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第五章:影の住人

 お読みいただきありがとうございます。

 第5章では、前章で詩集を託した高橋さんの「その後」から始まります。

 そして、夕暮れの金沢の路地裏で出会う、カメラを構えた謎の男・秋山。

 「完成された景色」ではなく、光によって「崩れゆく影」を追う彼の美学は、どこか室生犀星のひりついた感性に通じていました。

 孤独な捜索者たちが、金沢の街というパッチワークの中で少しずつ繋がり始めます。

 おじいさんに背中を押され、僕はいつもの通学路を少しだけ早足で歩いた。

 

 胸の中には、昨日渡したあの薄い詩集の重みが、まだ感触として残っている。

 

 教室のドアを開けると、そこには昨日までと同じ、喧騒の風景があった。

 けれど、窓際の席に座る高橋さんの姿を見つけた瞬間、何かが決定的に違うことに気づいた。

 

 彼女は、友達の輪の中にいた。

 笑い声も、相槌も、昨日までと同じ「人気の女子」のものだ。

 

 けれど、その手元に、あの光る画面はなかった。

 代わりに、彼女の膝の上には、僕が貸したあの古びた文庫本が、まるでお守りのように置かれていた。

 

 僕と目が合うと、彼女は友達に「ちょっとごめん」と短く断り、こちらへ歩いてきた。

 その足取りは、どこか昨日の夕暮れ時よりも確かで、軽い。

 

「……おはよう、高橋さん」

 

 僕が言うと、彼女は詩集を僕の目の前でひらひらと振ってみせた。

 

「おはよう。……これ、昨日の夜、ずっと読んでた。……っていうか、眺めてた」

 

 彼女はそう言って、少しだけ悪戯っぽく、でも晴れやかな顔で笑った。

 

「あのさ、『遠きにありて思ふもの』ってやつ。……私のふるさと、別にあのスマホの中じゃないわよ。あんな狭いところが、私の居場所なわけないじゃない」

 

 その言葉は、誰かに聞かせるための強がりじゃなかった。

 自分自身に言い聞かせ、納得したあとの、清々しい「答え」だった。

 

「……そ。なら、よかった」

 

 僕は短く返したけれど、内心ではおじいさんの『それでこそ、対等な捜索者だ』という声がリフレインしていた。

 

「……まだ、返せない。もう少し、手元に置いといてもいい? 画面が見たくなった時に、代わりにこれを開くことにしたから」

 

「……ああ。好きなだけ持っててよ。設計図だし」

 

 高橋さんは「設計図?」と不思議そうに首を傾げたけれど、すぐに「変なの」と笑って自分の席へ戻っていった。

 

 彼女の背中からは、もう「崩れそうな積み木を必死に支えている」ような悲壮感は消えていた。

 

 僕は自分の席につき、鞄から佐伯に借りた新しいCDを取り出した。

 

 高橋さんは詩で、佐伯は音で。

 そして僕は、おじいさんの言葉と、お母さんの料理で。

 

 バラバラだった「孤独」が、見えない糸で少しずつ、金沢の街の地図みたいに繋がり始めているのを感じた。

 

 やがて学校も終わり、学校を出て、犀川のほとりへ向かう。

 夕暮れの金沢は、家々から漏れる明かりと、車のヘッドライトが混じり合い、まるで巨大なパッチワークのように色づいていた。

 

 僕はあえて、いつも通らない裏道を選んで歩く。

 

 『逢つたことのある人には、わたくしは逢ひたくないのです』。

 

 犀星のあの言葉が、僕の背中をぐいぐいと押してくる。

 

 昨日までの僕なら、知っている道、知っている顔、知っている正解だけをなぞって帰っていただろう。

 

 でも今は、まだ逢わぬ誰か、まだ見ぬ光の形を捜しあてたいという衝動が、僕の足取りを速めていた。

 

 そこは、観光客の喧騒から切り離された、沈黙の迷路だった。

 黒ずんだ千本格子の家々が並び、低い西日が石畳の上に、長くて濃い幾何学模様の影を投げ出している。

 

 角を曲がった、その時だった。

 

 一つの「影」が、不自然に道の中央で止まっていた。

 一人の男が、地面に這いつくばるようにして低く身を屈めている。

 

 僕の気配に気付いたのか、男はカメラを構えたまま口を開いた。

 

「君も待っているのか……」

 

「……待ってる? 人を、ですか?」

 

 僕が戸惑いながら尋ねると、男はようやくカメラを下ろし、少しだけ肩の力を抜いて僕の方を向いた。

 

「いや、影だよ。……この土壁の亀裂に光が差し込んで、影の形がふっと崩れる一瞬があるんだ。そこを、ずっと狙ってた」

 

 男はそこまで言って、ふっと自分自身を笑うように口角を上げた。

 

「……いや、そんなことはないか。普通の高校生が、道端で影が崩れるのをじっと待ってるわけないよな。悪い、変なことを聞いた」

 

