第35話 百年前 弟を信じている
アルトは壁の影で、震えていた。
ハクレン様が頭を下げていた。
ワシのために。
そう思った時。
兄の声が聞こえた。
『ワシは弟を信じております』
——え?
アルトの足が動かなくなった。
「皆と違うことをやるなら、強さが必要です」
「皆に何を言われても、自分を貫く強さです」
「それのない者は外れた道を歩けません」
兄が——膝をついていた。
ワシをドワーフの恥だと言った、あの兄が。
ずっとワシを見ていた。
信じてくれていた。
『続けられぬなら、それまでだったということです』
その言葉は刺さった。
ワシは続けられなかった。
笑われて、すぐに酒場に逃げた。
何ヶ月も、工房に行かなかった。
それは——
ワシ自身の答えだったのだ。
ワシは自分の道ではなかったと、自分で答えていたのだ。
兄の声が続いた。
『ハクレン様』
『しかし、答えは弟自身が出さねばなりません』
ハクレン様も。
兄も。
ワシの答えを待っていた。
ワシだけが——
ワシだけが答えを出していなかった。
国王はワシのために、頭を下げていた。
冷たいと思っていた兄がワシを信じていた。
それを見ているワシは——
ワシは何なのだ。
◇
アルトは壁の影から離れた。
走った。
酒場には向かわなかった。
工房に向かった。
長い間、行っていなかった、自分の工房に。
戸を開けた。
冷たい空気が流れ出た。
何ヶ月も火を入れていない、炉があった。
鎚と金床が埃を被っている。
ワシはここを捨てていた。
道はここにあるのに。
ワシ自身がここを捨てていた。
奥の棚に向かった。
布をめくった。
ガラスのランプが現れた。
埃を被っている。
しかし、形は変わっていない。
両手で持ち上げた。
埃を軽く払った。
魔石に軽く触れた。
ぽっ、と光った。
弱い、薄い光。
しかし、確かな光だった。
何ヶ月も放っておいた。
それでも、光った。
アルトの目に何かが滲みかけた。
しかし、それは零れなかった。
ドワーフは簡単に泣くものではない。
そう教えられて、育った。
その代わりにアルトは深く頷いた。
「ハクレン様」
「兄上」
声に出して、呟いた。
「ワシは——」
「ワシは貫きます」
兄の言葉だった。
「皆に何を言われても、続けます」
「もう、酒場には戻りません」
「もう、聞き流しません」
「これがワシの道です」
ランプの光がまだ消えずに続いていた。
アルトは布を捨てた。
炉に火を入れる準備を始めた。
長い間、冷えていた炉が再び燃え始めた。
◇
百年が経った。
サングラディアの工房で、年老いたアルトが新しい魔石を削っている。
手が震える。
しかし、止めない。
兄ゴルドの工房は隣にある。
今も、武器を打っている。
時々二人は酒を酌み交わす。
言葉は少ない。
しかし、それで十分だった。
外では井戸のポンプが音を立てて回っていた。
魔石を動力にしたポンプ。
水が家々に汲み上げられている。
家々の窓に明かりが灯っている。
どの家も、夜を恐れない。
工房では夜も職人たちが働いている。
魔石はもうゴミではない。
人の生活を支える、動力になった。
ハクレンはもういない。
しかし、アルトはまだ、いる。
兄ゴルドもまだ、いる。
時々アルトは思い出す。
百年前の、夕方のことを。
兄に頭を下げていた、ハクレンの姿を。
そして、その兄が王に告げた言葉を。
『ワシは弟を信じております』
その声を。




