第46話 百年前 頭巾の男
街道は長かった。
帝国の国境まではまだ、何日もかかる距離だった。
森に入った。
夜明け前。
霧が深かった。
森の奥で何かが動く音がした。
ゼラックは剣を持っていなかった。
護衛も、雇わなかった。
エルナがジンを後ろに押した。
ジンがリーラをしっかりと、抱きかかえた。
魔物が出てきた。
狼に似た、しかし、もっと大きな獣だった。
全部で三匹。
ゼラックが家族の前に立った。
しかし、武器は持っていなかった。
木の枝を拾って、構えた。
その時。
森の奥から、足音が聞こえた。
軽い足音だった。
小柄な、誰かの足音だった。
頭巾を深く被った男が現れた。
小柄だった。
しかし、足取りは揺るがなかった。
頭巾の影で顔はよく、見えなかった。
魔物の方へ、歩いていった。
魔物が男に襲いかかった。
その瞬間。
男の姿が消えた。
ゼラックには見えなかった。
ただ、風が動いた。
短い時間だった。
息を二つ、する間。
気がつくと、三匹の魔物が地面に伏せていた。
動かなかった。
男は元の場所に立っていた。
姿勢は崩れていなかった。
息も、乱れていなかった。
魔法ではなかった。
剣でも、なかった。
ただ、目にも止まらぬ早さで駆け回ったのだろう。
おそらく、武器を使っていない。
ゼラックには何も、見えなかった。
ゼラックの背中が冷えた。
男がゼラック家族の方へ、振り返った。
頭巾の下から、声が聞こえた。
「夜の街道は危ない」
「東へ、行くのか」
ゼラックが頷いた。
「うむ」
「私も、東へ、行く」
「途中まで一緒に歩こう」
ゼラックは答えられなかった。
男がもう一度口を開いた。
「歩けるか」
「歩けます」
エルナが答えた。
男が頷いた。
四人と一人で歩き出した。
◇
男はほとんど、口を開かなかった。
時々エルナの方を振り返った。
ジンの方も、見た。
ジンが背負っているリーラの方も、見た。
しかし、何も、言わなかった。
夜が明けた。
朝の光が森を照らした。
霧が薄れた。
森を抜けた。
帝国街道の、入り口に出た。
男が立ち止まった。
「ここまでだ」
ゼラックを見た。
「私はここから、別の道を行く」
ゼラックが頷いた。
「お礼を」
「礼は要らない」
男が懐から、革袋を取り出した。
小さな革袋だった。
紐で結ばれていた。
男がゼラックに差し出した。
「持っていけ」
「これは──」
「うむ、薬師がもっていた」
短く、ぼんやりした口調だった。
「私はつかわないから」
「おまえがもっていろ」
ゼラックは何も、言えなかった。
ただ、革袋を両手で受け取った。
中身は確認しなかった。
頭巾の下の、男の口元がわずかに動いた。
ハクレン王だった。
ゼラックはそれを悟った。
しかし、口にはしなかった。
口にしてはいけない、と思った。
ハクレンがジンの方を見た。
ジンはリーラをまだ、背負っていた。
ハクレンがジンの肩に軽く手を置いた。
「ジン」
「リーラを頼む」
ジンが頷いた。
「はい」
ハクレンがリーラの方を見た。
眠っているリーラの、頬に軽く触れた。
「リーラ、達者でな」
それから、エルナの方を見た。
「奥方」
「はい」
「夫を支えてやってくれ」
「はい」
「皆、健やかにな」
エルナが頭を深く下げた。
最後にハクレンはゼラックの方を見た。
「ゼラック」
「はい」
「シグナ・グレ・トゥムス」
ゼラックがわずかに目を見開いた。
戦場で鬼族の戦士達が別れ際に贈り合っていた言葉だった。
「『今を精一杯、生きよ』」
ハクレンが続けた。
「そういう、意味だ」
短い、説明だった。
ゼラックが頷こうとした。
しかし、頷けなかった。
ハクレンが軽く手を振った。
それから、街道を外れた。
森の中へ、歩いていった。
頭巾の小柄な男の背中が森の木々の、向こうに消えていった。
ゼラックはしばらく動けなかった。
ハクレンの背中が消えてからも、立っていた。
エルナが横で手を握っていた。
ジンが後ろで待っていた。




