第40話 明日のこと
ラシェルがしばらく机の上の革袋を見ていた。
レイが執務室を出た。
扉を閉めた。
廊下を歩いた。
窓から、夕方の光が入っていた。
レイは立ち止まった。
胸がわずかに痛んだ。
ラシェルの顔がまだ、目の前にあった。
「契約のことではない」と告げた、自分の声。
それが揺れていた。
本当によかったのか。
子供の口から、こんな問いを発することが。
私は百年前の記憶を使っているのか。
レイは息を吸った。
ゆっくりと。
窓辺の壁に片手を添えた。
冷たい石の感触。
それを感じた。
それだけを感じた。
息を吐いた。
もう一度、吸った。
もう一度、吐いた。
考えなかった。
将来のことは考えなかった。
ラシェルがどう動くか。
私の問いがどう響くか。
そういうことは考えなかった。
ただ、いま、私が正しいと思ったから、言った。
それでよかった。
明日のことはわからない。
魔核がいつ、限界を迎えるかも、わからない。
他の誰にも、感じ取れない感覚だった。
明日、自分がここにいるかも、わからない。
胸の痛みが引いた。
心臓の跳ねが収まった。
しかし、揺れは消えなかった。
それは消す必要がなかった。
ただ、奥に届く前に逸らせばよかった。
レイはもう一度、息を吐いた。
それから、廊下を歩き始めた。
◇
夜、ラシェル一人の執務室。
燭台の火が揺れていた。
机の上の革袋。
ラシェルが革袋を取り出した。
紐を解いた。
中の紙片を取り出した。
四行をまた、読んだ。
何度も読んできた言葉。
しかし、いまは違って見えた。
「目の前の者を救う」
「全員を救おうとはするな」
ラシェルが紙片を見つめた。
五年前、私は目の前の家族を救った。
しかし、その後を見ていなかった。
「目の前の者を救う」とはその後も、見続けることなのか。
それとも、救ったら、それで離れるのが正しいのか。
分からなかった。
ラシェルが紙片を革袋に戻した。
革袋を机に置いた。
燭台の火をしばらく見ていた。
◇
数日後の夜。
執務室でラシェルがまだ書類を見ていた。
遅い時間だった。
侍女たちはもう寝ていた。
扉が軽く叩かれた。
「失礼する」
レイがお茶を運んできた。
ラシェルが顔を上げた。
「レイ様」
「こんな時間に」
「うむ、寝る前にお前が起きていそうだったから」
「お茶を淹れた」
湯気の立つ茶器を机に置いた。
レイが向かいの椅子に座った。
椅子はレイには大きかった。
足が届かなかった。
いつもの構図だった。
しばらく二人とも何も言わなかった。
夜の商会。
遠くで犬が鳴いていた。
ラシェルがぽつりと言った。
「父は五年前に亡くなりました」
レイがラシェルを見た。
何も言わずに頷いた。
「母も、その後すぐに」
短い間があった。
「父は何かを志半ばで」
ラシェルが言葉を切った。
「私にはまだ、それが何だったのか、分かっていません」
レイがしばらく聞いていた。
何も口を挟まなかった。
ラシェルがレイを見た。
「あなたはご両親を?」
レイが頷いた。
「父は私が生まれる前に流行り病で」
「……」
「母は私が幼い頃に」
短い応答だった。
詳細は語らなかった。
ラシェルがしばらく動かなかった。
「そう」
「ごめんなさい、聞いて」
「いや」
レイが首を軽く振った。
しばらく誰も口を開かなかった。
燭台の火が揺れていた。
夜の商会の喧騒が遠く聞こえていた。
レイが口を開いた。
「ラシェル」
「はい」
「ご両親と過ごせたこと」
「それは宝だな」
ラシェルがハッとした顔をした。
何かを言いかけて、止めた。
唇がわずかに動いた。
しかし、声にはならなかった。
ラシェルが視線を机の上の革袋に落とした。
古い、すり切れた革袋。
紐で閉じられている。
机の右端にいつも置かれている、それ。
ラシェルがしばらくそれを見ていた。
それから、目を上げた。
「ありがとうございます」
短い言葉だった。
レイは何も言わなかった。
ただ、頷いた。
しばらく誰も口を開かなかった。
レイが立ち上がった。
「夜更かしはよくない」
「私はこれで」
「はい」
ラシェルが小さく頷いた。
レイが扉の方へ歩いた。
椅子から降りる時、レイの足が床に届いた。
小さな靴の音が執務室に響いた。
ラシェルがその音を聞いていた。
扉が閉まった。
ラシェルが机の上の革袋をもう一度見た。
百年の手垢が染みた、古い革袋。
何度も読んできた、四行の言葉。
しかし、まだ、行動にはなっていなかった。
ラシェルが息をひとつ吐いた。
しかし、いまは違った。
何かが動き始めていた。




