第5話 弱い魔法だけど
ある日の夕方。
母アルテナがレイに初めての魔法を教えた。
夕日が母の長い赤毛を橙色に染めていた。
「レイ、目を閉じてごらん」
「うむ」
「そして、空気の流れを感じるの」
「空気の流れ?」
「そう。風の精霊じゃない、ただの大気のエネルギー」
「人間の魔法はそれを感じることから始まるのよ」
レイが目を閉じた。
母上の声が近くで聞こえた。
母上が自分の手をレイの手の上にそっと重ねた。
「ほら、感じる?」
「……」
レイがしばらく、集中した。
すると、わずかに何かが感じられた。
肌の上を流れる、空気のような何か。
しかし、もっと細かい、何か。
「うむ」
「感じている」
「それが風のエネルギーよ」
「そして、こうやって、自分の魔核に集めて……」
母上がレイの胸の前に手をかざした。
「手のひらに引き寄せる」
「うむ」
「詠唱して、形にする」
「巡り、満ち、流るる風よ……」
「我が手のひらにその一筋を……」
「風の刃よ」
母上の手から、風が吹いた。
それはろうそくの炎を揺らして消した。
「私はね、風の魔法が得意なの」
母上が笑った。
「やってみる?」
レイが杖を構えた。
母上から借りた、小さな杖だった。
詠唱を始めた。
「巡り、満ち、流るる風よ……」
「我が手のひらにその一筋を……」
「風の刃よ——」
レイの手から、風が吹いた。
それは母上の風よりも、弱かった。
ろうそくの炎をわずかに揺らす程度。
「……出た」
レイが目をわずかに見開いた。
「出たな、母上」
「うん、出たわね」
母上が嬉しそうに笑った。
「弱い魔法だが」
「弱くてもいいのよ」
「出たことがすごい」
レイが自分の手のひらをじっと見ていた。
風が出た。
弱い、本当に弱い、そよ風のような風が。
しかし、確かに自分の中から、何かが出た。
レイの中の、百年前の記憶がわずかに動いた。
百年前、闘気の使い手として、戦場を駆けた日々。
その力は今のレイにはない。
しかし、別の何かがここにある。
レイの中で母上から教わった、新しい何か。
それが嬉しかった。
「面白いな」
レイがぽつりと、言った。
「弱いが面白い」
「そうね」
母上が頷いた。
「弱くても、自分のものよ」
「うむ」
その後、レイは四属性すべてを試した。
火も、水も、地も、すべて出た。
すべて、弱かった。
火はろうそくの炎ほど。
水はコップ一杯ほど。
地は小石を浮かせる程度。
しかし、すべて、出た。
母上が目を見開いた。
「四属性、すべて……?」
「うむ」
「これは稀有な才能よ」
「人間で四属性使える人はほとんどいないのに」
「うむ」
「弱いけど、可能性があるわ」
母上が嬉しそうにレイを見た。
しかし、すぐに表情がわずかに曇った。
しかし、その曇りはすぐに消えた。
「あなたがいてくれてよかった」
「本当によかった」
母上がレイを抱きしめた。
「これからも、ずっと一緒にいようね」
「うむ」
後日、ダルゴアの冒険者ギルドで剣の練習も始めた。
そちらは魔法とは違い、レイは驚くほど早く上達した。
百年の記憶が身体に染み込んでいたからだった。
しかし、それをレイは誰にも言わなかった。
ただ、淡々と、練習を続けた。
ある日、ギルドの訓練場で。
冒険者ギルドのおじさんがレイに基本の型を教えていた。
「足は肩幅。剣はこう構えて」
「うむ」
「振り下ろしは腰から」
「うむ」
レイが剣を振った。
おじさんが目を見開いた。
「もう一度」
「うむ」
レイがもう一度、剣を振った。
「……」
おじさんがしばらく、動かなかった。
それから、ぽつりと、言った。
「この子、すごいな」
周りの冒険者たちも、集まってきた。
「五歳でこの動きは……」
「アルテナさんの息子か」
「アルテナさんも、剣が得意だったからな」
レイは何も言わなかった。
ただ、淡々と、剣を振り続けた。
身体が覚えていた。
百年前の闘気の基礎動作。
それが無意識のうちに剣の動きに出ていた。
しかし、レイはそれを誰にも言わなかった。
ただ、剣を振っていた。
母上がそれを嬉しそうに見ていた。
ただ、夜になると、母上は少しだけ、目を細めて、レイを見ていた。
「あなた、本当に強くなるのね」
「うむ」
「強くなって、私の手を離れていくのね」
「離れない」
「いいのよ」
母上が笑った。
「あなたは自由に生きていいのよ」
「種族なんて関係ない。助けたいと思ったら、助けるの」
「それだけ」
「私の息子なんだから」
レイは何も言わなかった。
ただ、母上の隣で寝息を立てていた。
母上だけがレイの口角がほんの少しだけ上がっていることに気づいていた。
しかし、その日々は、長く続かなかった。




