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第28話 百年前 守護竜の誕生

サングラディア首都エーテルヴァルト。


ハクレンが消えた戦場から、生き残った戦士たちが帰ってきた。


鬼族。


エルフ。


ドワーフ。


返り血と泥にまみれた兵たちが、城門をくぐっていく。


スタンピードは退けた。


代償は、戦士団の半数だった。


城門の前に市民たちが集まっていた。


誰も声を出さなかった。


鎧の擦れる音。


馬の蹄。


誰かの息を呑む音。


それだけが、何度も聞こえた。


「ハクレン王は」


老いた女の声だった。


掠れた、小さな声だった。


帰還した戦士の一人が足を止めた。


返り血で固まった頭を、ゆっくり振った。


それだけだった。


女がその場に膝を折った。


隣の男が抱き起こそうとして、自分の足も支えきれず座り込んだ。


シルヴァンは城壁の上から、その光景を見下ろしていた。


街全体が静かに崩れていく音が、聞こえる気がした。


その夜、急報が届いた。


「帝国軍です。先発隊で三万。後発で七万。総勢十万の大軍で進軍を開始しました」


偵察兵が司令室の卓に額をつけた。


声が震えていた。


シルヴァンは目を閉じた。


エルフ族の長老。


ハクレン王の執事を長く務めた、痩せた老人だった。


サングラディア軍は、万全であっても千人。


それすら今は半数を割っている。


十万を相手に戦って勝てる数ではなかった。


幹部たちの結論は早かった。


子供と若者を深淵の森へ逃がす。


それだけが、サングラディアに残された唯一の道だった。


「私は逃げない」


イグナだった。


司令室の隅で、壁に背を預けて座り込んでいた。


膝を抱えていた。


返り血のついた頬に髪が落ちていた。


「死ぬまで帝国と戦う。兄様のいない国を、私が生きてどうする」


声は静かだった。


だが、震えていた。


リーフェがイグナの肩に手を置いた。


声はかけられなかった。


リーフェ自身も頬をこわばらせていた。


やがてリーフェが、ゆっくりとイグナの腕を取った。


「イグナ様。少し、お休みください」


イグナは抗わなかった。


立ち上がる足元がわずかに揺れた。


リーフェに支えられるようにして、司令室を出ていった。


戸が閉まる音がした。


司令室の空気が変わった。


誰も口を開けなかった。


「あの方を残せませぬ」


ドワーフ族長ゴルドが低い声で言った。


「お一人で戦って、お一人で果てる。火を見るより明らかでござる」


シルヴァンは目を閉じた。


サングラディアの幹部の中で最も若く、最も強く、最もハクレンに近かった者。


ここで失うわけにはいかなかった。


「お運びいただかねばならぬ」


シルヴァンが口を開いた。


「イグナ様を深淵の果てまで。お運びいただける御方は、お一人しかおらぬ」


幹部たちの視線がシルヴァンに向いた。


誰も、その名を口にしなかった。


だが、誰もが知っていた。



街の北端に孤児院があった。


夜が明けかかっていた。


厨房の窓から薄い光が差し込んでいた。


ガルドは鍋の前に立っていた。


白髪を後ろで結んだ、痩せた老人だった。


腕は細い。


背は中ほど。


どこにでもいる街の年寄りに見えた。


ただ、眼だけが深かった。


朝食の仕込みだった。


子供たちのための薄い粥。


香草の刻みが、まな板の上に並んでいた。


戸を叩く音がした。


「ガルド殿」


シルヴァンの声だった。


ガルドは振り返らなかった。


鍋に塩を一摘み落とした。


「入れ」


戸が開いた。


シルヴァンが厨房に足を踏み入れた。


後ろに、ドワーフ族長ゴルド。


赤鬼長老バルザ。


青鬼の主治医ソウ。


エルフ、獣人、評議会の代表たち。


長老たちが、夜明け前の厨房に並んだ。


ガルドは鍋から手を引いた。


ゆっくりと振り返った。


「揃いも揃って、何の用だ」


声は、ただの老人の声だった。


シルヴァンはその前に膝を折った。


「お願い申し上げます。エーゼルハイム様」


ガルドの眉が、ほんのわずか動いた。


その名を人が口にすることを好まない。


シルヴァンは、それを知っていた。


「イグナ様を力ずくでもお止めいただき、深淵の果てまでお運びいただきたく」


「断る」


短い声だった。


鍋の中で湯が小さく沸き始めていた。


シルヴァンは膝をついたまま、額を厨房の床につけた。


「エーゼルハイム様。竜が人の争いに介入せぬことは、重々承知しております」


声が床に落ちた。


「深淵の森の入口までで構いません。お運びいただくだけで構いません。あの方は力でしか、お止めいただけぬのです」


それに続いて、ゴルドが膝をついた。


鎚を握る手が硬直していた。


赤鬼長老バルザが、二歩遅れて膝を折った。


普段は岩のような表情を崩さぬ男の目元が、わずかに震えていた。


青鬼の主治医ソウが続いた。


エルフ。


獣人。


評議会の代表たち。


一人、また一人と膝を折った。


孤児院の厨房の床に、サングラディアの長老たちの白い髪が並んだ。



「そんな顔して、膝をつくな」


