第41話 あの春の日
夕方、商会の門前で馬の蹄の音がした。
冒険者三人が王国への商隊護衛から、戻ってきていた。
半月。
ぴたりと、グレイドが告げた通りの日数だった。
レイが玄関で迎えた。
グレイドが先に降りた。
旅装は土埃で薄汚れていたが
歩く姿はいつも通り、揺るがなかった。
ミルが馬を厩に引いていった。
アルヴィスが無言で荷を下ろし始めた。
「坊主」
グレイドがレイを見た。
「変わりはないか」
「ない」
「そうか」
短い、いつもの会話だった。
◇
夜、商会の客間。
グレイドが椅子に深く座った。
ようやく旅装を解いた後だった。
「報告だ」
レイが頷いた。
「王都は静かだった」
ミルが横でお茶を注いでいた。
「『静か』というのは」
レイが問うた。
「お前を嗅ぎ回ってる連中はいた」
グレイドが湯気の立つ茶碗に手を伸ばした。
「ただ、ベルナード様がすでに抑え込んでおられる」
レイの目がわずかに動いた。
「王子はまだ、お前の名前を口にしているらしい」
「しかし、公爵家の壁は厚い」
ミルが続けた。
「直接の手出しは難しいかと」
レイが軽く頷いた。
「それから」
グレイドが茶を一口、含んだ。
「公爵家の使いに会った」
レイが顔を上げた。
「フェリク様はサングラディアの学校に行く準備をしていたようだ」
レイの目の奥がわずかに動いた。
「アシェ嬢はご家族の店をよく、手伝っていると」
「うむ」
レイの目の奥がわずかに和らいだ。
アルヴィスが初めて、口を開いた。
「平穏だった、ということだ」
「うむ」
レイがもう一度、頷いた。
◇
朝、ラシェルが提案した。
「レイ様、本日、市場へ、ご案内したく」
レイが頷いた。
「うむ」
「商国の現実を見ておいていただきたく」
「冒険者の皆様にも、ご同行いただければ」
グレイドが頷いた。
「いいぞ」
ミルが軽く首を傾げた。
「市場って、奴隷市場?」
「はい」
ラシェルの声はいつも通りに静かだった。
街道を五人で歩いた。
朝の街はすでに商売の声で満ちていた。
荷を運ぶ馬車が何台も、すれ違っていった。
道中、誰も、多くは話さなかった。
グレイドが一度だけ、ぽつりと口を開いた。
「ラシェル」
「市場見学はお前から提案したのか」
「ええ」
「レイ様には商国の現実を見ておいていただきたくて」
グレイドが軽く頷いた。
ミルがラシェルの口調の変化にわずかに気づいた。
以前より、レイへの距離が少し、近い。
しかし、何も言わなかった。
ただの観察として、流した。
奴隷市場の入り口に検問があった。
門兵が五人の身分を確認した。
ラシェルの顔を見て、門兵は深く頭を下げた。
「ラシェル様、いつもお世話になっております」
「どうぞ、お通りを」
五人が市場に入った。
市場の中は複層的だった。
最も奥の区画に戦争捕虜の奴隷。
次の区画に借金奴隷。
別の区画に児童奴隷。
さらに別の区画に獣人奴隷。
それぞれの区画にそれぞれの「商品」が並んでいた。
商人たちが品物を選ぶように奴隷を見ていた。
時々、奴隷の口を開けて、歯を確認する者もいた。
時々、奴隷の腕を持って、筋肉を確かめる者もいた。
奴隷たちはほとんど、声を出さなかった。
ただ、立っているか、座っているか、していた。
レイはそれを見ていた。
百年前の記憶が揺れた。
百年前にも、奴隷市場はあった。
しかし、私の国では王として、私自身が奴隷制度を禁じた。
ここは違う国だった。
◇
児童奴隷の区画。
身寄りのない子供たちが鎖で繋がれていた。
大半は怯えていた。
泣いている子もいた。
顔を伏せて、誰の方も、見ない子もいた。
その中で一人だけ、違う子がいた。
栗色の長い髪。
少し縺れている。
淡い灰色がかった瞳。
痩せていて、年齢の割に小柄だった。
その子だけが観察的な目で市場を歩く人々を見ていた。
レイがその子の前で止まった。
ティナがレイを見た。
レイもティナを見た。
しばらく目だけが動いた。
レイは何も言わなかった。
やがて軽く頷いて、その場を離れた。
レイが歩き出した後。
胸の奥で何かが沈んでいた。
百年前、私が見た、別の市場の景色と、重なっていた。
しかし、レイは何も口にしなかった。
表情も、変えなかった。
ただ、歩いた。
◇
借金奴隷の区画。
背中を丸めた中年の男が座っていた。
四十代ほど。
かつては身なりがよかった、と、わかる服を着ていた。
しかし、今は汚れていた。
男は誰の方も、見ていなかった。
ただ、地面を見ていた。
レイがその男の前を通り過ぎた。
何も言わなかった。
しかし、目には留めた。
市場を出た。
戻り道、誰も、口を開かなかった。
朝の喧騒はすでに商人たちの歌声に変わっていた。
昼の街の音だった。
しかし、五人の中でその音は遠かった。
商会に戻った。




