第七章:流れる水のゆくえ
お読みいただきありがとうございます。
第7章では、主人公が浅野川のほとりで、かつての自分を見るような孤独な少年と出会います。
「学校の自分の席が、川に流されるみたいに消えるのが怖い」
少年の切実な吐露に、主人公は室生犀星の『犀川』の一節を重ねます。
流れる水のゆくえを止めることはできなくても、そのほとりに座り、自分を組み立てることはできる。
おじいさんから貰った「イチゴの飴」が繋ぐ、二人の孤独な境界線の物語です。
「うつくしき川は流れたり
そのほとりに我は住みぬ
春は春、なつはなつの
花つける堤に坐りて
こまやけき本のなさけと愛を知りぬ」
(『犀川』より)
その日の放課後、僕は、浅野川にかかる梅ノ橋を渡った。
観光客の行き交うひがし茶屋街をあえて避け、川沿いの細い砂利道を歩く。
リュックの金色の鈴が、足元で跳ねる砂利の音に混じって「チリリ、チリリ」と、不器用なリズムを刻んでいた。
ふと、視線の先に、一つの小さな影を見つけた。
中学生くらいだろうか。
詰襟の学生服を着たまま、川面に向かってひたすら石を投げ続けている少年がいた。
水面に石が当たって「ポチャリ」と重い音を立て、同心円の波紋が広がっては消えていく。
その背中は、つい数ヶ月前までの僕そのものだった。
どこにも繋がっていない、浮き島のような孤独。
僕は、おじいさんが僕にしてくれたように、何も言わずに少年の数メートル隣に腰を下ろした。
チリリ、と鈴が鳴る。
少年がビクッと肩を震わせ、こちらを鋭く睨みつけた。
「……何、あんた。学校の先生?」
少年の声は、尖った石のように刺々しい。
「違うよ。ただの、とぼとぼ歩いてる暇な高校生。……食べる? 知り合いのおじいさんにもらったんだ」
僕は、おじいさんのイチゴの飴を差し出した。
少年は不審そうに僕と飴を交互に見たが、やがて奪い取るようにして受け取り、口に放り込んだ。
「……何これ、イチゴ? 変な味」
「だろ。僕もそう思う」
少年はまた、足元に転がっていた平たい石を川へ投げた。
「……僕、学校行かなきゃいけないのはわかってるんだ。でも、行っても自分の席が、川に流されるみたいにすぐ消える気がして。……怖いんだよ、あそこに座るのが」
その言葉は、僕の胸の奥にある「ひび」に、ぴたりとはまった。
僕は川底に沈んだ白い石をぼんやりと見つめながら、詩を小さく呟いた。
「……うつくしき川は流れたり」
「え?」
少年が、石を握ったまま僕を見た。
「犀星っていう詩人が、この街の川のことを書いてるんだ。美しい川が流れるほとりに座って、本を読みながら『なさけ』や『愛』を知ったんだって」
少年の動きが止まった。
「あんなに激しく流れる川のそばでも、ただ静かに座って、変わらないものを信じていた人がいたんだ。流されるのが怖いなら、無理に泳ごうとしなくていい。ただ、そのほとりに座って、自分だけの『なさけ』をじっと見つめていればいいんじゃないかな」
少年は、足元の石をぎゅっと握りしめた。
「……座ってるだけで、いいの?」
「ああ。犀星だって、川を止めることはできなかった。でも、その流れのそばで、本の世界や自分の心を組み立て続けたんだ。流れる水は消えていくけれど、そのほとりに座っていた時間は、こうして詩になって残っている。……君が今、ここで石を投げているこの時間も、きっと誰にも消せない君の『ほとり』になるはずだよ」
少年は石を投げた。
水面を叩き、確かな波紋を刻んでから沈んでいった。
「……明日も、ここに座りに来るよ。流されないように、自分の重みを確かめに来る」
少年が小さく、でもさっきよりずっと低い声で呟いた。
その声には、答えを見つけた高揚感ではなく、諦めにも似た「覚悟」のような重みが乗り始めていた。
僕はそれ以上何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。
リュックの金色の鈴が、チリリと小さく鳴る。
「……じゃあな」
背後で、また石が水面を叩く音が聞こえた。
浅野川の流れは、少年の孤独も、僕の迷いも、すべてを包み込んで海へと運んでいく。
翌朝、金沢の街は薄い霧に包まれていた。
いつものベンチに、おじいさんは座っていた。
「……おや。今日はまた、ずいぶんと深く踏みしめて歩いているな」
おじいさんは振り返らずに、僕の足音(鈴の音)だけでそう言った。
「おじいさん。昨日、川べりで石を投げてる中学生に会ったんです。……学校の自分の席が、川に流されるみたいにすぐ消えるのが怖いって」
僕は隣に座り、少年が絞り出した言葉を、丁寧に伝えた。
おじいさんはしばらく沈黙していた。
やがて、おじいさんはふっと息をつき、静かに口を開いた。
「……犀星もな、そうやって生きてきた男だ。あいつは誰よりも『消えること』を恐れていた。だから、故郷を捨てても、また言葉で故郷を……嫌いだと言いながら、何度も、何度も、同じ土を捏ねるようにして詩を書いていたんだ」
おじいさんは、ゆっくりと僕の方を向いた。
「……君は、その子に『答え』じゃなくて『道』の歩き方を教えたんだな」
「教えたなんて、そんな……。僕だって、まだ自分の足跡が残るかどうかわからないのに」
「それでいい。わからないまま踏みしめるのが、一番力がこもるもんさ」
おじいさんは、またあの飴を一つ、僕の手のひらに置いた。
「……さあ、行きなさい」
僕は飴を口に放り込み、立ち上がった。
甘酸っぱい味が、少年の投げた石が作った波紋のように、ゆっくりと体に広がっていく。
「……行ってきます。また、報告に来るから」
「ああ。鈴を鳴らしてな。……迷子にならんようにな」
おじいさんの声を背中で聞きながら、僕は霧の立ち込める通学路へと踏み出した。
リュックの金色の鈴が、チリリと一段と高く鳴った。
それは、ただのハズレの景品ではなく、僕がこの街を、この人生を、確かに踏みしめているという「合図」だった。
第7章をお読みいただき、ありがとうございます。
「流れる水のゆくえ」と、そのほとりに留まる意志。
変化し続ける世界の中で、自分だけの「ほとり」を見つけることの難しさと尊さを描きました。
かつての自分に飴を渡すような主人公の姿に、少しずつ成長の兆しを感じていただければ幸いです。
おじいさんが語る、犀星の「故郷を嫌いながらも、土を捏ねるように書き続けた」という執念。
それはそのまま、私たちが日々を生き抜く力にも通じているのかもしれません。
次章、物語はさらに深く、金沢の街の核心へと進んでいきます。
引き続きお付き合いいただければ嬉しいです!




