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第34話 百年前 落ちこぼれの夜

夜だった。


サングラディアの酒場は賑わっていた。


ドワーフが多かった。


鎚を握る職人たちが一日の終わりに集まる場所だった。


鍛冶場の煤がまだ服に残っている。


アルトは隅の席に座っていた。


長いベンチの端。


壁に背を預けている。


木のジョッキをもう三杯、空にしていた。


四杯目が目の前にあった。


泡が消えかけている。


工房に行く気など、もうなかった。


仕事に手を出す気もない。


朝、起きるのも遅い。


夜、ここに来る。


飲む。


寝る。


それがワシの生活だった。


隣のテーブルから、低い声が流れていた。


「あいつ、また飲んでるな」


「最近、工房にも出てこないらしいぞ」


「ゴミなんか集めて、何になる」


アルトはそれを聞いていた。


聞こえないふりはしなかった。


そんな気力も、もうなかった。


「奇人」


「落ちこぼれ」


「ドワーフの恥」


そういう言葉はもう慣れた。


慣れたつもりになっていた。



その時。


カウンターの方で、皿が割れる音がした。


「あー、ハクレン様、また落としましたね」


店主の太い声。


「すまん」


小柄な男の声。


「今日は、指の力が、入らんのだ」


ハクレンが息を吸った。


ゆっくりと。


カウンターに、片手を添えた。


木の感触。


それを感じた。


それだけを感じた。


息を吐いた。


「ハクレン様、無理せんでください」


「いや、無理ではない」


「今夜は、来られた」


ハクレンの胸の痛みが引いた。


心臓の跳ねが収まった。


しかし、揺れは消えなかった。


ハクレンは知っていた。


揺れは消す必要がない。


ただ、逸らせばよい。


それだけで、明日まで、生きられる。


「あ、ハクレン様、お疲れさまです」


「お、王様、また手伝いに来てくれたか」


客たちが口々に声をかけた。


皆、笑っていた。


ハクレンは頷いた。


「うむ」


ジョッキを運ぶ。


テーブルを拭く。


皿をまた割る。


仕事ぶりは壊滅的だった。


しかし、誰も咎めなかった。


ハクレンはちょっとズレた王だった。


気安く接することのできる王だった。


しかし、それでも。


サングラディアの民は皆、知っていた。


この人がこの国の王であることを。



ハクレンが布巾を持って、テーブルを拭き始めた。


そして、アルトの席に来た。


「アルト」


「……ハクレン様」


「今日も、ここか」


ハクレンがベンチの向かいに座った。


「飲むな、とは言わない」


「しかし、最近、工房に行っているか?」


アルトがジョッキを持ち上げた。


口に運ぼうとして止めた。


「行っていません」


ハクレンが軽く頷いた。


「行っても、何にもならんからです」


ジョッキを机に置いた。


「ハクレン様」


「うむ」


「ワシはドワーフの落ちこぼれですよ」


声が低くなった。


「兄上にも笑われました」


「父上にも見放されています」


「魔石なんかをいじって、ゴミから何かを作ろうとして」


「奇人だと言われています」


ハクレンは黙って聞いていた。


「もう一度皆に見せたんです」


「『何の役に立つ?』と笑われました」


「兄上には『ドワーフの恥だ』と言われました」


「ワシにできることなんて、ないんですよ」


ハクレンはしばらく何も言わなかった。


ただ布巾を軽く畳み直した。


それから、ぽつりと言った。


「そうか」


「しかし、私はアルトの研究は面白いと思うがな」


「……またですか」


「うむ」


「私はしつこい、とよく言われる」


ハクレンが軽く首を傾けた。


「人と違うことは面白いじゃないか」


「やってみれば、いいじゃないか」


「失敗しても、いい」


「何が正しいかなんて、決まっていない」


「……ありがとうございます」


アルトは頭を下げた。


正直に言えば、嬉しかった。


