第42話 ヴィルガスという男
ラシェルが執務室に四人を招いた。
セルジオが五人分のお茶を運んできて、退いた。
椅子に座った。
レイ。
ラシェル。
グレイド。
ミル。
アルヴィス。
ラシェルがお茶をしばらく見ていた。
それから、口を開いた。
「少し、お話をします」
「私は両親が亡くなった後、二十歳で会長代理を引き継ぎました」
ラシェルの声は静かだった。
「父が何かを志半ばで亡くなったことは」
「レイ様にも、お話しした通りです」
レイが頷いた。
「商会を守るための、妥協を重ねました」
ラシェルがお茶に手を伸ばさなかった。
ただ、机の上を見ていた。
「ある春の日」
「一人の獣人の少女を見捨てました」
短い間があった。
「親が借金を返せず、商品にされた子でした」
「私が契約に印を押しました」
ミルが息を呑んだ。
短く、しかし、明確に。
ラシェルはそれに気づいた。
しかし、目は合わせなかった。
ただ、続けた。
「あの子が今、どこにいるのかは」
「分かりません」
グレイドが目を伏せた。
アルヴィスは微動だにしなかった。
ラシェルが続けた。
「数年前、奴隷取引をやめました」
少し、声が揺れた。
「自分が自分でいられなく、なって」
「数字を見るのが苦しい日が続いています」
ラシェルの視線が机の右端の、革袋に落ちた。
古い、すり切れた革袋。
今日も、いつもの場所に置かれていた。
「祖父様から、会長就任の、打診をいただいています」
「しかし、私が商会を率いていい人間か」
「分かりません」
しばらく誰も、口を開かなかった。
レイがお茶を一口、含んだ。
湯気はもう、立っていなかった。
冷めかけていた。
それから、ぽつりと言った。
「奴隷取引をやめた」
ラシェルがレイを見た。
「それは変わらない事実だ」
短い言葉だった。
しかし、ラシェルの中で何かが止まった。
「ありがとうございます、レイ」
呼び方が変わった。
「レイ様」ではなく、「レイ」。
敬語は崩れなかった。
レイはそれに気づいた。
何も、言わなかった。
◇
しばらくの沈黙の後。
ラシェルが続けた。
「市場にはもう一つ、お話しすべきことが」
レイが頷いた。
「うむ」
「ヴィルガスという、大商人がおります」
「奴隷貿易の、主軸の一人です」
「商国の市場の、半分以上はヴィルガスの手の中にあります」
ラシェルがお茶を見た。
「私が奴隷取引をやめた時」
「ヴィルガスは何も、言いませんでした」
「しかし、目は覚えています」
「あの目はいつか、こちらに向いてくる目です」
レイが頷いた。
「うむ」
それ以上、誰も、口を開かなかった。
冷めた茶が五つ、机の上に残っていた。
誰も、それに手を伸ばさなかった。
夜が来た。
◇
翌朝、レイがラシェルの執務室に現れた。
冒険者三人も、一緒だった。
ラシェルがまだ、机に向かっていた。
顔を上げた。
「レイ」
「おはようございます」
「うむ」
「いかがされましたか」
レイがしばらくラシェルを見ていた。
それから、口を開いた。
「昨日の、児童奴隷の区画」
「あの少女を譲り受けたい」
ラシェルがレイを見た。
栗色の長い髪、観察的な灰色の瞳の、小柄な少女。
ラシェルも、覚えていた。
ラシェルはしばらく動かなかった。
それから、立ち上がった。
「では参りましょう」
◇
奴隷市場へ、再び、向かった。
道中、誰も、多くは話さなかった。
ミルが一度、レイに目を向けた。
何かを言いかけた。
しかし、止めた。
ただ、レイの隣を歩いた。
児童奴隷の区画。
ティナは昨日と、同じ場所にいた。
昨日と、同じように観察的な目で市場を見ていた。
レイがティナの前で止まった。
ティナがレイを見上げた。
ティナの内面で何かが動いた。
昨日、自分の前で止まった、小柄な、姿勢の崩れない、子供。
それが戻ってきた。
しかし、ティナは表情を変えなかった。
市場で覚えた処世術。
表情は変えない。
奴隷商が近づいてきた。
「ご覧の通りの、お品で」
レイが奴隷商を見た。
「この子を譲り受けたい」
「銀貨二十枚です」
「家族を失った、行き場のない児で二週間、ここにおります」
「うむ」
ラシェルが銀貨を数えて、奴隷商に渡した。
取引が成立した。
奴隷商がティナの鎖を外した。
ティナの内面で計算が動いた。
市場から、出られる。
救った後、何を要求するかは分からない。
しかし、市場から、出られる。
それは事実だ。
ティナは表情を変えなかった。
ティナがレイを見上げた。
しばらく何も、言わなかった。
それから、小さな指が別の方向を指した。
「もう一人、いる」
声が小さかった。
しかし、はっきりと、聞こえた。
ティナの指は借金奴隷の区画の方を指していた。
これも、計算だった。
一人で外に出されるより、二人の方が生存率が高い。
ティナはそれを知っていた。
レイがティナの指す方を見た。
背中を丸めた、中年の男。
昨日も、見た男。
「うむ」
「分かった」




