第44話 夜の余韻
夕方、ラシェルの邸に戻った。
夕日が邸の壁を染めていた。
リオルがその光に目を細めた。
何年も、まともに夕日を見ていなかった、という顔だった。
ティナはリオルの手を握ったまま、邸の門をくぐった。
侍女が二人を客間に案内した。
別々の客間だった。
ティナの部屋。
リオルの部屋。
廊下を挟んで向かい合っていた。
ティナが立ち止まった。
「あの」
侍女が振り返った。
「離れたく、ないです」
声が小さかった。
しかし、はっきりしていた。
侍女が困った顔をした。
その時、ラシェルが廊下に現れた。
「あら」
「お嬢様」
「この子が」
ラシェルがティナを見た。
「ティナ」
ティナがラシェルを見上げた。
ラシェルが軽く笑った。
「あなたはいま、何?」
ティナがしばらく考えた。
「あたしは──」
声が止まった。
ティナの目がリオルを見た。
リオルがティナを見ていた。
ティナがもう一度、口を開いた。
「あたしは商品ではない、ですか?」
ラシェルがティナを見た。
「ええ、そうよ」
「あなたはお客様」
「お客様」
ティナがその言葉を繰り返した。
「あなたも」
ラシェルがリオルを見た。
「お客様、ですか」
「はい」
リオルが深く頭を下げた。
ティナの目がまた、リオルの方に向いた。
「あの」
「離れたく、ないです」
ラシェルが頷いた。
その時、レイが口を開いた。
「ラシェル」
「はい」
「家族を引き離すのはよくない」
短い言葉だった。
ラシェルがレイを見た。
それから、侍女に言った。
「隣り合った部屋を二つ」
「あの突き当たりの、二つの部屋にしてください」
「扉を開けておいて、構いません」
侍女が頷いた。
「かしこまりました」
◇
夜が来た。
レイは自分の客間に戻っていた。
ティナとリオルは別棟の、隣り合った部屋にいた。
商会の邸が静かになっていた。
夜の音が外から、聞こえていた。
レイが寝台に身を横たえようとした。
その時。
廊下の方から、小さな音が聞こえた。
レイは寝台から、降りた。
扉を静かに開けた。
廊下に誰もいなかった。
燭台の火がいくつか、揺れていた。
しかし、別の扉の、向こうから、音が聞こえていた。
ラシェルの自室の方からだった。
レイが廊下を歩いた。
ラシェルの自室の、扉の前に来た。
ラシェルが泣いていた。
扉の、向こうから、聞こえていた。
押し殺した、しかし、止まらない、泣き声だった。
レイは立ち止まった。
しばらく何も、しなかった。
ただ、立っていた。
しかし、レイの中で何かが揺れていた。
百年前の記憶が動いていた。
百年前にも、誰かが泣いていた夜があった。
百年前の私は扉の前で立っていただろうか。
それとも、別の場所にいて、後悔しただろうか。
分からなかった。
記憶がそれを見せなかった。
レイの胸が軽く痛んだ。
心臓が一瞬、跳ねた。
レイは息を吸った。
ゆっくりと。
廊下の壁に片手を添えた。
冷たい石の感触。
それを感じた。
それだけを感じた。
息を吐いた。
もう一度、吸った。
もう一度、吐いた。
百年前の私も。
こうして、立ち止まり。
息を整え、感情の波を逸らしていただろう。
明日、生きるために。
今夜を過ごすために。
レイの胸の痛みが引いた。
心臓の跳ねが収まった。
しかし、揺れは消えなかった。
それは消す必要がなかった。
ただ、奥に届く前に逸らせばよかった。
レイは立ち続けた。
揺れたまま、立ち続けた。
ラシェルの泣き声が続いていた。
レイは何も、しなかった。
できることは何も、なかった。
ただ、ここに立つこと。
それしか、できなかった。
それでよかった。
何も、言わずに。
ただ、立ち続けた。
夜が深まった。
廊下の燭台の火が揺れた。
その火をレイは見ていた。
百年前にも、同じような火を見たことがあった。
名前は違うかもしれない。
しかし、火はいつも、同じだった。
──同じ火が百年前の、ある夜にも、灯っていた。
この夜から、長い夜が続いた。




