第38話 商会の朝
商国に来てから、数日が経っていた。
レイは商会の朝にも、慣れてきていた。
朝、目を覚ます。
顔を洗い、身支度を整える。
廊下に出ると、もう、商会の朝の音が聞こえている。
帳簿をめくる音。
階下から運ばれてくる荷物の音。
取引業者を案内する声。
商会は朝から、すでに動いていた。
ラシェルの一日はその音より、さらに早く始まっていた。
レイは商会の日常に馴染みつつあった。
しかし、誰もが平静なわけではなかった。
◇
午後、遅く。
レイが廊下を歩いていた。
向こうから、若い侍女が水差しを運んできた。
手がわずかに震えていた。
顔色も、悪かった。
しかし、仕事は普通にこなしていた。
すれ違う者は誰も、気づかなかった。
レイが廊下で侍女とすれ違った。
侍女が深く頭を下げた。
「失礼いたしました」
声がわずかに揺れていた。
レイは何も言わなかった。
軽く頷いただけだった。
しかし、目には留めた。
◇
夕方、執務室。
ラシェルが書類を片付けていた。
扉が静かに開いた。
レイがお茶を運んできた。
侍女が運ぶはずだったお茶を自ら運んできた。
「セルジオに運んでもらえばよかったのに」
ラシェルが驚いた。
「うむ、しかし、運んでみたかった」
レイが机の向かいに座った。
椅子はやはり、レイには大きかった。
しばらく沈黙が流れた。
それから、レイがぽつりと言った。
「あの侍女は何かあったのだろうか」
「元気がないな」
廊下を歩いていた侍女のことだった。
名前は出さなかった。
しかし、ラシェルには分かった。
ラシェルが手を止めた。
「あら、そうでしたか」
「気づきませんでした」
少し間を置いてから、続けた。
「聞いてみますね」
「うむ」
それ以上、何も言わなかった。
ラシェルの内心で何かが動いていた。
(朝の侍女のことね)
(よく見ているのね)
ラシェルは軽く驚いていた。
「変な貴族の子」だと思っていた。
それがいま、「妙に物事を見ている子」に変わっていた。
しかし、その認識はまだ、ラシェルの内側だけにあった。
口には出さなかった。
◇
夕食前、ラシェルが侍女に声をかけた。
侍女ピア。
二十歳ほど。
ピアが立ち止まった。
「ピア、最近、何か困っていることは」
ピアが顔を上げた。
目が潤んだ。
しばらく話せなかった。
それから、ぽつりぽつりと話した。
「実家の母が流行り病に」
「兄が看病していますが薬代が」
「ご奉公先にご迷惑をかけてはと、黙っておりました」
ラシェルが頷いた。
「すぐに帰りなさい」
「薬代は商会から前借りでよい」
「給金から、ゆっくり返せばいい」
ピアが涙を流した。
「ありがとうございます」
ラシェルは何も言わなかった。
ただ、ピアの肩に軽く手を置いただけだった。
ピアが深く頭を下げた。
◇
夜、レイが客間に戻った。
窓を開けた。
夜の風が入ってきた。
レイがしばらく窓の外を見ていた。
百年前の記憶が薄く動いた。
百年前、私も、酒場で気落ちした者を見て、声をかけていた。
「あの男は何かあったのだろうか」と、店主に囁いていた。
しかし、レイは何も独白しなかった。
ただ、窓を閉めた。
寝台に身を横たえた。
百年前と、いまと、同じ風が吹いていた。




