第22話 押しただけなのに
王子がナイフを振り上げた瞬間。
レイの身体が動いた。
何も考えていなかった。
ただ、アシェを助けたい。
それだけ。
剣を抜けば、殺される。
しかし、何もしなければ、アシェが死ぬ。
ならば、剣ではない方法で。
ほんの一瞬レイは迷った。
押すという選択は王族への暴行になる。
このまま黙って見ていれば、自分は罰されない。
しかし、目の前でアシェが死ぬ。
百年前の私はこういう時、迷わなかった。
今の私はただの少年だ。
それでも——
レイの中で百年前の信念が動いた。
「人がいなくなる痛みはよくない」
レイの足が地面を蹴った。
王子に突進した。
両手で王子の胸を強く押した。
ドン、と音が響いた。
王子の身体が後ろに吹き飛んだ。
王子は何が起きたかわからなかった。
宙に浮いた。
そして、地面に背中から、激しく落ちた。
ガッ、と鈍い音がした。
王子の鼻から、血が勢いよく溢れた。
レイ自身も、止まっていた。
胸が強く痛んでいた。心臓が激しく跳ねていた。
目の端にアシェの顔があった。無事だった。生きていた。
しかし、心臓の跳ねは収まらなかった。
母上が馬車の事故で消えた日のことが、戻ってきていた。
百年前の戦場が、戻ってきていた。
助けられなかった誰かの顔が。
それらが、一度に来ていた。
レイの身体では、抱えきれなかった。
足を踏ん張った。
息を吸った。浅くしか入らなかった。
それでも、もう一度、吸った。
時が止まった。
取り巻きが固まった。
フェリクが固まった。
アシェが固まった。
通行人も、固まった。
王子が地面に倒れたまま、動かなかった。
鼻血が絹の上着を赤く染めていった。
その絹の上着には王家の紋章が刺繍されていた。
王族への暴行。
それも、絹の上着に王家の紋章を持つ、第一王子に。
通行人の中から、悲鳴が上がった。
小さな子供を抱えた母親が慌てて子供を抱きしめた。
商人が青ざめて道を空けた。
その場の誰もが理解していた。
これは極刑に値する罪だ。
レイだけが動いていた。
王子の前に立っていた。
ナイフは王子の手から、離れて、転がっていた。
激情の波を、逸らそうとした。
しかし、波が大きすぎた。
奥まで、届いてしまった。
心臓が、止まりかけた。
視界が暗くなった。
膝が折れた。
レイは地面に手をついた。蹲った。
「レイ……っ」
フェリクが駆け寄ろうとした。しかし、足が震えていて、遅い。
アシェも震えていた。声が、出せなかった。
王子の取り巻きは、王子しか見ていなかった。気づいていなかった。
——ああ、来てしまったか。
レイは淡々と、自分の状態を認識していた。
動揺すれば、さらに悪化する。一貫性を、保つこと。
百年前と、同じだ。あの戦場でも、こうして耐えた。
息を、ゆっくり、吸った。吐いた。
また、吸った。
視界が、ゆっくりと、戻った。
足に、ゆっくりと、力が戻った。
レイはゆっくりと、立ち上がった。
いつもの無表情だった。
「……」
レイが首を傾げた。
「少し押してみただけなのだがな」
ぽつりと、呟いた。