ガルドの声が厨房に落ちた。


力のある声ではなかった。


それでも、長老たちは顔を上げなかった。


ガルドが、ふっと息を吐いた。


「貴様ら、花屋のばあさんを知っとるよな」


不意の言葉に、シルヴァンが顔を上げた。


「ここに来る途中、茂みに隠れとるばあさんを見つけてな」


ガルドの眼が、遠くを見た。


「何をしてるか問うたら、帝国兵が来たら奇襲をかけて殺すんだそうだ」


厨房の誰もが、口を開かなかった。


「花切りのハサミを握りしめて、震えながら隠れとった」


ガルドは少しだけ目を細めた。


「少し離れて、肉屋のじじいが包丁を持って隠れとった」


誰も笑わなかった。


「街の見回りのじじいたちは案内所に集まって、杖をこん棒代わりに兵隊気取りだ」


鍋の湯が、小さく音を立てた。


「自分の足で満足に歩けんようなじじいたちが、だ」


ガルドの声が、わずかに掠れた。


「たまらんかった。笑えんかったよ」


シルヴァンは息を止めていた。


「帝国兵はこの国を殺しに来るんだそうだな」


ガルドが言った。


「ハクレンが心血を注いできた、この国を」


その口元が、ぎりっと歪んだ。


「ハクレンは国そのものだ。あいつらはハクレンを殺しに来るってことだ」


シルヴァンの胸の奥で、何かが軋んだ。


「争いと遠いところにいた花屋も肉屋も、怖くて震えとったよ」


ガルドは笑わなかった。


「だが、逃げん。帝国兵に向かう足が止まらん」


長老たちは顔を上げられなかった。


「心底、愚かだと思ったよ」


その声に、奇妙な震えが混じった。


怒りでも嘲りでもなかった。


「同時に、ワシは驚いた。自分自身にな」


シルヴァンが、息を呑んだ。


「変わらんかった」


ガルドは言った。


「ワシはこの国の孤児院の食堂のじじいだ」


まな板の上の香草が、夜明けの光を受けていた。


「たまたま大きな牙と羽を持っとる、ただのじじいだ」


厨房が静まり返った。


「ワシは深淵の果てには行けん」


ガルドが、ゆっくりと首をもたげた。


「創生の時代に神獣不介入の枷を決めた。破ったことがないから、何が起こるか分からん」


その声は低かった。


「だが、ワシはこの国の民だ」


シルヴァンは顔を上げた。


「帝国がこの国を殺すなら、ハクレンを殺すなら、ワシはそれを受け入れん」


ガルドの声から震えが消えた。


「例外はない」


誰も動かなかった。


「ワシはワシの武器をもって帝国と戦う」


ガルドは長老たちを見た。


「これから死ぬつもりの貴様らに言うのも何だが、ワシは帝国のやつらをこの国に立ち入らせる気はないぞ」


ガルドの眼が、深く沈んだ。


「この国も、街のじじいもばばあも、貴様らも」


声が、厨房の奥まで届いた。


「何人にも殺させることを、絶対に受け入れられん」



「この身が滅びるまで、ワシはこの国を護る」



シルヴァンの肩が震えた。


「すまんが、先のことは知らん」


ガルドが、ゆっくりと笑った。


それは孤児院の食堂のじじいの笑みだった。


けれど、その目の奥にあるものは、ただのじじいではなかった。


「ワシは今しか生きとらんからな」


シルヴァンは立ちつくした。


その言葉を、何度も聞いたことがあった。


ハクレン王が執事だった自分に向かって、いつも口にしていた言葉だった。


「貴様らの大好きな国王も、そうだったろ?」


ワハハ、と。


ガルドが笑った。


ガルドはエプロンの紐をほどいた。


鍋を火から下ろした。


香草の刻みを、まな板の端へ寄せた。


「子供たちの粥は、ばあさんに頼んでくれ」


それから、戸口へ向かった。


「三日、留守にする」


それだけ言って、ガルドは厨房を出ていった。


長老たちは後を追わなかった。


誰も、足を動かせなかった。


シルヴァンだけが立ち上がり、戸口まで歩いた。


夜明けの光の中、痩せた老人の背中が通りを北へ歩いていた。


深淵の森の方角だった。


誰も、その背中を呼び止めなかった。


誰も、その背中の正体を知らなかった。



三日後の夜。


帝国の先発隊三万が、サングラディア領内に踏み込んだ。


その夜、空が裂けた。


巨大な影が月を覆った。


黒い鱗。


広げられた羽。


地上に轟いた咆哮。


シルヴァンは城壁の上にいた。


風が荒れていた。


兵たちは膝をつき、市民たちは家の中で息を殺していた。


誰も、空から目を離せなかった。


朝が来た。


領内に踏み込んだ三万の帝国兵は、一人も残っていなかった。


後発の七万は進軍を止めた。


半月後、帝国は撤退を宣言した。


サングラディアは名を改めた。


サングラディア竜国。


守護竜エーゼルハイムを戴く国として。


シルヴァンは城壁の上から、空を旋回する竜を見上げていた。


その姿は、もう孤児院の食堂のじじいではなかった。


それでも、孤児院の食堂のじじいだった。


「シグナ・グレ・トゥムス」


シルヴァンが、ぽつりと呟いた。


百年後。


その竜は今も、エーテルヴァルトの孤児院の厨房にいる。


子供たちのために、粥を煮ている。

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