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第37話 革袋

ある朝、レイが廊下を歩いていた時。


執務室の扉がわずかに開いていた。


レイが何気なく中を見た。


ラシェルが机の前に立っていた。


まだ、座っていなかった。


机の右端に古い革袋が置かれている。


ずいぶんと古いものだった。


持ち手が擦れている。


革の色は年月で褪せている。


ラシェルがその革袋に軽く触れた。


指先がほんの一瞬革に触れた。


ただ、それだけだった。


それから、ラシェルは席に着いた。


書類の束を引き寄せた。


レイは何も言わなかった。


ただ、そのまま、廊下を通り過ぎた。


しかし、目には留めた。


百年前の記憶が薄く動いた。


百年前、祖父ベルナードが若い頃、家督を継ぐ前。


毎朝、母の遺品に触れていた、と聞いたことがあった。


人が人として立ち続けるために触れるものがある。


レイは表に出さなかった。


ただ、革袋を覚えた。



午前、商会の倉庫。


ラシェルが定期取引の仕入れ品を検品していた。


革製品の業者が立ち会っていた。


セルジオが横で帳簿を確認していた。


レイは少し離れた場所で見ていた。


セルジオに案内されてきていた。


ラシェルが革の山を一つ取り上げた。


触る。


表と裏を見る。


光に透かす。


「ジェナス殿」


ラシェルの声は静かだった。


しかし、冷たかった。


「この束、半分以上が二級品です」


「契約は一級品で価格を決めましたね」


業者ジェナスが慌てた。


「い、いえ、それはその──」


「先日まで雨が続きまして、保管が」


「最後の仕入れ分が混じってしまったかと」


「保管の問題なら、業者の負担です」


「全量を引き取り、一級品で再納入してください」


「期限は明後日まで」


「価格は契約通り、変更しません」


ジェナスが青ざめた。


「し、しかし──」


「明後日までにはとても」


「あるいは、契約解除でも構いません」


「他の業者にあたります」


ラシェルの声に揺らぎはなかった。


表情も変わらなかった。


ジェナスがしばらく動けなかった。


それから、深く頭を下げた。


「明後日までに必ず」


「申し訳ありません」


「では明後日に」


短い別れだった。


ジェナスが倉庫を去った。


セルジオが帳簿に書き込んだ。


レイは何も言わなかった。


ただ、見ていた。


ラシェルが机に戻った。


革袋に再び、軽く触れた。


無意識の所作だった。


レイはそれも、見ていた。



午後。


セルジオがレイを別の倉庫に案内した。


「こちらは商会の長期保管庫です」


「古い帳簿、創業期の道具などが保管されています」


倉庫の奥は薄暗かった。


木箱が積まれている。


古い木の匂いがした。


セルジオが一つの木箱の蓋を開けた。


中には古い帳簿の束、印章、計量器具などが並んでいた。


「これは創業者ゼラック様の頃のもの、と聞いています」


セルジオが慎重に取り出した。


セルジオが取り出したのは小さな測量器具だった。


金属製。


手のひらに収まる大きさ。


年代を経て、わずかに錆が浮いていた。


しかし、形は変わっていなかった。


レイがそれを見た。


しばらく動かなかった。


百年前の記憶が動いた。


百年前、サングラディアの市場で。


職人が同じ型の測量器具を使っていた。


百年前、私が「これはよくできているな」と呟いた、その同じ型だった。


百年前のサングラディアから、商国に渡ったものか。


あるいは、商国で作られて、サングラディアに渡ったものか。


レイが静かに尋ねた。


「触れても、よいか」


「もちろんです」


レイが手を伸ばした。


測量器具を持ち上げた。


冷たい金属の感触。


百年の時間が手のひらに伝わってきた。


「百年か」


レイが小さく呟いた。


セルジオには聞こえなかった。


離れた場所で別の帳簿を確認していた。


レイがしばらく握っていた。


それから、静かに棚に戻した。


セルジオが振り返った。


「いかがですか」


「うむ、よい品だ」


「百年前の人の手の跡がまだ残っている」


セルジオが少し驚いた。


「お分かりになりますか」


「祖父から、古い道具の話を聞いたことがある」


嘘ではなかった。


ベルナードからも聞いていた。


そして、私自身がそれを見ていた。


セルジオが頷いた。


「お祖父様は博識でいらっしゃいますね」


「うむ」

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