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第39話 商国の春

商国に到着してから、約一ヶ月が経っていた。


冷たい風はもう吹いていなかった。


中庭の桜のような花が咲いていた。


気温も、上がっていた。


レイは商会で過ごす日々に慣れていた。


朝、廊下を歩く侍女たちがレイに頭を下げる。


「おはようございます、レイ様」


レイが軽く頷く。


「うむ」


小さな所作の積み重ねがラシェルの邸をレイの居場所にしていた。


冒険者三人は王国への商隊護衛に出ていた。


依頼主は商人バラック。


年配の隊商主だった。


ベルナードの差配で繋がっている。


出立の朝、グレイドがレイの前に立った。


「坊主、王国へ商隊の護衛で出る」


レイが頷いた。


「バラックの隊だ。半月で戻る」


短い間があった。


グレイドが声を落とした。


「ついでに王都の様子を探ってくる」


「お前のことを嗅ぎ回ってる連中がいるかどうか」


レイがグレイドを見た。


「ベルナード様の差配だ」


「お前を送り出す前から、決まっていた」


レイは無言でもう一度頷いた。


「お前はここでラシェルを頼む」


「分かった」


短い別れだった。


三人が街道へ出ていった。



ある朝、レイが執務室で書類の束を見ていた。


ラシェルが書状を書いていた。


しばらく二人とも何も言わなかった。


静かな時間だった。


ラシェルがふと顔を上げた。


「レイ様」


レイが顔を上げた。


「うむ」


「商会の仕事、退屈ではないですか」


「いや」


「興味深い」


「そうですか」


ラシェルが少し笑った。


柔らかい笑いだった。


レイがぽつりと言った。


「お前はよく働く」


「会長代理ですから」


「うむ、しかし、よく働く」


ラシェルが何かを言いかけて、止めた。


「ありがとうございます」


短い対話だった。


しかし、何かが軽く動いていた。



午後、ラシェルとレイが中庭を歩いていた。


特に目的はなかった。


ラシェルが少し休憩を取りたかった、というだけだった。


桜のような花が頭の上で揺れていた。


「祖父様はサングラディアにいらっしゃいます」


レイは黙って聞いていた。


「正式な会長は祖父様です」


「私は商国支部の会長代理に過ぎません」


レイが軽く頷いた。


ラシェルが空を見上げた。


「祖父様は時々、創業の頃の話をしてくださいます」


「曽祖父がサングラディアの王に救われたと」


「ハクレン王、という方だったそうです」


「百年も前の話ですけれど」


レイが止まった。


しばらく何も言わなかった。


百年前の記憶が深く動いた。


ゼラック。


百年前の森で別れた一人の書記官の顔。


それがいま、目の前のラシェルの祖父の祖父として、繋がった。


レイが軽く頷いた。


「うむ」


「いい王だったろう」


ラシェルが不思議そうにレイを見た。


「ご存じなのですか」


「祖父から、聞いた」


嘘ではなかった。


ベルナードからも聞いていた。


ラシェルが少し笑った。


「そういえば、サングラディアでは今もハクレン王の名前がよく出るそうですね」


レイはそれには答えなかった。


短い間があった。


「祖父様はその方の言葉を大切にしていらっしゃるそうです」


「商家の家訓のようなものをその方の言葉として、伝えているのだとか」


「そうか」


短い応答だった。


何かを聞きたそうな様子は見せなかった。


ラシェルが頷いた。


「私はまだ、その家訓を受け取っていません」


「正式な会長になれば、祖父様から渡されるそうです」


「うむ」


二人は中庭を歩き続けた。


桜のような花がぱらぱらと、地面に落ちていた。



午後、レイが中庭から商会の入り口の方を見ていた。


配達の馬車が止まっていた。


運搬人が荷物を運び込んでいた。


運搬人は中年の男だった。


日焼けして、痩せていた。


年は四十前後。


服はくたびれていたが清潔だった。


男がセルジオに荷物を渡していた。


受け取りの確認。


普通の業務だった。


その時。


ラシェルが二階の執務室から、たまたま窓を開けた。


風を入れたかっただけだった。


窓辺で書類から目を上げて、外を眺めた。


運搬人がラシェルの姿を見た。


荷物を渡し終えた直後だった。


顔を上げて、二階の窓を見た。


ラシェルと目が合った。


運搬人がその場で深く頭を下げた。


道の真ん中で。


土の上に額をつけそうなほど深く。


ラシェルは男を知らなかった。


顔も覚えていなかった。


困惑した。


「あの、お顔を上げてください」


男が顔を上げた。


「ラシェル様」


「五年前、お助けいただいた者です」


「妻と、子と、奴隷にならずに済んだ家の者です」


声が震えていた。


ラシェルがようやく思い出した。


五年前の、ある契約。


一人の男を商会の常雇いとして雇うことで彼の家族の奴隷化を防いだ。


契約の場にはラシェルは出ていなかった。


セルジオが代行した。


男の顔は知らなかった。


「ご無事でいらっしゃって、嬉しゅうございます」


「妻も、子も、おかげさまで元気にしております」


「上の子はもう、十二歳になりました」


ラシェルが何を言えばよいか、分からなかった。


「あの──」


「お、お元気で何よりです」


男がもう一度、頭を下げた。


「お時間を取らせて、申し訳ありません」


「ご無事で嬉しゅうございました」


そして、足早に去った。


ラシェルがしばらく窓辺で動けなかった。


レイは中庭から、その一部始終を見ていた。



夕方、執務室。


ラシェルが書類を見ていた。


しかし、目が動いていなかった。


レイがお茶を運んだ。


湯気の立つ茶器を机の隅に置いた。


「ラシェル」


呼んだ。


「ラシェル殿」ではなく「ラシェル」と。


自然に出た。


ラシェルが顔を上げた。


「レイ様」


敬語は崩れなかった。


「今朝の男はお前が雇った者か」


「はい」


「五年前、奴隷ではなく、商会の常雇いとする契約を結びました」


「家族が奴隷にならずに済むように」


「うむ」


「よく考えたな」


「ありがとうございます」


ラシェルが少し笑った。


薄く、しかし誇らしげな笑いだった。


レイが茶を一口含んだ。


しばらく何も言わなかった。


それから、口を開いた。


「あの男の暮らしはいまもよいのか」


「契約通りに働いてくれています」


「契約のことではない」


ラシェルがレイを見た。


「あの男と、家族の暮らしはいまもよいのか」


ラシェルがしばらく答えられなかった。


「……分かりません」


声が小さかった。


「うむ」


「分かる方がよいのではないか」


ラシェルが何かを言いかけて、止めた。


茶器に手を伸ばすが触れずに引き戻した。


「いや、責めているのではない」


「お前は家族を奴隷にせずに済ませた」


「それは立派な仕事だ」


「ただ、その後の暮らしも、見ておけば、もっとよい」


ラシェルが頷いた。


「……はい」


声がわずかに揺れた。


しかし、敬語は崩れなかった。


レイが立ち上がった。


「私はこれで」


茶器を残して、執務室を出た。

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