第四章:光る窓の向こう側
お読みいただきありがとうございます。
第4章では、クラスの華やかさの中心にいる女子・高橋さんが登場します。
常にスマホを握りしめ、SNSの海で「自分の居場所」を工事し続ける彼女。
そんな彼女の孤独な横顔に、主人公は犀星のあの有名な一節を差し出します。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」
この言葉が、デジタルの光に疲れた彼女にどう響くのか。
佐伯から届いたマイルスの「アンサー」とともに、物語が深まります。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」
翌朝、僕はまた浅野川の土手に立っていた。
ハンチング帽を揺らして川を眺めるおじいさんの横に座り、僕は昨日の出来事を一気に話した。
佐伯のこと、マイルスのジャズのこと、そして彼が犀星の詩集を「貸してくれ」と言ったこと。
「そうか。犀星とマイルスか。そいつは愉快なセッションだな」
おじいさんは声を立てて笑った。
「君の昨日の一歩は、ただの登校じゃない。君が自分の手で世界を『組み立て』始めた証拠だ。今日もいいものを捜しておいで」
おじいさんの言葉を背負って学校へ向かうと、昨日よりもさらに街の解像度が上がっている気がした。
教室に入ると、窓際の席に座る高橋が目に留まった。
彼女はクラスの中心にいるような、明るくて人気の女子だ。
いつも誰かと笑い、グループの真ん中で器用に立ち回っている。
けれど、今の彼女は少し違っていた。
高橋はしきりにスマホを気にし、指先を素早く動かしては、SNSやクラスのLINEをチェックしている。
返信を打つ彼女の横顔は、笑っているようでいて、どこか必死だった。
まるで、積み木が崩れないように、絶え間なく新しいブロックを積み上げ続けているような……。
「おはよう、高橋さん」
僕が声をかけると、彼女は一瞬、驚いたようにスマホを伏せた。
けれど、すぐにいつもの「人気の女子」の仮面を被って、明るい声を出す。
「あ、おはよう! 何、今日はなんだか楽しそうだね。何かいいことあった?」
その声は、昨日までの僕なら「住む世界が違う奴の愛想笑い」だと思って聞き流していただろう。
でも、今の僕には見える。
彼女がスマホの画面越しに、どれだけ必死に「自分の居場所」を捜し、繋ぎ止めようとしているのかが。
「……高橋さんも、大変そうだね。ずっとそれ、組み立ててるみたいで」
僕がスマホを指差してそう言うと、彼女の笑顔がぴくりと固まった。
「組み立てる……? 何を?」
「自分のことだよ。そこで誰かに返信したり、反応を見たりして、必死に『高橋さん』っていう家を建ててるみたいに見えたんだ。……犀星の詩に、そんな感じのがあるんだよ」
高橋は目を丸くして、スマホと僕を交互に見た。
彼女の指先が、まだ見ぬ誰かからの通知を待って、微かに震えている。
「……変なこと言うんだね、君。でも……そうかも」
彼女は少しだけ肩の力を抜いて、スマホを机の上に置いた。
「みんなが思ってる『高橋さん』を壊さないように、ずっとスマホの中で工事してる感じ。……それ、詩になるくらい、おかしいことなのかな」
僕が何かを答えようとしたとき、無慈悲に予鈴が鳴り響いた。
「あ、やば、授業始まる! またね!」
彼女はすぐさま、いつもの明るい「高橋さん」に戻って自分の席へと駆けていった。
スマホの中の工事は、まだ終わっていないようだった。
授業中も、彼女の「組み立てる」という言葉が頭を離れなかった。
そして放課後。
佐伯が僕の席の横にやってきた。
無造作にカバンからあの詩集を取り出し、僕の机に置く。
「……読んだぞ、犀星」
佐伯の顔は、昨日の尖った雰囲気とはどこか違っていた。
「どうだった?」
「……あいつ、めちゃくちゃ即興的だな。言葉を選んでるっていうより、血を流しながらその場で形を作ってる感じがした」
佐伯は少し照れくさそうに笑い、続けた。
「……特に、『まだ逢つたこともない人』を一人ずつ捜しあてるってところ。あそこ、完全にジャズのバラードだわ」
彼は自分のカバンから一枚のCDを差し出した。
『Kind of Blue』。マイルス・デイヴィスの名盤だ。
「これ、貸してやるよ。犀星のアドリブへの、俺なりのアンサーだ。……一曲目のベースの入り、よく聴いとけよ。そこだけで、家が一軒建つからさ」
「ありがと。聴いてみるよ」
僕たちは少しだけ笑い合い、佐伯はそのまま「じゃあな」と部室棟の方へ向かっていった。
彼もまた、自分だけの音を組み立てに「現場」へ向かうのだ。
帰り際、忘れ物を取りに教室へ戻ろうとしたときだった。
渡り廊下の突き当たり、夕日が差し込む大きな窓のそばに、誰かがいた。
高橋さんだった。
彼女は一人で、壁にもたれかかるようにして立っていた。
手元のスマホは暗いままで、彼女はただ、窓の外に広がる金沢の街を見つめていた。
その顔には、朝のあの明るい笑みも、人気者の仮面もなかった。
ただ、ひどく疲れ果てた、一人の「捜しもの」に迷う少女の顔があった。
彼女は僕に気づいていない。
(……高橋さん、君も、遠きにありて自分を思っているの?)
