第37話 革袋
ある朝、レイが廊下を歩いていた時。
執務室の扉がわずかに開いていた。
レイが何気なく中を見た。
ラシェルが机の前に立っていた。
まだ、座っていなかった。
机の右端に古い革袋が置かれている。
ずいぶんと古いものだった。
持ち手が擦れている。
革の色は年月で褪せている。
ラシェルがその革袋に軽く触れた。
指先がほんの一瞬革に触れた。
ただ、それだけだった。
それから、ラシェルは席に着いた。
書類の束を引き寄せた。
レイは何も言わなかった。
ただ、そのまま、廊下を通り過ぎた。
しかし、目には留めた。
百年前の記憶が薄く動いた。
百年前、祖父ベルナードが若い頃、家督を継ぐ前。
毎朝、母の遺品に触れていた、と聞いたことがあった。
人が人として立ち続けるために触れるものがある。
レイは表に出さなかった。
ただ、革袋を覚えた。
◇
午前、商会の倉庫。
ラシェルが定期取引の仕入れ品を検品していた。
革製品の業者が立ち会っていた。
セルジオが横で帳簿を確認していた。
レイは少し離れた場所で見ていた。
セルジオに案内されてきていた。
ラシェルが革の山を一つ取り上げた。
触る。
表と裏を見る。
光に透かす。
「ジェナス殿」
ラシェルの声は静かだった。
しかし、冷たかった。
「この束、半分以上が二級品です」
「契約は一級品で価格を決めましたね」
業者ジェナスが慌てた。
「い、いえ、それはその──」
「先日まで雨が続きまして、保管が」
「最後の仕入れ分が混じってしまったかと」
「保管の問題なら、業者の負担です」
「全量を引き取り、一級品で再納入してください」
「期限は明後日まで」
「価格は契約通り、変更しません」
ジェナスが青ざめた。
「し、しかし──」
「明後日までにはとても」
「あるいは、契約解除でも構いません」
「他の業者にあたります」
ラシェルの声に揺らぎはなかった。
表情も変わらなかった。
ジェナスがしばらく動けなかった。
それから、深く頭を下げた。
「明後日までに必ず」
「申し訳ありません」
「では明後日に」
短い別れだった。
ジェナスが倉庫を去った。
セルジオが帳簿に書き込んだ。
レイは何も言わなかった。
ただ、見ていた。
ラシェルが机に戻った。
革袋に再び、軽く触れた。
無意識の所作だった。
レイはそれも、見ていた。
◇
午後。
セルジオがレイを別の倉庫に案内した。
「こちらは商会の長期保管庫です」
「古い帳簿、創業期の道具などが保管されています」
倉庫の奥は薄暗かった。
木箱が積まれている。
古い木の匂いがした。
セルジオが一つの木箱の蓋を開けた。
中には古い帳簿の束、印章、計量器具などが並んでいた。
「これは創業者ゼラック様の頃のもの、と聞いています」
セルジオが慎重に取り出した。
セルジオが取り出したのは小さな測量器具だった。
金属製。
手のひらに収まる大きさ。
年代を経て、わずかに錆が浮いていた。
しかし、形は変わっていなかった。
レイがそれを見た。
しばらく動かなかった。
百年前の記憶が動いた。
百年前、サングラディアの市場で。
職人が同じ型の測量器具を使っていた。
百年前、私が「これはよくできているな」と呟いた、その同じ型だった。
百年前のサングラディアから、商国に渡ったものか。
あるいは、商国で作られて、サングラディアに渡ったものか。
レイが静かに尋ねた。
「触れても、よいか」
「もちろんです」
レイが手を伸ばした。
測量器具を持ち上げた。
冷たい金属の感触。
百年の時間が手のひらに伝わってきた。
「百年か」
レイが小さく呟いた。
セルジオには聞こえなかった。
離れた場所で別の帳簿を確認していた。
レイがしばらく握っていた。
それから、静かに棚に戻した。
セルジオが振り返った。
「いかがですか」
「うむ、よい品だ」
「百年前の人の手の跡がまだ残っている」
セルジオが少し驚いた。
「お分かりになりますか」
「祖父から、古い道具の話を聞いたことがある」
嘘ではなかった。
ベルナードからも聞いていた。
そして、私自身がそれを見ていた。
セルジオが頷いた。
「お祖父様は博識でいらっしゃいますね」
「うむ」




