第43話 綺麗事は、好きだ
借金奴隷の区画。
レイが男の前で止まった。
男がようやく顔を上げた。
レイが奴隷商に声をかけた。
「この男も、譲り受けたい」
別の奴隷商が近づいてきた。
「銀貨五十枚で」
「商売に失敗した、元商人で」
ラシェルが銀貨を数えた。
その時。
奴隷商がわずかに口元を歪めた。
「お嬢様、最近はお優しゅうて」
「商会の利は大丈夫ですか」
グレイドが一歩、前に出た。
何も、言わなかった。
ただ、剣の柄に手を置いた。
触れただけだった。
抜こうとはしなかった。
奴隷商の口が止まった。
それから、慌てて、頭を下げた。
「失礼をしました」
ラシェルが銀貨を渡した。
リオルの鎖が外された。
リオルがようやく立ち上がった。
膝が震えていた。
しばらく誰も、口を開かなかった。
リオルがレイを見た。
「なぜ、私を」
声が低かった。
レイが軽くティナの方を見た。
「あの子が」
「お前を指した」
リオルがティナを見た。
ティナがリオルを見上げていた。
何も、言わなかった。
◇
市場の門を出た。
午後の日差しが強かった。
街の喧騒が戻ってきた。
ティナの小さな手がリオルの裾を握っていた。
リオルは生存率のために選んだ相手だった。
しかし、ティナはまだ、自分の状況を測っていた。
レイが立ち止まった。
ティナを見た。
リオルを見た。
しばらく何も、言わなかった。
ティナがレイを見上げた。
「お兄ちゃん」
声が小さかった。
これも、計算だった。
「お兄ちゃん」は家族の言葉だと、知っていた。
試しに口にした。
「あたしたち、どうなるの」
これも、計算のはずだった。
「私たち」と言うことで自分とリオルが一緒に扱われるよう、誘導する。
レイがティナの目を見た。
しばらく何も、言わなかった。
ティナは待った。
ティナがもう一度、声を出した。
「家族?」
その声が揺れた。
これは計算ではなかった。
出てしまった。
ティナの記憶が動いた。
近所のおばさんの、優しい声。
「家族がいなくなるとね、人でなくなるんだよ」
「奴隷になるんだよ」
「仕方のないことなの」
それから、ティナは奴隷になった。
人ではなく、なった。
「家族」と呼べる相手がいれば、自分は人に戻れるかもしれない。
本気でそう思っていた。
市場でずっと、考えていた。
レイが軽く笑った。
「呼びたいように呼ぶがよい」
ティナがしばらく動かなかった。
声が出なかった。
その言葉の意味が分かっていなかった。
あるいは、信じられなかった。
それから、もう一度、口にした。
「家族」
声が小さく、震えていた。
「お兄ちゃんは家族」
ティナの中で何かが戻った。
人ではなくなっていた、自分が家族を持つ、子供に戻った。
◇
リオルがそれを見ていた。
ティナの、震える小さな声。
ティナの、揺れる目。
リオルの、奥底で何かが軋んだ。
商人だった頃に知っていた。
人は商品になる。
家族でさえ、商品になる。
無償の救済など、ない。
必ず、裏がある。
ティナはそれを知らない。
十歳の少女が嘘を信じようとしている。
リオルの拳が握り締められた。
リオルが低い声で言った。
「綺麗事を言うな」
声は静かだった。
しかし、リオルの拳が握り締められていた。
爪が掌に食い込んでいた。
レイがリオルを見た。
「子供が何を知っている」
ティナがリオルの裾を握る手を強くした。
リオルはそれに気づかなかった。
あるいは、気づいて、気づかないふりをした。
リオルが続けた。
顔は俯いていた。
「私は」
「商売に失敗して」
声が止まった。
「家族を売り飛ばした男だ」
リオルの目が地面を見ていた。
しかし、その目は地面を見ていなかった。
どこか、遠いところを見ていた。
「妻と、子の」
「最後の顔を覚えている」
声が低い。
「妻は何も言わなかった」
「子は泣いていた」
「私はそれを見ていることしか、できなかった」
しばらく誰も、口を開かなかった。
市場の喧騒が遠く、聞こえていた。
午後の日差しがリオルの俯いた額に当たっていた。
「綺麗事を口にする資格は」
「私にはない」
リオルがようやく顔を上げた。
レイをまっすぐ、見た。
◇
レイがしばらく黙っていた。
風が吹いた。
ティナの髪がわずかに揺れた。
ティナはリオルの裾を握ったまま、二人を交互に見ていた。
レイがティナの方を見なかった。
リオルから、目を外さなかった。
しばらくして、レイが口を開いた。
「綺麗事は、好きだ」
声は静かだった。
平たい声だった。
強がってもいなかった。
気取ってもいなかった。
ただ、そう思っている、という声だった。
リオルがレイを見た。
「汚いより、綺麗な方が」
「心地よい」
レイがわずかに首を傾けた。
それから、もう一度、リオルを見た。
「すまんな」
リオルがレイを見ていた。
「お前の苦しみは私には分からん」
「分からんが私は綺麗な方が好きだ」
「だから、お前にも、綺麗事を言う」
「お前がそれを綺麗事と感じても」
「私はそれを変えん」
しかし、レイの胸が軽く痛んでいた。
リオルの過去がレイの中で響いていたから。
妻と子の、最後の顔。
それは想像でしか、なかった。
しかし、想像が揺らぎを呼んでいた。
レイは息を整えていた。
ゆっくりと。
将来のことは考えなかった。
リオルがどう感じるか。
この言葉がどう届くか。
そういう計算はしなかった。
計算はできなかった。
計算しようとすると、揺らぎが大きくなる。
ただ、いま、本当だと思うことを言った。
「綺麗事は、好きだ」
それは本当だった。
いま、本当だった。
明日のことはわからない。
