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第48話 家訓を、読む

第48話 四節を、読む


あれから、数ヶ月が経っていた。


商会の中庭の、葉が石畳に落ちていた。


朝の空気が変わっていた。


レイが商会に滞在を始めて、もう、長くなっていた。


中庭でティナがリオルに字を教わっていた。


朝の景色だった。


リオルが机の上に紙を広げ、ペンを握っていた。


ティナがその横で小さな手を動かしていた。


玄関ではグレイドが装備を整えていた。


ミルが薬草袋を肩にかけて、その隣に立っていた。


アルヴィスが弓を布で拭いていた。


冒険者三人は商国の冒険者ギルドに登録していた。


近郊の、護衛や討伐の依頼を受けていた。


ラシェルが玄関に出てきた。


「気をつけて」


短い、声だった。


何度も繰り返されてきた、朝の見送りだった。


「ああ」


グレイドが手を上げた。


「夕刻には戻る」


ミルがラシェルに軽く頷いた。


「夕方、お茶でも、しましょう」


「うん」


冒険者三人が出ていった。


廊下でレイがティナと、すれ違った。


ティナが両手を後ろに組んでレイを見上げた。


「お兄ちゃん、今日も」


「うむ」


「街に出る」


ティナが頷いた。


「いってらっしゃい」


レイの口角がわずかに動いた。


「うむ、行ってくる」


短い、やり取りだった。


朝の、見慣れた、やり取りだった。


レイが商会の門を出た。



街でレイはいつものように歩いた。


見慣れた商人と、軽く頷きを交わした。


小さな子に懐から取り出した、飴玉をひとつ、渡した。


商会の老使用人と、市場ですれ違った時、レイは軽く頭を下げた。


ささやかな、所作だった。


誰に対しても、姿勢を崩さなかった。


それをラシェルは執務室の窓から、見ている日があった。


中庭の、ティナとリオルの様子も、見ていた。


冒険者三人が戻ってくる夕方も、見ていた。


毎日、毎日。


何も、特別なことは起きなかった。


しかし、毎日、何かがラシェルの中に積もっていった。



ある朝。


執務室でラシェルが机の上の、革袋を見ていた。


書類が増えていた。


商会の経営はいつも通り、回っていた。


祖父様への書状も、何通か、書いた。


返事も、いくつか、来ていた。


しかし、机の右端の、革袋だけは何ヶ月も、開かれていなかった。


ラシェルが机の引き出しから、ペンを取り出した。


そして、止めた。


ペンを置いた。


革袋に手を伸ばした。


しかし、紐は解かなかった。


ただ、革袋の、表面に軽く触れた。


百年の手垢が染みた、古い革袋。


何度も読んできた、家訓の言葉。


しかし、いつも、行動にはならなかった。


ラシェルがしばらく革袋を見ていた。


それから、立ち上がった。


扉を開けた。


「セルジオ」


「はい」


「レイを呼んでください」



しばらくして、扉が叩かれた。


「うむ」


レイの声だった。


「入って」


レイが扉を開けた。


中に入った。


扉を閉めた。


二人だけになった。


レイが机の前に立った。


ラシェルは机の向こうで座っていた。


机の上にはまだ、革袋が置かれていた。


「ラシェル」


「うん」


「どうした」


ラシェルがしばらくレイを見ていた。


それから、革袋を机の中央に置いた。


「これを知っていますか」


レイが革袋を見た。


首を横に振った。


「うむ、知らん」


「ゼラック家に代々、伝わるものです」


「ほう」


「中に、家訓が入っています」


ラシェルの手が紐にかかった。


わずかに震えていた。


紐を解いた。


中から、紙片を取り出した。


紙片は古かった。


百年の時を経ていた。


紙の縁がわずかに黄ばんでいた。


しかし、文字はまだ、読めた。


ラシェルが紙片をレイの方へ、向けた。


「一緒に読んでくれない」


「うむ」


「一人ではもう、読み飽きたの」


ラシェルの目がわずかに揺れた。


しかし、それは涙ではなかった。


涙はもう、出なかった。


レイが紙片の上を見た。


いくつかの、言葉が書かれていた。


ラシェルが声に出して、読み始めた。


「我々は商人である前に」


「ハクレン様の資産を運用している、国の役人だ」


「ハクレン様の遺志を、商いに、込める」


最初の三行を読み終えた。


ラシェルが息をひとつ、ついた。


「目の前の者を、見捨てるな」


「全員を救おうとは、するな」


レイの目の奥がわずかに動いた。


しかし、ラシェルはそれに気づかなかった。


「我々が、救えなかった者を」


「やがて、また誰かが、救えばよい」


ラシェルの目がわずかに揺れた。


「シグナ・グレ・トゥムス」


「今を、精一杯、生きよ」


紙片の隅に、小さく添えられた言葉も、読んだ。


「ハクレン様の、お言葉、と」


ラシェルが紙片から、目を上げなかった。


しばらく誰も、口を開かなかった。


紙片の上でラシェルの指が止まっていた。


百年前の、ゼラックの、手。


何かが震えていた、手だった気がした。


なぜ、そう、思うのか、分からなかった。


しかし、いま、何かが伝わってきていた。


紙片の向こうに誰かがいるような気がした。


曽祖父。


百年前の、あの夜。


ラシェルはそれを知らない。


しかし、知っている気がした。


ラシェルがぽつりと言った。


「ここまで何度も読んできた」


レイは静かに頷いた。


「いつも、ここで止まる」


「そうか」


「全員を救おうとは、するな、と書いてある」


「うむ」


「だから、私は奴隷取引をやめた」


レイは黙って聞いていた。


「私の手の届く者だけを救おうと、した」


ラシェルの声が低くなった。


「それでよいはずだった」


「……」


「でも、まだ──」


言葉が止まった。


ラシェルが紙片を見つめていた。


レイがしばらくラシェルを見ていた。


それから、口を開いた。


「書いてあった、じゃないか」


ラシェルがレイを見た。


レイが続けた。


「自分の信じる道をゆけばいいだろう」


短い、言葉だった。


ラシェルがしばらく動かなかった。


唇がわずかに動いた。


しかし、声は出なかった。


レイが紙片を軽く指差した。


「『目の前の者を、見捨てるな』」


ラシェルが小さく頷いた。


「お前の『目の前の者』は誰だ」


ラシェルがレイを見た。


子供の身体。


しかし、年齢に似合わない、目。


ラシェルの目が机の上の、紙片に戻った。


ゼラックの、古い言葉。


何度も読んできた言葉。


しかし、今、レイが隣で読んだ。


ラシェルが息をひとつ、吸った。


「あなたがずっと見せてくれた」


レイが首をわずかに傾けた。


「数ヶ月、毎日、毎日」


レイは黙って聞いていた。


「私の家で私の商会で」


ラシェルが続けた。


「あなたは姿勢を崩さなかった」


「……」


「街でも、邸の中でも、ティナの前でも、リオルの前でも」


レイの目がわずかに細められた。


「ただまっすぐに、あなたが大好きな綺麗事を、貫いてた」


「それを私は見ていた」


レイが軽く頷いた。

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