声をかけることはできなかった。
今の彼女には、誰の言葉も届かない、建設途中の深い『孤独』がある。
僕は静かに足音を忍ばせ、その場を離れた。
翌朝、僕はまた浅野川の土手へ向かった。
朝靄が川面を低く這い、金沢の街を白く包み込んでいる。
いつものベンチに、おじいさんは座っていた。
「……おじいさん。昨日、クラスの女の子を見たんだ」
僕は、高橋さんの話を始めた。
必死に「自分」を組み立てる姿と、放課後のあの孤独な横顔を。
「佐伯とは、言葉で繋がれた気がした。でも、彼女のあの顔を見たら……何も言えなかった。何をしてあげればいいのか、わからなかったんだ」
おじいさんは静かに口を開いた。
「いいかい。犀星は『悲しくうたふもの』と言った。彼女も今、自分の孤独を必死に組み立てている最中なんだ。それは、他人が土足で踏み込んでいい場所じゃないんだよ」
「じゃあ、僕は何もできないの?」
「『一緒にいる』ことはできる。助けるんじゃない。君も一人の『捜しもの』として、彼女の隣に立っていることだ」
「……彼女を救おうとするな。ただ、君も自分の『とぼとぼ』を止めずに、彼女の視界の端を歩きなさい。それが、孤独な者同士が結べる、一番静かで強い約束だ」
おじいさんの言葉が、僕の中に新しい道筋を引いていく。
教室のドアを開けると、相変わらずの騒がしさだった。
高橋さんはまたメンバーに囲まれて笑っていた。
「おはよう、高橋さん」
おじいさんの言葉を思い出し、あえて「普通」に声をかけた。
「あ、おはよう! 今日も真面目だねー」
彼女は100点の笑顔を返してきた。
その奥の孤独を暴こうとはしない。ただ「おう」と短く返して、自分の席に座った。
それでいい。隣に立っているだけで、十分なんだ。
鞄を置くと、佐伯がやってきた。
「……マイルス, どうだった。寝れた?」
「……正直、ジャズとか全然わかんない。でもさ、一曲目のあのベース。あれが鳴った瞬間、なんか……ゾワッとした。鳥肌立ったよ」
佐伯は満足そうに鼻で笑った。
「鳥肌か。合格じゃん。……あ、あと犀星。あいつ、意外とロックだな。気に入ったよ」
僕たちは、同じ教室にいて、それぞれ全然違うものを組み立てている。
放課後のチャイムが鳴ると、教室は一気に騒がしくなった。
僕はゆっくりと帰り支度をして、教室を出ようとした。
その時、窓際で高橋さんと目が合った。
彼女はスマホを握りしめたまま、無理に口角を上げて話しかけてきた。
「……何、また昨日みたいに、変なこと言おうとした?」
「……おかしくないよ」
僕は夕日に染まる街を見ながら答えた。
「僕だってお母さんだって、必死に何かを組み立てないと、自分がバラバラになりそうだからやってるんだ。高橋さんがそのスマホでやってることも、きっと同じだよ」
僕は一呼吸置いて、続けた。
「……ただ、たまには休憩しても、誰も怒らないと思うけど」
「……休憩、か。そんな余裕、この画面の中には一秒もないんだよ」
彼女はそう言って、自嘲気味に笑った。その指は、またホームボタンを探しているようだった。
僕はリュックからあの文庫本を引っ張り出した。
「これ、貸してやるよ。……一休みする時にでも読めば」
いきなり差し出された詩集に、高橋さんは目を丸くした。
僕は表紙の裏の余白を指差した。
「『遠きにありて思ふもの』。……今は無理でも、いつかこの画面から離れた場所で、自分のこと、ちゃんと見てやればいいんじゃない……」
