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第45話 百年前 リーラの咳

百年前。


サングラディア評議竜国の、王宮の一室。


書記官の控え室は夕方の光に染まっていた。


ゼラックは蝋燭に火を入れた。


窓の外はもう、薄暗かった。


四十代の、痩せた男だった。


書記官として二十年。


ハクレン王の、側で帳簿と書状を預かってきた。


王の私財と、商家との預かり金の、出入りを扱う仕事だった。


商人の駆け引きも、帳簿の作法も、二十年で身体に染み込んでいた。


しかし、ゼラック自身が商売をしたことは、なかった。


書記官として、ただ、見てきた。


机の上に商家からの預かり金の、革袋があった。


中には銀貨が入っていた。


明日、商家へ、戻されるはずの金だった。


ゼラックはしばらくその革袋を見ていた。


リーラの咳がまた、ひどくなっていた。


五歳の長女。


病弱で生まれた時から、長く生きないと、医者に言われていた。


それでも、リーラは生きてきた。


五歳まで生きてきた。


しかし、今度の咳は違った。


医者が首を横に振った。


「特効薬はある」


「しかし、銀貨で六十枚」


「それも、一回分」


「二回、飲ませなければ、効かない」


「一回だけではまた、戻ってしまう」


ゼラックの月給は銀貨十二枚だった。


家には銀貨二十枚しか、なかった。


妻のエルナが何年もかけて、貯めてきた金だった。


足りなかった。


四十枚、足りなかった。


ハクレン王は簡素な王だった。


絢爛な王座は要らないと言った。


華美な料理は要らないと言った。


給料は誠実に支払う、と言った。


書記官の給料も、誠実に支払われていた。


しかし、それで足りなかった。


一人の書記官の、家族の事情まで王は知らなかった。


王自身がそれを知ろうとしなかったわけではなかった。


ただ、書記官が口に出さなかった。


ゼラックは口に出さなかった。


家族のために王の慈悲を求めることは書記官の誇りに反すると、思っていた。


ハクレン王はそういう王だった。


書記官はそういう書記官だった。


それで長く平穏に来ていた。


しかし、今夜、それが崩れた。


ゼラックは革袋に手をかけた。


紐を解いた。


銀貨がこぼれそうになるのを抑えた。


四十枚を抜き取った。


それから、別の小さな袋に入れた。


革袋の口をもう一度結び直した。


重さがわずかに軽くなった。


しかし、明日の商家との取り引きで重さを量ることはない、はずだった。


帳簿を開いた。


墨をすった。


数字を書き換えた。


六十枚と、書かれていた箇所を二十枚に。


ペン先がわずかに震えた。


二十年、誠実に書いてきた帳簿だった。


その帳簿に初めて、嘘の数字を書き入れた。


ゼラックの目から、涙が一筋、落ちた。


しかし、書き上げた。



家に帰った。


エルナが玄関で迎えた。


「おかえりなさい」


ゼラックは何も、言わなかった。


ただ、小袋をエルナに渡した。


中の音でエルナはわかった。


顔が青ざめた。


「あなた」


「リーラの薬だ」


それ以上は言わなかった。


エルナは何かを言いかけた。


しかし、言わなかった。


ただ、小袋を両手で握りしめた。


奥の部屋から、リーラの咳が聞こえた。


医者を呼んだ。


特効薬を買った。


医者がリーラに薬を飲ませた。


リーラはその夜、深く眠った。


夜明け前、リーラが目を覚ました。


ゼラックが横にいた。


「お父さん」


リーラの声が出ていた。


「お腹、すいた」


その声は咳で潰れていなかった。


ゼラックの目から、涙がまた、落ちた。


エルナが隣で息を呑んでいた。


リーラに温かい粥を食べさせた。


リーラはもう一度眠った。


夜明けの光が家の窓に差し込んでいた。



朝、医者がもう一度、来た。


リーラを診た。


咳は止まっていた。


顔色も、戻っていた。


しかし、医者は首を傾げた。


「リーラさんの咳は今は止まっています」


「しかし、根は残っています」


「もう一回、特効薬が必要です」


「時を置かずに」


ゼラックは何も、言えなかった。


「銀貨、もう六十枚です」


医者がそれだけを告げて、帰った。


家には銀貨はもう、なかった。



その日の夕方、ゼラックは家に戻った。


エルナが卓に向かい合って、座った。


「あなた」


「うむ」


「商家のお金、明日、戻されるのよね」


「うむ」


「見つかる」


「いつかは」


ゼラックは頷いた。


「すぐに見つかるかもしれない」


「あるいは、しばらくわからないかもしれない」


「しかし、見つかる」


「私たち、どうするの」


「逃げる」


短く言った。


「東へ。帝国へ」


エルナがしばらくゼラックを見ていた。


「リーラの、薬が」


「もう一回、必要だ」


「サングラディアではもう、銀貨はない」


「商家の追求も、近い」


エルナが頷いた。


「帝国なら」


「闇市場で特効薬が安く手に入ると、聞く」


「身分を伏せて、働けば」


「もう一回分の薬代を貯められるかもしれない」


エルナがもう一度、頷いた。


「あなたは家族を救おうと、している」


「うむ」


「私はついていく」


「すまない」


「いいえ」


エルナは涙を流さなかった。


ただ、ゼラックの手を握った。



夜半、家を出た。


ジンが十歳の長男だった。


リーラを背負った。


リーラはまだ、薬の効きで眠っていた。


最低限の荷物だけをまとめた。


家を出た。


エルナが振り返った。


家を見た。


二十年、暮らした家だった。


庭に桃の木が植わっていた。


春には花が咲いた。


エルナの目に涙が滲んだ。


しかし、零れなかった。


「行きましょう」


エルナがゼラックを促した。


ゼラックも、振り返らなかった。


四人は夜の街道を東へ、歩き出した。

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