第14話 逃げたくなかった
フェリクはこっそり後を追って屋敷に戻った。
そして、自室に閉じこもった。
ドアを閉めて、鍵をかけた。
ベッドの上に座って、握りしめた拳を自分の腿に押し付けた。
何度も、押し付けた。
「逃げた」
声に出した。
「逃げた」
もう一度言った。
「アシェを見捨てた」
「あんなによくしてもらったのに」
涙が勝手に溢れてきた。
止められなかった。
握りしめた拳が震えていた。
「俺はいつもこうだ」
兄が優秀だった。
何をやっても、兄に敵わなかった。
剣も、魔法も、勉強も。
凡庸な自分には何もない。
だから、逃げてきた。
問題から、責任から、自分の弱さから。
ずっと、逃げてきた。
「でも」
声が震えた。
「ここでは逃げたくなかった」
例え相手が上位の貴族だとしても、
アシェのために、何かをしたかった。
レイのために、隣にいたかった。
それなのに、また逃げた。
身体が勝手に動いた。
「俺は何なんだ」
涙が止まらなかった。
握りしめた拳が震え続けた。
「……何なんだ」
ノックの音が聞こえた。
「フェリク」
レイの声だった。
フェリクは答えなかった。
「フェリク、入っていいか」
「……うるさい」
「入っていいか」
「来るな」
しばらく、沈黙があった。
ドアが開く音はしなかった。
——あれ?
フェリクは息を止めた。
これまでのレイなら、絶対に入ってきた。
「鍵をかけ忘れていたな」
そう言いながら、踏み込んできたはずだ。
「敬語を使え」と言っても、聞かなかった。
「うむ」と返事だけして、絶対に変わらなかった。
しつこく、何度でも、自分の意志を通す子だった。
そんなレイが。
ドアの向こうで止まっている。
「来るな」と、自分が言ったから。
そう、気づいた瞬間。
胸の奥がぎゅっと、熱くなった。
しばらくして、レイの声がした。
「フェリク」
「……何だよ」
声が震えていた。
「フェリクはフェリクのままでいいではないか」
「は?」
「変わりたいなら、今から変わればいい」
フェリクが目を閉じた。
レイの顔は見えなかった。
ドアの向こうで無表情のまま立っているのだろう。
しかし、その言葉は淡々としているのに、深く響いた。
「逃げた俺でも、いいのか」
「うむ」
「ここから、変われるのか」
「うむ、変わりたいなら変われるだろう」
「……」
フェリクの目から、また涙が溢れた。
しかし今度は苦しい涙ではなかった。
何かが緩む涙だった。
レイは何も言わなかった。
ただ、ドアの向こうで立っていた。
何も言わずにただ立っていた。
フェリクは目を閉じたまま、ドアを見つめた。
レイの姿は見えない。
しかし、いる。
「来るな」と、自分が言ったから。
レイはその言葉を聞いてくれた。
これまで誰の言うことも聞かなかったレイが。
俺の言葉だけは聞いてくれた。
涙が止まらなかった。
しばらくして、フェリクが涙の跡を袖で拭った。
それから、深く息を吐いた。
「レイ」
「うむ」
「ありがとう」
「うむ」
レイはその場を立ち去ることはなかった。
ただ、ドアの向こうに立っていた。
「来るな」と、フェリクが言ったから。
そのまま、立っていた。




