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第36話 冷たい応接間

朝、レイが目を覚ました。


商会の客間。


広い部屋。


窓の外はまだ薄暗かった。


レイはしばらく天井を見ていた。


夢は見なかった。


旅の疲れが深い眠りを連れてきた。


百年前の記憶も、夜の間は静かにしていた。


レイは身を起こした。


顔を洗い、身支度を整えた。


食堂に下りた。


長い卓にすでに三人が着いていた。


グレイドが大きなパンを手に持っていた。


ミルが茶を飲んでいた。


アルヴィスは果実の皮をむいていた。


「お、坊主」


グレイドが片手を上げた。


「早いな」


レイは卓の端に着いた。


「お前たちがもっと早い」


「冒険者の習いだ」


ミルがレイに向かって笑顔を作った。


「よく眠れましたか」


「うむ」


「それはよかった」


侍女が来て、レイの前にも皿を置いた。


パンと、温かいスープと、果実。


湯気が立っていた。


レイが軽く頷いて、スプーンを取った。


しばらくして、廊下に足音が聞こえた。


軽い足音だった。


しかし、急ぎ足だった。


扉が開いた。


長い黒髪を結い上げた女が入ってきた。


二十代半ばほど。


背が高く細身。


上質な絹のドレスを身につけている。


身につけた装飾品は控えめだが、本物の宝石だった。


その目が卓に着いた一行を見た。


そして、ミルを見た瞬間。


表情がわずかに和らいだ。


「ミル」


ラシェルがミルの名を呼んだ。


「元気だった」


ミルが片手を上げた。


「うん、ラシェルも、変わらず」


ラシェルが軽く頷いた。


グレイドがパンをちぎりながら口を開いた。


「お前、また少し細くなったな」


「忙しいの、知ってるでしょう」


ラシェルが軽く返した。


アルヴィスが茶を一口含んでぽつりと言った。


「相変わらずだな」


ラシェルがアルヴィスの方を見た。


「あなたたちこそ、変わらない」


短いやり取りだった。


笑顔ではなかった。


しかし、長い付き合いの温度だけがその場に流れていた。


レイはそれを横で見ていた。


ラシェルがレイの方へ目を向けた。


空気が変わった。


公的な応対の顔になった。


背筋がわずかに伸びた。


「あなたがベルナード様の、お孫様」


レイが頷いた。


「お話は伺っています」


ラシェルがレイの前に来て、軽く頭を下げた。


「ゼラック商会・商国支部」


「会長代理を務めております、ラシェルと申します」


レイが頷いた。


「レイ様、と、お呼びすればよろしいでしょうか」


「うむ、それでよい」


ラシェルが顔を上げた。


その目がレイをじっと見ていた。


子供の身体に子供の声。


しかし、姿勢の崩れない、落ち着いた振る舞い。


言葉も、年齢に似合わない。


ラシェルが内心でぽつりと呟いた。


(変な貴族の子)


しかし、口には出さなかった。


代わりに軽く笑顔を作った。


「お食事を続けてください」


ラシェルが卓の向こう側に着いた。


侍女がラシェルの前にも皿を置いた。


朝食がしばらく続いた。


グレイドが大きく食べ、ミルが少しずつ口に運び、アルヴィスは静かに茶を含んだ。


レイがスープを飲み終えた頃、ラシェルが口を開いた。


「レイ様」


「商国はいかがですか」


「賑やかだ」


「まだ、街はほとんど見ておりませんね」


「うむ」


「商国を見たい」


「ではいずれご案内いたします」


ラシェルが頷いた。


そして、続けた。


「お食事の後、執務室で少しお話を」


レイが頷いた。


ラシェルの目が冒険者三人の方へ動いた。


グレイドが先に察した。


口の中のパンを飲み込んで立ち上がった。


「俺たちは街を見てくる」


ミルが続いた。


「商業ギルドにも、顔を出す」


アルヴィスが立ち上がった。


「夕刻に戻る」


短い別れだった。


言葉は少なかった。


しかし、誰も戸惑わなかった。


冒険者三人が食堂を出ていった。



執務室は二階の奥にあった。


広い部屋。


大きな机と、革張りの椅子。


壁一面の書棚。


書類の束が机の端に積まれていた。


ラシェルが机を挟んで座った。


レイが向かいの椅子に座った。


椅子はレイの身体には大きかった。


足が床に届かなかった。


しかし、レイは姿勢を崩さなかった。


セルジオが入ってきて、お茶を置いていった。


そして、扉の外に下がった。


二人だけになった。


ラシェルがしばらく書類の束に目を落としていた。


それから、顔を上げた。


「レイ様」


「商国は初めてでいらっしゃいますか」


「うむ、初めてだ」


「商人国家ですので」


「貴族家のしきたりとは異なる部分があります」


レイは黙って聞いていた。


「商会は明日から、通常通りの業務に戻ります」


ラシェルがお茶に手を伸ばした。


一口含んで続けた。


「ご興味がおありでしたら、セルジオがご案内いたします」


レイが軽く頷いた。


「街を歩かれる際は商会の使用人をお供にお付けします」


「うむ、世話になる」


短い、業務的な口調だった。


公的な距離が保たれていた。


レイはそれを受け止めた。


ラシェルが書類の束に再び目を落とした。


そして、軽く言った。


「ご滞在の間、お困りのことがあれば、何なりと」


レイは静かに頷いた。


それだけだった。


深い話はなかった。


互いの過去にも、互いの未来にも、触れなかった。


ラシェルが立ち上がった。


「ではゆっくりお過ごしください」


レイも立ち上がった。


「うむ」


「世話になる」


ラシェルが軽く頭を下げた。


それから、書類の束を抱えて、執務室の奥の卓へ向かった。


レイは扉に向かって歩き出した。


途中で一度だけ、ラシェルの背中を見た。


長い黒髪を結い上げた背中。


すでに別の書類に目を落としていた。


レイは何も言わなかった。


ただ、扉を開けて、執務室を出た。


廊下に出た。


商会の朝の音がまた聞こえてきた。


商人の声。


帳簿をめくる音。


階下から運ばれてくる荷物の音。


レイは廊下をゆっくりと歩いた。


百年前の記憶がわずかに動いた。


百年前、私の側にゼラックという書記官がいた。


寡黙な男で声を荒げたことがなかった。


ただ、私の言葉をすべて、紙に残した。


その血を引く女が今、扉の向こうにいる。


レイはしばらく廊下に立っていた。


それから、客間へ戻った。

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