第六章:古びたるものをして
お読みいただきありがとうございます。
第6章では、金沢の風景を支える職人、左官屋の老人が登場します。
「直すんじゃない、馴染ませるんだ」
彼が土壁に塗り込めるのは、百年前の泥と、今の時間。
完璧なものより、ひび割れたものに宿る温かさ。
室生犀星が愛した「ひそかなるふるさと」の意味が、職人の言葉を通して主人公の心に染み渡ります。
そして、主人公が持つ「鈴」に隠された、不思議な共通点とは……。
「あんずよ 花着け
地に照れ
あんずの木の下に
わたくしの古里は ひそかにある」
(『小景異情』其の六より)
その日の学校を終え、僕はまた誰かを探して金沢の路地に迷い込んだ。
路地の先から「シュッ、シュッ」という規則正しい湿った音が聞こえてきた。
突き当たりに、一人の老人がしゃがみ込んでいた。
黒ずんだ千本格子の隣、崩れかけた土壁に向かい合い、黙々と鏝を動かしている。
バケツの中には、藁が混じった濃い茶色の泥が、まるでお菓子の生地のように練り上げられていた。
「……おじいさん、それは何を直しているんですか?」
僕が声をかけると、老人は手を止めずに、背中で答えた。
「直してるんじゃない。馴染ませてるんだよ。新しい泥と、百年前の泥をさ」
老人は左官屋だった。
彼が壁に塗り込んでいるのは、ただの泥ではない。
数年間寝かせて発酵させた、いわば「時間の粘土」だという。
「犀星っていう詩人が、金沢の風景を書いてるんです。……あんずの花が咲いて地面を照らして、その木の下に、自分のふるさとが『ひそかにある』って」
僕が詩の一節を口にすると、老人はようやく鏝を置き、泥のついた手で自分の額を拭った。
「ほう、犀星か。あいつも土壁の『ひび』や、地面を照らす花の影を愛した男だったな」
老人は、自身の仕事を見つめる。
「いいかい、坊主。完璧な壁なんてのは、死んでるのと一緒だ。ひびが入って、そこから中身が覗いているくらいが、一番丈夫で、温かいんだよ。風が通る隙間があるから、壁は呼吸ができるんだ。……犀星の言う『ひそかなふるさと』ってのも、きっとそういう、誰にも見えない壁の割れ目みたいな場所にあるんだろうよ」
老人は僕のリュックに目を留め、そこから鳴った鈴の音をじっと聞き入るように目を細めた。
「……懐かしいな。いい音だ。君がどこにいるか、迷子になってもすぐわかるな」
その言葉は、昨日土手でおじいさんが言った言葉と、寸分違わず重なっていた。
胸の奥が、熱い泥を流し込まれたように重くなる。
「これ……そんなに有名な鈴なんですか? 昔、駄菓子屋で貰って、なぜか気に入ってずっと付けてるだけなんですけど」
「有名かどうかは知らんが、そいつを『ハズレ』だと思わずに持っている奴は、この街には馴染める。……新しいものばかり追いかける奴には、百年前の泥の匂りはわからんからな」
老人は再び鏝を握り、壁の「ひび」を愛おしそうに撫でた。
お母さんの設計図。秋山さんの写真。そしてこの老人の土壁。
みんな、何かを組み立て、守り、繋ごうとしている。
バラバラだった僕の視界が、この街の古い土壁のように、少しずつ層をなして固まっていくのを感じた。
僕は老人に一礼し、再び歩き出した。
背後でまた、「シュッ、シュッ」という音が響き始める。
チリリ、と鈴が鳴る。
僕はもう、迷子ではない。
この鈴の音が、僕とこの街のどこかにいる「誰か」を、見えない設計図で繋いでくれているような気がした。
翌朝、僕は吸い寄せられるようにいつもの浅野川の土手へと向かった。
春の朝日は、昨日よりも少しだけ色が濃い。
遠くの山々に残る雪が、朝の光を受けて淡い桃色に光っている。
ベンチには、やはりあのハンチング帽があった。
おじいさんは、川面に反射する光を眩しそうに見つめていた。
僕が近づくと、リュックのジッパーで金色の鈴が「チリリ」と鳴る。
「……おや、今日もいい音をさせてやってきたな」
「おじいさん。昨日、路地裏で不思議な人に会ったんです」
僕は隣に腰を下ろし、一気に話し出した。
崩れかけた土壁を直していた左官屋の老人のこと。
「直すんじゃない、馴染ませるんだ」という言葉。
そして、ひびがあるから壁は呼吸ができるんだ、と教えてくれたこと。
「おじいさん。昨日、路地裏で左官屋の人に会ったんです。犀星の、あんずの詩の話をしました」
僕が言い終えると、おじいさんはゆっくりと頷いた。
「……ほう、あの頑固者の左官屋に会ったか。あいつの鏝さばきは、金沢の街に魔法をかけるようなもんだからな」
「知り合いなんですか?」
「まあ、似たような古い時代を歩いてきた仲さ」
おじいさんは、僕のリュックの鈴を指差して、ふっと笑った。
「その鈴の音を聞いて、あいつも懐かしがっていただろう?」
「ええ。おじいさんと全く同じことを言ったんです。『迷子になってもすぐわかる』って。なんだか、この鈴に魔法がかかっているみたいで、少し怖いくらいでした」
おじいさんは声を立てて笑った。
「魔法なんてそんな大層なもんじゃない。ただの、消えない『印』さ。……君がそれを捨てずに持っていたから、その音が街に馴染んで、僕らの耳に届いただけだよ」
おじいさんは、ポケットから一粒の飴を取り出して僕に差し出した。
「いいかい。犀星は『ひそかにある』と言った。それは、隠しているんじゃない。大切すぎて、心の奥の、一番静かな場所に置いているということだ。……設計図を引くには、その『ひそかな場所』を自分の中に持っていなきゃいけない」
飴を口に含むと、懐かしい甘さが広がった。
どこかの店先で食べたような、記憶の奥底にある味。
「おじいさん。僕、放課後にでも浅野川の向こう岸まで歩いてみようと思います。あっちには、まだ見たことのない路地がある気がして」
「いいな。とぼとぼと、どこまでも行ってみなさい」
川の流れが、おじいさんの言葉を吸い込んでいく。
僕は飴の包み紙をポケットにしまい、立ち上がった。
背中でチリリ、と鈴が鳴る。
おじいさんはまた、静かに川を見つめる影に戻っていた。
第6章をお読みいただき、ありがとうございます。
左官職人の老人が語る「ひび」の効用。
完璧ではないからこそ呼吸ができるという考え方は、どこか犀星の詩に漂う「欠落の美学」に通じている気がします。
そして、主人公が持つ「鈴」。
おじいさんと左官屋、二人の古き者たちが同じ反応を示したことで、この小さな鈴が単なる偶然の持ち物ではない予感が漂い始めました。
第7章では、主人公が浅野川の対岸へと足を踏み入れます。
新しい景色の中で、彼は何を見つけるのでしょうか。
いつも応援いただき、本当にありがとうございます!




