第6話 母上は風になった
レイは九歳になっていた。
四年が経っていた。
ダルゴアでの暮らしは相変わらず穏やかだった。
レイは相変わらず無愛想で相変わらず老人のような口調で相変わらず街の人々にしつこく話しかけていた。魔法も相変わらず弱く、剣だけは大人たちを驚かせ続けていた。
体は少し背が伸びた。
それでも同年代の中では小柄なままだった。
母アルテナは相変わらず優しかった。
朝になればレイを起こし、温かい食事を作り、夕方になれば「お帰り」と笑顔で迎えた。
何も変わらない日々だった。
何も変わらないことが何より幸せだった。
その日も、いつも通りに始まった。
「母上、行ってくる」
「気をつけてね」
アルテナがレイの頭を撫でた。
「今日は森の方に行くんだったね」
「うむ。薬草を採ってきてほしいと、じいさまに頼まれたのでな」
「お小遣いがもらえるね」
「うむ」
レイの口角がほんの少しだけ上がった。
アルテナだけがわかる、変化だった。
「夕食までには帰っておいで」
「わかった」
レイは家を出た。
その背中にアルテナが声をかけた。
「レイ」
レイが振り返った。
「気をつけて、ね」
「うむ。母上も気をつけてくれ」
アルテナがふっと笑った。
「うん」
それが最後の会話だった。
レイが森から戻ったのは夕方近くだった。
採ってきた薬草をギルドのおじいさんに渡した。少しだけお小遣いをもらった。家に帰るための、いつもの帰路についた。
家の前に人が集まっていた。
レイは足を止めた。
何かがおかしかった。
近所の人たち。冒険者ギルドの大人たち。みんな、暗い顔をしていた。
その中の一人がレイに気づいた。
「……レイくん」
その声が震えていた。
近所のおばあさんが後ろから声をかけた。
「レイくん……森の道で馬車が……」
「事故、だったって……」
「お母さんはすぐに……」
声が途切れた。
おばあさんがレイの肩に手を置いた。
「気の毒に……」
レイは何も言わなかった。
ただ、家に向かって歩いた。
人垣が自然に分かれた。
家の中に入った。
居間に母が横たえられていた。
レイは母の隣に座った。
そっと母の手を取った。
冷たかった。
朝、頭を撫でてくれた手がもう温かくなかった。
「母上」
レイが小さく呼んだ。
返事はなかった。
「母上」
もう一度呼んだ。
やはり、返事はなかった。
母上が、たまに、口にしていた言葉が、頭の中で、響いていた。
「シグナ・グレ・トゥムス」
百年前、自分が、戦友達に贈った言葉。
母上は、その意味を、深く、知っていた。
「今を、精一杯、生きるのよ」
そう言って、レイの頭を、撫でてくれた。
それを、もう、聞けない。
レイは泣かなかった。涙は出なかった。
ただ、母の手をずっと握っていた。
近所の人たちが何度も声をかけた。
「レイくん、何か食べなさい」
近所の人たちが何度も声をかけた。
「レイくん、何か食べなさい」
「レイくん、休まないと」
「レイくん……」
レイは首を振った。
母の手を離さなかった。
夜になっても、離さなかった。
朝が来ても、離さなかった。
胸の奥で何かが震えていた。
母の冷たい手の感触が、レイの胸を強く打ち続けていた。
心臓が跳ねた。息が浅くなった。指先が冷たくなった。視界が、わずかに、霞んだ。
このままでは、いけない。
目を閉じた。
母の手から伝わる冷たさだけを、感じていた。
それだけを、感じていた。
ゆっくり息を吸った。長く、吐いた。
また吸った。また吐いた。
吸って、吐いて、吸って、吐いて。
胸の痛みが、ゆっくりと、引いていった。
心臓の跳ねが、収まっていった。
指先に、わずかな温もりが戻った。
しかし、揺れは、消えなかった。
消す必要は、なかった。
奥にさえ届かなければ、それで、よかった。
百年前にも、こうしていたな。
百年前の記憶がレイの中で動いていた。
百年ともっと前。
両親を黒鬼に殺された夜。
少年だった私は同じように泣けなかった。
とても胸が苦しくてとても痛かったが、涙が出なかったのだ。
ただ、両親の冷たい手を握っていた。
そして、決めた。
この痛みは駄目だ。人がいなくなる痛みはよくない。
あの国でこの痛みが続かないようにと、そう決めて、それだけを守るために生きてきた。
そして、私は死んだ。
それなのに。
それなのに。
百年ともっと経って、また同じことを繰り返している。また守れなかった。
レイは母の手を握ったまま、目を閉じた。
「母上」
声に出さずに呼んだ。
「悪かった」
「私の魔核が脆かったから、母上は眠れない夜を過ごした」
「私がもっと強かったら、もっとよい時間を」
しかし。
レイは首を振った。
それは違う。
母上は誰かの謝罪を求めて生きていなかった。
母上は目の前の誰かを助けることを生きがいにしている人だった。
私の魔核が脆かったから、母上が眠れなかった。
それは母上が私を助けてくれたからだ。
それが母上の生き方だった。
母上は最後まで母上の生き方を貫いた。
そして、消えた。
レイはようやく、目を開けた。
母の手をもう一度、握り直した。
「母上」
口に出して呼んだ。
横たわる母に片膝を深くついて左手のひらを右胸につけて述べる。
「どうもありがとうございました」
古くから鬼族に伝わる最高位の礼の作法だった。
葬儀は近所の人たちが取り仕切ってくれた。
ダルゴアの大通りにたくさんの人が集まった。
人間も、獣人も、エルフも、ドワーフも。
レイが知らない顔も多い。
みながアルテナの死を悼んだ。
「アルテナさんは本当に優しい人だった」
「種族関係なく、誰にでも親切だった」
「ダルゴアにこういう人がいてくれて、本当にありがたかった」
口々にそう言った。
スラム街から、アルテナに助けられた獣人の老婆も来ていた。
「アルテナさんは私の娘の傷の手当てをしてくれた人で……」
老婆がしゃがれた声で言った。
「あの時、誰も助けてくれなかった。でもアルテナさんだけは駆け寄ってくれた」
「あの恩は忘れない」
レイはずっと黙っていた。
ただ、人々の言葉を聞いていた。
人々の間に小さなざわめきがあった。
「あの道で馬車が事故を起こすなんて、おかしい」
「アルテナさんは馬の扱いも上手かったのに」
「ねえ、まさか……」
しかし、その言葉は続かなかった。
誰も、口に出して言うことができなかった。
レイはそれも、聞いていた。
ただ、何も言わなかった。
母の生きた証がこうして街に残っていた。
母は確かにここにいた。