最後の一言を付け加えて、僕は無理やり彼女の手に詩集を押し付けた。
「……遠きにありて?。……思うもの……。変なの……」
「そう、遠きにありて。……じゃあ。また明日」
振り返ると、高橋さんはまだ窓際に立っていた。
片手にはスマホ、もう片手には僕が渡した詩集。
彼女は、光る画面を見るのをやめて、夕焼けに透ける詩集のページを、不思議そうに眺めていた。
僕は校門を出て、大きく息を吸い込んだ。
佐伯にはマイルスのCDを返し、高橋さんには犀星を託した。
リュックの中は少しだけ軽くなったけれど、心の中に、確かな重みが溜まっていた。
玄関を開けると、僕は靴を脱ぎ捨て、キッチンへと急いだ。
お母さんに、今日あったことを話したくてたまらなかった。
僕が今日、二人の「まだ逢わぬ誰か」に出会ったことを。
キッチンでは、お母さんがオーブンレンジの前で腕を組んで立っていた。
その背中は、夕食を作る主婦というより、やはり完成間近の模型を検品する建築家のそれだった。
「……ただいま。今日は、グラタン?」
「おかえり。そうよ。でも、ただのグラタンじゃないわ。ホワイトソースの粘土で、具材をどう積み上げるか試してみたの」
お母さんはいたずらっぽく笑って、黄金色に焼けた皿をテーブルに置いた。
僕は熱いグラタンをハフハフと頬張りながら、今日あったことを話した。
佐伯に借りたジャズのこと。そして、高橋さんにあの詩集を無理やり貸したこと。
「お節介だったかな、お母さん」
「いいえ。……いいものを渡したわね」
お母さんは僕をまっすぐ見て、小さく頷いた。
「家も、心も、たまには遠くから眺めてみないと、どこが壊れかけているか気づけないものよ。その子はきっと、今夜、自分だけの『窓』を見つけるわ」
お母さんの言葉は、僕の胸の中にストンと落ちた。
お母さんもまた、このキッチンという「現場」で、遠くにある何かを思いながら、今の自分を組み立てている一人なのだ。
翌朝、金沢の街は昨日までの靄が嘘のように晴れ渡っていた。
僕は昨日よりも足取り軽く、浅野川の土手へと向かった。
「おはよう、おじいさん」
ベンチに座る背中に声をかけると、おじいさんはゆっくりと振り返った。
その瞳には、昨日よりも深い光が宿っている。
「……おぉ、来たか。昨日の『セッション』の結果はどうだったんだい」
僕は、高橋さんに詩集を渡したことを報告した。
「いいかい、自分の持っている設計図を誰かに手渡すとき、一番大事なのは『正解』を押し付けないことだ。君は昨日、彼女に新しい『気付き』を渡した」
「彼女がそこから何を見たかは、彼女の自由だ。……それでこそ、対等な捜索者だ。さあ、今日も行きなさい」
第4章をお読みいただき、ありがとうございます。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」。
あまりにも有名なこの詩を、SNSという現代の居場所に悩む少女の文脈で捉え直してみました。
助けるのではなく、隣に立つこと。
おじいさんの言葉は、主人公だけでなく、私自身の胸にも深く刺さるものでした。
マイルスの「Kind of Blue」とともに、少しずつ世界が色づいていく。
第5章では、この詩集がさらなる変化を呼び起こします。
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