第49話 私の壁
ラシェルが立ち上がった。
声は震えていなかった。
むしろ、低く落ち着いていた。
「祖父様に書状を出します」
レイが頷いた。
「会長を引き受けます」
短い、間があった。
「奴隷取引は商会から、なくします」
「うむ」
「人を商品にしない」
レイがもう一度頷いた。
ラシェルが紙片を見た。
「ヴィルガスとは商売で戦います」
「うむ」
「経済戦争になります」
「そうだろう」
「それでも、貫きます」
レイが軽く頷いた。
ラシェルがレイをまっすぐ、見た。
「ありがとう、レイ」
短い言葉だった。
敬語が抜けていた。
ラシェル自身がその瞬間、気づいた。
「申し訳ありません」
「いつもの癖で」
軽く頭を下げた。
レイが軽く首を振った。
「そのままでよい」
「いえ」
「いつものままでお話しさせてください」
「私の壁は私のものですから」
レイが軽く頷いた。
「うむ」
「壁を保ちながら、お前は深まる」
「それでよい」
ラシェルがしばらくレイを見ていた。
それから、軽く笑った。
「不思議な方ね」
「本当に」
笑いの中に敬語の崩れがもう一度、薄く、出た。
しかし、それも、すぐに戻った。
「いえ、不思議な方ですね」
ラシェルがしばらく紙片を見ていた。
それから、紙片を革袋に戻した。
紐を結んだ。
革袋を机の上に置いた。
百年前と、同じ革袋。
百年前と、同じ言葉。
しかし、今、ラシェルの中で何かが動いた。
レイが立ち上がった。
扉の方へ、向きを変えた。
「私はしばらく見ていよう」
「はい」
「やるべきことをやればよい」
ラシェルが頷いた。
レイが扉を開けた。
廊下に出た。
扉を閉めた。
執務室にはラシェルだけが残った。
朝の光が執務室に満ちていた。
柔らかい、橙色の光だった。
机の上の革袋をラシェルがもう一度見た。
それから、ペンを取った。
紙を広げた。
祖父様への、書状を書き始めた。
ペン先はもう、震えていなかった。
◇
朝。
中庭の木々が葉を半分ほど落としていた。
石畳の上に葉がまばらに散っていた。
空気はひんやりと、していた。
薄い霧がまだ、庭の隅に残っていた。
中庭の、木の卓。
ティナが卓の上に紙を広げて、ペンを握っていた。
リオルがその向かいに座っていた。
ティナの紙には文字が書かれていた。
不揃いだった。
大きい字も、小さい字も、混ざっていた。
ティナがペンを止めた。
紙を見た。
そして、リオルを見た。
「曲がってる」
リオルが軽く笑った。
「ああ、曲がっているな」
ティナが口を尖らせた。
「お兄ちゃん、教えるの、下手」
「ああ、すまん」
リオルがペンをティナの手から、軽く取った。
紙の上にゆっくり書いた。
「こうだ」
文字がまっすぐ書かれていた。
ティナがしばらくそれを見ていた。
それから、頷いた。
「もう一回、書く」
「ああ」
ペンをリオルから、受け取った。
紙の上にもう一度文字を書き始めた。
リオルが横でティナの手を見ていた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「私は商人だった」
ティナがペンを止めた。
「うん」
「妻と、子も、いた」
ティナがリオルを見上げた。
「商売に失敗して」
「すべて、失った」
リオルの声は低かった。
「私のせいで家族はバラバラになった」
ティナがしばらくリオルを見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「お兄ちゃんは商品じゃ、ないよ」
リオルがしばらく動かなかった。
ティナがもう一度言った。
「あたしの、お兄ちゃん」
リオルが軽く目を伏せた。
それから、軽く頷いた。
「ああ──そうだな」
ティナがまた、ペンを走らせ始めた。
リオルがティナの紙を見ていた。
ティナの不揃いな文字が紙の上に並んでいた。
しばらくして、リオルが懐から、小さな帳面を取り出した。
擦り切れた、古い帳面だった。
ティナの隣で自分のペンを動かし始めた。
数字だった。
商会の、廊下から見えた、取引先の名前。
ふと目に入った数字。
リオルはそれを書き留めていた。
意識せずに書き留めていた。
商人だった頃の、習いだった。
ペンを止めた。
帳面の数字をしばらく見ていた。
商売の流れが見えてきていた。
塩、絹、綿花。
仕入れ先の、配置。
商国の、北街道の、動き。
リオルの目がわずかに動いた。
何かを思い出しかけていた。
しかし、すぐに帳面を閉じた。
ティナがリオルを見上げていた。
「お兄ちゃん?」
「いや」
「なんでも、ない」
リオルが軽く笑った。
しかし、帳面を懐に戻した手はまだ、温かかった。
◇
執務室の窓から、ラシェルがその様子を見ていた。
書類が机の上に広げられていた。
ペンも、握っていた。
しかし、しばらく書類は進まなかった。
ラシェルが立ち上がった。
窓辺に寄った。
中庭を見下ろした。
ティナの、紙の上の、ペンの音。
時々リオルの、低い声。
木の葉が風に軽く揺れる音。
朝の、平穏な音だった。
廊下から、足音が聞こえた。
軽い足音だった。
「ラシェル」
ミルだった。
ラシェルが振り返った。
ミルが扉のところに立っていた。
今日は装備をつけていなかった。
普段着の、簡素な服だった。
「お茶、入れてきた」
ミルが両手に湯気の立つ、二つの茶器を持っていた。
「ありがとう」
ラシェルが笑った。
「中庭で飲もうか」
「いいね」
二人で執務室を出た。
中庭の、別の卓に二人で座った。
ティナとリオルが座っている卓とは少し、離れていた。
しかし、見える距離だった。
ミルが茶をラシェルの前に置いた。
「ありがとう」
ラシェルが茶器を両手で包んだ。
湯気が二人の間に立っていた。
しばらく二人は何も、言わなかった。
ただ、茶を飲んでいた。