ハクレン王に声をかけてもらえる。


あんな自分にも、優しい言葉をかけてくれる。


酒場での、こういう夜が嬉しかった。


しかし、それだけだった。


ハクレン様は優しい王だ。


誰にでも、こうやって声をかける王だ。


ちょっとズレた優しい王だ。


そう、思っていた。


夜が明けて、目が覚めれば、また、何もない一日が始まる。


工房に行く気力は戻らない。


そういう夜は何度もあった。


「最近、どうだ」


「変わりません」


「ワシは落ちこぼれですよ」


「そうか」


「しかし、私はアルトの研究は面白いと思うがな」


「……ありがとうございます」


「やってみれば、いいじゃないか」


「……はい」


繰り返しだった。


ハクレンは何度も言った。


アルトはその度に頭を下げた。


嬉しかった。


本当に嬉しかった。


しかし、ジョッキを口に運ぶ。


家に帰り、寝る。


朝が来る。


工房には行かない。


優しい王の言葉に慰められて、夜を過ごす。


それが続いていた。



そして、ある夕方だった。


アルトはいつものように、酒場へ向かおうとしていた。


街の中心を歩いた。


鍛冶屋の通りを抜ける。


兄ゴルドの工房の前を通りかかった。


そこに人が二人立っていた。


兄ゴルド。


そして、ハクレン王。


アルトは足を止めた。


兄が慌てている顔をしている。


王が何かを頼んでいる。


アルトは近づけなかった。


壁の影に身を寄せた。


そして、見た。


ハクレンが立ったまま、深く頭を下げていた。


「ゴルド、弟のアルトをもう少し、認めてやってくれないか」


兄が慌てた声を上げた。


「ハ、ハクレン様!」


「な、何をなさっているのですか!」


「頭を上げてください!」


「うむ」


ハクレンの頭は上がらなかった。


「私は頼んでいるのだ」


「アルトの研究を私は見た」


「面白かった」


「お前にも見てほしい」


「し、しかし——」


「頼む」


ハクレンの頭はまだ下がっていた。


兄ゴルドはしばらく立ち尽くしていた。


それから、深く息を吐いた。


「ハクレン様」


兄の声が変わっていた。


低くしかし確かな声だった。


「頭をお上げください」


「いえ、上げる前に——」


「聞いていただきたいことがあります」


ハクレンの頭はまだ下がっている。


兄が続けた。


「ワシは弟を信じております」


アルトの息が止まった。


「ハクレン様のお言葉と同じく」


「あれの研究が面白いことは知っております」


「兄として、見てきましたから」


「ほう」


「しかし——」


兄が一度、間を置いた。


「皆と違うことをやるなら、強さが必要です」


「皆に何を言われても、自分を貫く強さです」


「それのない者は外れた道を歩けません」


「うむ」


「ワシは弟を信じております」


「『ドワーフの恥』と言うのは本心ではありません」


「あれが本当に自分の道だと信じておるなら——」


「何を言われても、続けるはずです。時間がかかるかもしれませんが」


兄の声が静かに続いた。


「続けられぬなら、それまでだったということです」


「自分の道ではなかったということです」


「……」


ハクレンがようやく頭を上げた。


兄がハクレンの目を見て、続けた。


「ハクレン様」


「弟に目をかけてくださって、ワシは感謝しております」


「本当に感謝しております」


兄は膝をついていた。


「うむ」


「しかし、答えは弟自身が出さねばなりません」


「ワシが認めるかどうかはその後です」


ハクレンがしばらく兄を見ていた。


それから、軽く頷いた。


「そうか」


「お前の試練は手厳しいな」


「ドワーフの試練はこういうものですよ」


「うむ」


「私は私のやり方で続けるぞ。アルトには声をかけ続ける」


「それも、また、ご慈悲でございます」


ハクレンの口角がほんの少し動いた。


「気にするな」


「私はしつこいだけだ」

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