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婚約破棄された魔法測量士は、辺境伯の白地図に春を描く  作者: 銀細工ナギ


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2/20

縁起の悪い測量士と辺境伯の依頼

 夜明け前の王都は、式典の熱など最初からなかったように冷えていた。


 エルナは測量院の裏門に立ち、革鞄の留め具を確かめた。水晶針、銀砂の小瓶、折り畳みの測量杖、未整理の記録束。持ち出せる私物はそれだけだった。正式な職務停止はまだ下りていないが、院の宿直は彼女を見るなり目をそらした。


「セルヴィック嬢」


 門の外で待っていたオスカーが、手綱を従者に預けて歩み寄る。昨夜と同じ濃灰の外套には、溶けかけた雪が細く残っていた。


「準備は」


「終わりました。家には、後で知らせを出します」


 父母に何を書けばよいのか、まだ分からない。婚約を破棄され、職も危うくなり、そのまま辺境へ向かう娘など、家にとって面倒以外の何ものでもないだろう。


 オスカーは余計な慰めを口にしなかった。ただ一通の封書を差し出した。


「王立記録官ミラ・アストリ殿に預ける手配をした。あなたの報告書の写しと、レイヴェル領からの正式な測量依頼書だ。王都で記録が消される前に、法の棚へ置いてもらう」


 エルナははっと顔を上げた。


「ミラ様をご存じなのですか」


「文書で何度か。あの人は印を軽く扱わない」


 それだけで、胸に残っていた冷たい塊が少し動いた。昨夜、自分はひとりだと思った。けれど報告書を読んだ人がいて、記録を守ろうとする人がいて、目の前には白地図を託す人がいる。


 馬車が王都の石門を抜ける頃、朝の鐘が鳴った。背後で尖塔が淡く光り、やがて霧に沈む。エルナは膝の上に置いた白地図の筒を、両手で押さえていた。


「依頼の内容を、改めて確認させてください」


 揺れる車内でそう切り出すと、オスカーは待っていたように頷いた。


「レイヴェル領北東部、旧スノル水路から国境堤までの再測量。消えた地脈線、水路、街道、税境を白地図へ記す。期限は春の雪解けまで。報酬は王立測量士の標準額に危険手当を上乗せする。あなたの署名は、領主権限で保護する」


「私の名で描けば、レイヴェル家にも悪評が及びます」


「悪評で水は流れない」


 昨夜と同じ、飾らない答えだった。


「ですが、私は国境堤を壊した女だと噂されています」


「噂が堤を壊したなら楽でいい。修繕費がいらないからな」


 あまりに真面目な顔で言うので、エルナは思わず瞬きをした。笑っていいのか迷う間に、オスカーは鞄から古い地図を広げた。羊皮紙は擦り切れ、川を示す青線の一部が不自然に太い。


「これは十年前に王都へ奉納された誓図の写しだ。北の水路が真っすぐ堤へ落ちることになっている」


「真っすぐすぎます」


 エルナは指先を紙の上に浮かせた。触れなくても分かる。地脈は地形に沿って曲がる。雪解け水は岩盤を避け、低い方へ逃げる。こんな定規で引いたような線になるはずがない。


「この線を信じて水門を造った結果、堤の内側に水が溜まった」


「現地を見なければ断言はできません。けれど、これは測った線ではありません。あとから整えた線です」


 口にした瞬間、昨夜の広間が脳裏によみがえった。責任逃れだと切り捨てられた声。縁起の悪い測量士。胸元の測量士章が重くなる。


 オスカーは地図を畳まなかった。


「今の言葉を、現地でも言えるか」


「言えます。確かめた後なら、もっと正確に」


「なら、それでいい」


 馬車は昼過ぎ、王都の整った街道を外れた。石畳は土道に変わり、窓の外には枯れた葡萄畑と、雪をかぶった低い丘が続く。宿場で休んだ時、井戸端の女たちがこちらを見て囁いた。


「あの人でしょう。王都で婚約を捨てられた」


「縁起の悪い地図描きだって」


 言葉は冬の風よりも細く、けれど確かに耳へ届いた。エルナは水差しを持つ手に力を込める。


 隣に立ったオスカーが、宿の主人に淡々と言った。


「この方はレイヴェル家が招いた測量士だ。領内でその呼び名を使う者がいれば、私の依頼を侮ったものとして扱う」


 井戸端が静まった。


 エルナは驚いて彼を見た。守られたことより、その言い方に胸を打たれた。かわいそうな令嬢としてではなく、仕事を任せた相手として扱われた。


「ありがとうございます」


「必要なことを言っただけだ」


 その夜、国境に近い小さな宿で、エルナは白地図を初めて広げた。何も描かれていない羊皮紙の上に銀砂をひと粒落とす。砂はしばらく震え、北東の端へ細く流れた。


 地図の外にあるはずの水音が、耳の奥で凍りつく。


「水路があります」


 オスカーが燭台を近づける。


「旧スノル水路か」


「たぶん。けれど流れが止まっています。凍っているだけではありません。線が、嘘を避けて震えている」


 自分でも奇妙な言い方だと思った。だが白地図は確かに、まだ描かれていない場所から歪みを返してくる。


 オスカーの灰青の瞳が、燭火の向こうで細くなる。


「明朝、そこへ向かう」


「はい」


 エルナは測量杖を机に置き、深く息を吸った。


 縁起の悪い測量士。


 そう呼ばれた耳は、まだ痛む。けれど災いを呼ぶのではない。隠された災いを、誰より早く見つけるだけだ。


 白地図の端で、銀砂がもう一度震えた。


 北西の冬は、彼女に最初の線を求めていた。

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