(清原武貞と清衡の母との子)と真衡が激しく争ったのだ。
清衡は同じ母を持つ家衡に加担して戦い、そして真衡の不自然な死によってこの争いに終止符がうたれたのだが、調停に乗り出した源義家の裁定に不満を持ち、源義家と清衡の癒着を信じた家衡が、清衡の居館を襲撃し清衡の妻子を殺害して、異父兄弟は決別した。
その後の戦いで義家・清衡軍に家衡は討たれ、清原氏の家督は一族最後の残存者である清衡が継ぐ事になったのである。
その後、名も藤原に戻し、拠点を平泉に移して奥州藤原氏は興ったのである。
奥州藤原家内で清原一族が厳然とした力を持ったのは必然であったと言えよう。
しかし安倍の血を色濃く受け継ぐ藤原一門にとって、安倍の復権を念願していた事は疑いようもなかったが、清衡の嫡男であった惟常は清原出身の正室から生まれた嫡男として、清原の家臣団が力を持っていた。
清衡の次男であった基衡が、簒奪者として藤原の家督を継ぐためには、奥六郡でいまだ勢力を保っていた安倍の後ろ盾がなくてはならず、更に配流先となった筑前国宗像郡で力をつけ、大名である宗像氏の日朝・日宗貿易で重要な役割を果たしていた宗任との繋がりを持つ事は必要不可欠なものであった。
それは筑前国宗像郡の宗任と連携し宗貿易を強化して、経済力を強くする為だ。
また清原氏の裏切りという形で敗北し、深い怨みを清原氏に持っていた安倍一族にとって、
宗任の娘、結惟の方が基衡に嫁ぐ事は、千載一遇の好機であったのだ。
いつしか家督を相続したい基衡の野心は、惟常を担ぐ清原家臣団と、基衡を担ぐ安倍家臣団の戦いへと変貌していった。
大治四年(1129年)基衡は妻と家臣達の強硬な突き上げを受け、意を決し惟常の国衙を攻めた。
基衡の度重なる軍事行動に耐えかねた惟常は、体勢を整えるべく一時越後国に落ち延びて、弟達と共闘し反撃を試みるも天候に恵まれず失敗し、親子共々斬首された。
平泉を中心地に選び、筑前国という中継地を得、宗貿易を強化した事で、陸奥国の経済力が出羽国の経済力を上回った事が、勝利の一因となった。
基衡は、妻結惟の方のおかげで安倍の後ろ盾と、宗貿易の莫大な利益を得られ藤原の家督を継げた訳で、基衡を支えた安倍家臣団の中心的な存在は結惟の方であり、基衡は妻に頭が上がらない状態となったのだ。
妻という立場で観自在王院を建立できたのも、基衡に対して強い発言力があったからだ。
生来の気の強さと傲慢さは、ここへきて磨きがかかったと言っても語弊ではないだろう。
夫(基衡)や息子(秀衡)の政にも口をさしはさみ、この頃になると安倍家臣団からも煙たがれられる程、藤原家内で力を振るう様になっていた。
「徳殿、もうよかろう。朝餉にしようではないか」
話しかけられた女性は後の徳尼公、泰衡の実母でこの時60歳。
温和な性格で、運命をしなやかに受け止める強さとしたたかさがあった。
今も泰衡の政治顧問として力を振るっている藤原基成の娘である。
「かしこまりました。用意させましょう」
結惟の方に付き従う様に歩む徳の方は小柄で控えめの品のある女性だった。
結惟の方は、廻廊を歩きながら思い出した様に激昂し始めた。
「しかし御館(秀衡の事)も御館じゃ!そなたを父太郎(国衡の事)の嫁御にするなど!
なんとおぞましい事か・・わが子(秀衡)の言葉とも思えぬ!
下賎の娘の子、それも義理の子にあたる国衡と夫婦になるなど考えられぬ!」
秀衡の実母である結惟の方と、藤原基成の娘で秀衡の正室徳の方の仲は、嫁・姑の世間一般でいう仲の悪さはなく、徳の方が全てを包み込む形で親密であったものだ。
我が子の裁定に納得のいかない結惟の方は、我が子の秀衡に
「国衡を説き伏せて納得させれば問題ない」と当時強硬に主張したのだ。
泰衡・国衡が険悪な兄弟仲であった以上に、奥州藤原氏で繰り返されてきた家督相続時の兄弟間の争闘に、
頭を悩めていた秀衡の苦渋など、所詮解る由もなかった。
その時秀衡は母の言葉を無視して今にいたる訳だが、納得のいかない結惟の方は、事ある毎にそれを持ち出しては老人特有の短気を爆発させていた。
それは孫の泰衡に向けられ、今ではまるで泰衡が裁定したかの如く泰衡を攻め立てた。
そんな時、泰衡は暗い眼差しを下に向けて黙り込んでしまうのだ。
それが更に結惟の方には気に食わなかった。
せめて「それは私が決めた事ではありませぬ。父が決めた事を私が覆す事が出来ましょうや?」
とでも言い返してきてくれれば、まだ良かった。
そうすれば「そうよな、全ては秀衡が悪いのじゃ」で済んでしまう。
結惟の方はそういう気質の持ち主で、言ってしまえば後はすっきりして忘れてしまう淡泊さもあったのだ。
それが暖簾に腕押しの様に、ただ黙りこくってうつむいてしまう泰衡には、激昂が激昂を呼び、いつしか泰衡にどなり散らしている自分に気が付くのだ。
そんな時、泰衡の母である徳の方がそばにあれば
「まぁまぁ、そうお怒りあそばしますな。御館(秀衡)には御館の深い考えでお決めになった事でしょう」
さらりとかわしてしまう。
言いたい事をさらけ出す事で満足してしまう結惟の方は、あきれもしたがそれで済んでしまうのだ。
「お許は変わり者よ・・」
「恐れ入りまする」徳の方もくったくがない。
だから二人の中は良好なのだ。
それに比べ、父(秀衡)が決めた事は藤原の総意であり我が意でもある、と責任を感じている泰衡とは、まったく相性が悪いものだった。
泰衡には不運であったといえよう。
二人は、その泰衡の居館である伽羅の御所に、朝食を済ませると網代車で向った。
早朝舞っていた雪はやんで、底冷えのする平泉に暖かい陽光が差している。
それは繰り返される日常の一幕であった。