魔核がいつ、限界を迎えるかも、わからない。
他の誰にも、感じ取れない感覚だった。
明日、自分がここにいるかも、わからない。
だから、今、本当だと思うことを言う。
それしか、できない。
「すまんな」の三つ目の意味。
声にはならなかった意味。
お前には明日がある。
私にはないかもしれない。
将来を考える贅沢が私には許されていない。
だから、今、こうやって、押し付けるしかない。
すまんな、というのはそういうことだった。
レイの口元は動かなかった。
目も、動かなかった。
姿勢も、崩れなかった。
子供の身体だった。
しかし、その目は子供の目ではなかった。
何かを長く見てきた目だった。
◇
リオルが自分の拳を見た。
握り締めた、自分の拳を。
それから、その拳をゆっくりと開いた。
掌に爪の跡が残っていた。
「……」
リオルが息を吐いた。
長く、ゆっくりと。
リオルがレイを見ていた。
レイの目を見ていた。
レイの目は揺れていなかった。
姿勢も、崩れていなかった。
しかし、その身体の、奥に。
かすかに何かが動いていた。
息を整えている。
わずかな、間。
その間がレイの内側で何かを逸らしていた。
リオルにはそれが見えた。
商人として、人を長く見てきた目だった。
嘘をついている男の、目ではなかった。
裏のある、施しの、目でも、なかった。
リオルが商人だった頃に見てきた、どんな目とも、違っていた。
この子供は揺れている。
しかし、引かない。
揺れたまま、引かない。
強がりではなかった。
飾りでも、なかった。
怒りでも、なかった。
ただ、選んでいた。
震えながら、選んでいた。
そして、貫いていた。
とても、長い時間をこうしてきた者の、姿だった。
百年も、選んできたかのような。
リオルの、膝がわずかに緩んだ。
リオルの膝が折れた。
立っていられなかった。
身体から、力が抜けていた。
地面に片膝をついた。
それから、もう片方の膝も。
リオルが両手を地面についた。
ティナの裾を握っていた手も、解けていた。
ティナがリオルを見下ろしていた。
リオルの目から、涙が流れていた。
止まらなかった。
「……ありがとうございます」
声が震えていた。
「ありがとうございます」
もう一度。
「ありがとうございます」
何度も。
リオルにはそれしか、言えなかった。
リオルの内面で何かが崩れていた。
こんな考えをもつ人間がいること。
それが信じられなかった。
こんな幸運が自分のような男に訪れたこと。
それも、信じられなかった。
「ありがとうございます」
何度言っても、足りない気がした。
言葉が貧しすぎた。
しかし、それしか、出てこなかった。
レイは何も、言わなかった。
ただ、リオルを見ていた。
ティナがしゃがんだ。
リオルの隣に。
何も、言わずに。
ティナの小さな手がリオルの背中に軽く触れた。
ティナはリオルの「家族を売り飛ばした」という言葉を聞いていた。
ティナの両親が死んだ時、近所のおばさんはティナを売った。
売った側と、売られた側がここに揃っていた。
でも、いまは両方が家族として、地面に座っていた。
ティナにはそれが不思議だった。
しかし、不思議のまま、受け入れた。
手を添えた。
リオルの泣き声が続いた。
◇
午後の市場の、外で。
冒険者三人が目を伏せていた。
ラシェルがそこに立ち尽くしていた。
ラシェルがリオルを見ていた。
立てなくなった男を。
泣きながら「ありがとうございます」を繰り返す男を。
それから、ラシェルはレイを見た。
レイはリオルの前に立っていた。
姿勢を崩さなかった。
目も、揺れなかった。
表情も、変わらなかった。
子供の身体だった。
小さな、十歳ほどの身体。
しかし、揺るがなかった。
迷いがなかった。
まっすぐ、立っていた。
ラシェルの息が止まった。
迷いのない姿。
ラシェルが二十五年、見たことのない姿だった。
ラシェルの内面で何かが湧いた。
ラシェルの二十五年は迷いと、妥協で出来ていた。
「会長代理として」
「商会の、存続のために」
「今日を生き延びるために」
そう言って、自分を許してきた。
それでも、汚れていた。
一晩、一晩、汚れていった。
しかし、目の前のこの子供は。
迷っていない。
妥協していない。
ただ、選んだことを貫いている。
それは綺麗だった。
本当に綺麗だった。
ラシェルの目に涙が滲んだ。
しかし、零れなかった。
ラシェルが唇を噛んだ。
ラシェルがティナを見た。
栗色の髪の、十歳の少女。
リオルの隣にしゃがんで。
リオルの背中に小さな手を添えていた。
ラシェルの中で何かが動いた。
ティナの、小さな手の、添え方。
それが別の、誰かと、重なりかけた。
しかし、ラシェルはそれを見ない、ようにした。
ここで見てはいけない。
人前でそれを思い出してはいけない。
ラシェルの目の縁がわずかに震えた。
しかし、涙は零れなかった。
会長代理として、人前で泣くことはできなかった。
ミルがラシェルの隣に立った。
何も言わずにラシェルの手を軽く握った。
長い付き合いの、無言の支え。
ミルには伝わっていた。
ラシェルがいま、どれほど、堪えているか。
グレイドが目を伏せた。
アルヴィスが空を見上げた。
ラシェルがしばらく立ち尽くしていた。
ティナがラシェルを見ていた。
自分のせいで泣いていることは分からなかった。
しばらくの後。
一行が商会へ、向けて、歩き出した。
夕方の日差しが街を染めていた。
ティナの小さな手はもう、リオルの裾を離していた。
代わりにティナの手はリオルの手を握っていた。
リオルはそれを振り払わなかった。




