縁起の悪い測量士と辺境伯の依頼
夜明け前の王都は、式典の熱など最初からなかったように冷えていた。
エルナは測量院の裏門に立ち、革鞄の留め具を確かめた。水晶針、銀砂の小瓶、折り畳みの測量杖、未整理の記録束。持ち出せる私物はそれだけだった。正式な職務停止はまだ下りていないが、院の宿直は彼女を見るなり目をそらした。
「セルヴィック嬢」
門の外で待っていたオスカーが、手綱を従者に預けて歩み寄る。昨夜と同じ濃灰の外套には、溶けかけた雪が細く残っていた。
「準備は」
「終わりました。家には、後で知らせを出します」
父母に何を書けばよいのか、まだ分からない。婚約を破棄され、職も危うくなり、そのまま辺境へ向かう娘など、家にとって面倒以外の何ものでもないだろう。
オスカーは余計な慰めを口にしなかった。ただ一通の封書を差し出した。
「王立記録官ミラ・アストリ殿に預ける手配をした。あなたの報告書の写しと、レイヴェル領からの正式な測量依頼書だ。王都で記録が消される前に、法の棚へ置いてもらう」
エルナははっと顔を上げた。
「ミラ様をご存じなのですか」
「文書で何度か。あの人は印を軽く扱わない」
それだけで、胸に残っていた冷たい塊が少し動いた。昨夜、自分はひとりだと思った。けれど報告書を読んだ人がいて、記録を守ろうとする人がいて、目の前には白地図を託す人がいる。
馬車が王都の石門を抜ける頃、朝の鐘が鳴った。背後で尖塔が淡く光り、やがて霧に沈む。エルナは膝の上に置いた白地図の筒を、両手で押さえていた。
「依頼の内容を、改めて確認させてください」
揺れる車内でそう切り出すと、オスカーは待っていたように頷いた。
「レイヴェル領北東部、旧スノル水路から国境堤までの再測量。消えた地脈線、水路、街道、税境を白地図へ記す。期限は春の雪解けまで。報酬は王立測量士の標準額に危険手当を上乗せする。あなたの署名は、領主権限で保護する」
「私の名で描けば、レイヴェル家にも悪評が及びます」
「悪評で水は流れない」
昨夜と同じ、飾らない答えだった。
「ですが、私は国境堤を壊した女だと噂されています」
「噂が堤を壊したなら楽でいい。修繕費がいらないからな」
あまりに真面目な顔で言うので、エルナは思わず瞬きをした。笑っていいのか迷う間に、オスカーは鞄から古い地図を広げた。羊皮紙は擦り切れ、川を示す青線の一部が不自然に太い。
「これは十年前に王都へ奉納された誓図の写しだ。北の水路が真っすぐ堤へ落ちることになっている」
「真っすぐすぎます」
エルナは指先を紙の上に浮かせた。触れなくても分かる。地脈は地形に沿って曲がる。雪解け水は岩盤を避け、低い方へ逃げる。こんな定規で引いたような線になるはずがない。
「この線を信じて水門を造った結果、堤の内側に水が溜まった」
「現地を見なければ断言はできません。けれど、これは測った線ではありません。あとから整えた線です」
口にした瞬間、昨夜の広間が脳裏によみがえった。責任逃れだと切り捨てられた声。縁起の悪い測量士。胸元の測量士章が重くなる。
オスカーは地図を畳まなかった。
「今の言葉を、現地でも言えるか」
「言えます。確かめた後なら、もっと正確に」
「なら、それでいい」
馬車は昼過ぎ、王都の整った街道を外れた。石畳は土道に変わり、窓の外には枯れた葡萄畑と、雪をかぶった低い丘が続く。宿場で休んだ時、井戸端の女たちがこちらを見て囁いた。
「あの人でしょう。王都で婚約を捨てられた」
「縁起の悪い地図描きだって」
言葉は冬の風よりも細く、けれど確かに耳へ届いた。エルナは水差しを持つ手に力を込める。
隣に立ったオスカーが、宿の主人に淡々と言った。
「この方はレイヴェル家が招いた測量士だ。領内でその呼び名を使う者がいれば、私の依頼を侮ったものとして扱う」
井戸端が静まった。
エルナは驚いて彼を見た。守られたことより、その言い方に胸を打たれた。かわいそうな令嬢としてではなく、仕事を任せた相手として扱われた。
「ありがとうございます」
「必要なことを言っただけだ」
その夜、国境に近い小さな宿で、エルナは白地図を初めて広げた。何も描かれていない羊皮紙の上に銀砂をひと粒落とす。砂はしばらく震え、北東の端へ細く流れた。
地図の外にあるはずの水音が、耳の奥で凍りつく。
「水路があります」
オスカーが燭台を近づける。
「旧スノル水路か」
「たぶん。けれど流れが止まっています。凍っているだけではありません。線が、嘘を避けて震えている」
自分でも奇妙な言い方だと思った。だが白地図は確かに、まだ描かれていない場所から歪みを返してくる。
オスカーの灰青の瞳が、燭火の向こうで細くなる。
「明朝、そこへ向かう」
「はい」
エルナは測量杖を机に置き、深く息を吸った。
縁起の悪い測量士。
そう呼ばれた耳は、まだ痛む。けれど災いを呼ぶのではない。隠された災いを、誰より早く見つけるだけだ。
白地図の端で、銀砂がもう一度震えた。
北西の冬は、彼女に最初の線を求めていた。