「……影が崩れる。犀星の詩に、そんな感じのがある気がします。光が差し込んで部屋が明るくなるほど、光の当たっていない隅っこの暗がりが、なんだか寂しく浮き上がって見えるような……」

 

 僕が思わず口にすると、男の動きがぴたりと止まった。

 

「……なるほど。光そのものじゃなく、追い詰められていく暗がりの方をじっと見つめる、か」

 

 男はレンズキャップを弄る手を止め、不思議そうに僕を見た。

 

 僕は言葉を繋ぐ。

 

「……犀星の詩も、光そのものを喜んでいるんじゃなくて、光に追い詰められていく暗がりの方を、じっと見つめているような気がしたんです」

 

 男は、僕の指先と、僕が抱えている古びた詩集を交互に見た。

 

「……なるほど。室生犀星か。名前は知ってたが、そんな感じの詩があるとは初めて知ったよ」

 

 男は石畳の上に無造作に腰を下ろし、隣に座るよう顎で促した。

 

 彼はカメラの背面モニターを操作し、今まで撮り溜めた写真を見せてくれた。

 そこには金沢だけでなく、富山の鋭い光に焼かれた雪原や、長野の宿場町で崩れゆく水滴の影が映し出されていた。

 

「……どれも、崩れそうですね」

 

 僕が呟くと、男はモニターを消して、ふっと遠くを見た。

 

「そう。完成された景色なんて、俺には興味がない。光が当たって、昨日までの形が壊れていく、その『あわい』にだけ、本当のことが写る気がしてね」

 

 男は立ち上がり、カメラを再び構え直した。

 西日はさらに高度を下げ、路地の奥にある古い蔵の扉を、真っ赤な血のような色に染め上げている。

 

「……名前、聞いてもいいですか?」

 

 僕の問いに、男はシャッターチャンスを待ちながら、短く答えた。

 

「……秋山。ただの、影の住人だよ」

 

 その直後、今日一番の鋭い光が路地を貫いた。

 秋山さんの指が動き、乾いた音が再び迷路のような路地裏に吸い込まれていった。

 

 秋山さんと別れた後、夕闇が路地を塗りつぶすまで、僕はしばらくその場に佇んでいた。

 

 翌朝。

 僕はいつもより少し早く家を出て、浅野川の土手へと向かった。

 川面には朝の光が細かく跳ね、昨日の刺すような西日とは違う、生まれたての輝きに満ちている。

 

 ベンチには、もうあのハンチング帽があった。

 おじいさんは、僕が近づくよりも先に、リュックの揺れる音で気づいたようだった。

 

「……やあ。今日は一段と、足音が弾んでいるな」

 

 僕は隣に腰を下ろし、昨日あったことを夢中で話した。

 

 高橋さんがスマホを置いて、詩集をお守りのように持っていたこと。

 佐伯から借りたジャズのこと。

 そして、路地裏で出会った『影の住人』、秋山さんのこと。

 

「おじいさん。秋山さんは、影が崩れる瞬間を待ってるって言ってました。完成された景色より、壊れていく『あわい』に本当のことが写るって……。それって、犀星の詩と同じですよね?」

 

 おじいさんは目を細め、対岸の主計町かずえまちの茶屋街を眺めた。

 

「……ほう。影の住人か。いい男に会ったな。完成したものは、あとは壊れるのを待つだけだ。だがな、壊れゆくものの美しさを知っている奴だけが、新しい『設計図』を引くことができるんだよ」

 

 おじいさんは、カバンの中から一つ、紙に包まれた小さな飴玉を出して僕にくれた。

 

「高橋さんも、佐伯くんも、そして秋山さんも。みんな、自分なりの『影』を抱えて、この街で呼吸している。君の鈴の音が、彼らの孤独と共鳴し始めた証拠だ」

 

 僕は飴の包み紙を剥き、口に放り込んだ。

 甘酸っぱい、どこか懐かしいイチゴの味が広がる。

 

「……おじいさん。僕、もっと歩いてみたい。まだ誰にも見つかっていない金沢の影を、探しに行きたいんです」

 

 おじいさんは、僕の肩をポンと一度だけ叩いた。

 

「行ってきなさい。とぼとぼとな。……時間はたっぷりある。秋がゆき、冬が来る前に、君だけの光を見つけるんだ」

 

 僕は立ち上がり、大きく伸びをした。

 リュックの金色の鈴が、朝の清々しい空気の中でチリリと鳴った。

 

 それは、新しい一日の、そして新しい探索の始まりを告げる合図のように聞こえた。

 第5章をお読みいただき、ありがとうございます。

 「完成されたものには興味がない」と言い切る写真家・秋山との出会い。

 何かが壊れ、変化していく瞬間にこそ真実があるという彼の言葉は、思春期の不安定な揺らぎの中にいる主人公にとって、大きな救いとなったはずです。

 高橋さんが詩集を「お守り」として持ち続けるシーンも、作者としてお気に入りの一場面です。

 金沢の迷路のような路地裏。

 次はどんな「影」と出会うのでしょうか。

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