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第三章:犀星の街、僕の足音

 お読みいただきありがとうございます。

 第3章では、主人公が学校という「ノイズの場所」へ戻ります。

 そこで出会うのは、いつもイヤホンで世界を遮断しているクラスメイトの佐伯。

 室生犀星のひりひりした言葉と、マイルス・デイヴィスの鋭いジャズが、金沢の教室で静かに共鳴します。

 「誰かを探すために」歩き出した少年の、最初の「発見」の物語です。

 翌朝、カーテンを開けると、金沢の空は驚くほど澄み渡っていた。

 

 雨上がりの湿った空気が太陽の光を乱反射させ、視界に入るものすべてが、昨日までとは違う瑞々しい色彩を放っている。

 

 僕はリュックに詩集を忍ばせ、家を出た。

 歩き出した足元で、アスファルトの黒が深く沈み、街路樹の若葉が目に刺さるほど鮮やかな緑を見せている。

 

 昨日までモノクロの背景でしかなかった金沢の街が、雨上がりの光を浴びて、瑞々しく呼吸を始めていた。

 

 おじいさんの家がどこにあるのか、僕は知らない。

 けれど、朝の登校前、少しだけ遠回りをして浅野川の土手へ向かえば、彼は必ずそこにいる。

 

 使い込まれたハンチング帽を被り、川の流れをじっと見つめているその背中は、金沢の古い風景の一部のように僕の目に映っていた。

 

 僕は足早に土手へと続く階段を駆け上がった。

 古い土塀の剥がれ落ちた茶色。ひっそりと咲く名もなき花の淡い紅。

 すべてが、犀星が愛した「時」の積層のように感じられた。

 

「おはよう、おじいさん」

 

 声をかけると、おじいさんはゆっくりとこちらを振り返った。

 深い皺の刻まれた顔が、僕の姿を認めると、陽だまりのように緩む。

 

「おぉ、来たか。……いい顔になったな。何か、答えは見つかったかい」

 

 僕は隣に座り、黙ってリュックから昨日買ったばかりの文庫本を取り出した。

 

「お母さんと、話したんだ。……犀星を、一緒に読んだよ」

 

 おじいさんは驚いたように眉を上げたが、すぐに納得したように深く頷いた。

 

「そうか……。君は見つけたんだね」

 

「うん。お母さんは昔、建築家になりたかったんだって。僕が知っている『お母さん』は仮の姿で、その奥に、まだ逢つたことのない一人の人間がいたんだ」

 

 お母さんも、僕と同じように犀星の言葉に心を動かされたことがあった。

 おじいさんが言った通りだったよ。

 

 僕は、昨日お母さんが作ったポトフの温かさと、彼女が口にした「建築家」という言葉の重みを、言葉を尽くしておじいさんに伝えた。

 おじいさんは川面を見つめたまま、静かに聞いていた。

 

「それでいい。人間はな、一生かけて誰かの一人や二人、本気で捜しあてりゃあ、それで上出来なんだ。……その詩集は、君にとってのこれからの設計図になるだろうよ」

 

 川風が通り抜け、二人の間にある詩集のページをパラパラと捲っていく。

 瑞々しく色づいた景色の中心で、おじいさんの笑顔は、どこまでも深く、温かかった。

 

「……さあ、チャイムが鳴る前に、行きなさい」

 

「うん。行ってきます」

 

 僕は、昨日よりもずっと軽い足取りで土手を駆け下りた。

 振り返ると、おじいさんはまた静かに川を眺めていた。

 

 僕は大きく息を吸い込み、学校へと続く、色彩に満ちた街へと足を踏み出した。

 

 学校の重い鉄の門をくぐると、途端に現実に引き戻されるような喧騒が僕を包み込んだ。

 部活動の掛け声、自転車のブレーキ音、あちこちで弾ける無責任な笑い声。

 昨日までは、そのすべてが僕を削り取るノイズにしか聞こえなかった。

 

 けれど、今の僕のポケットには、あの薄い詩集が入っている。

 僕は指先でその表紙に触れ、呼吸を整えた。

 

(……人間はみなそんな捜し方をしてゐるのではないか)

 

 教室に入り、自分の席にカバンを置く。

 その時、ふと視線が止まった。

 斜め前の席に座る、佐伯さえきだ。

 

 彼はいつも、机に突っ伏すか、ワイヤレスイヤホンで耳を塞いで窓の外を眺めている。

 成績は悪くないのに、授業中はどこか遠い世界に魂を飛ばしているような、そんな奴。

 クラスの連中からは「何を考えてるか分からんジャズオタク」と、少し距離を置かれていた。

 

 今の佐伯も、膝の上でかすかに指を動かしていた。

 トト、トン、トト。

 複雑なシンコペーション。

 

 それはまるでお母さんが大根を刻んでいたあのリズムのように、彼だけの「何か」を組み立てている音に見えた。

 

 いつもなら無視して通り過ぎるはずだった。

 でも、僕の足は自然と彼の机の前で止まった。

 

「……何、聴いてるの」

 

 僕の声に、佐伯の肩がびくりと跳ねた。

 彼はゆっくりと顔を上げ、片方のイヤホンを外す。

 

 そこから、激しいサックスの叫びと、重厚なウッドベースの刻みが、微かな音漏れとなって漏れ出してきた。

 佐伯は不審そうな目で僕を見た。その瞳は、昨日までの僕と同じように、周囲に対して鋭いトゲを逆立てている。

 

「……マイルス。マイルス・デイヴィス。お前には関係ないだろ」

 

 突き放すような言葉。

 

 でも、僕は怯まなかった。

 彼の瞳の奥に、犀星の詩を読んでいた時の自分と同じ、「ここではないどこか」を必死に捜している少年の影を見たからだ。

 

「……その人、何かを捜してるみたいな音だね」

 

 僕がそう言うと、佐伯の瞳が大きく揺れた。

 

「……捜してる、か」

 

 佐伯は、僕が言った言葉を口の中で転がすように繰り返した。

 彼はイヤホンをもう片方も外すと、スマホの画面を消し、僕を正面から見据えた。

 

 その瞳には、さっきまでの拒絶ではなく、得体の知れないものを見つけた時のような、鋭い好奇心が宿っている。

 

「ジャズの即興アドリブってのはさ、あらかじめ決められた場所なんてどこにもないんだ。次に吹く音が正解かどうかも分からないまま、奈落の底に飛び込むみたいに音を繋いでいく」

 

 佐伯は机を指先で弾いた。

 コン、と乾いた音が響く。

 

「……お前の言う通りだよ。こいつらは、音を出しながら、自分が何者なのかを必死に捜しあてようとしてるんだ」

 

 佐伯は僕をじっと見つめ直した。

 

「お前こそ、なんだよ。急にそんなこと言い出して。昨日までは、死んだ魚みたいな目で教科書を眺めてた癖に」

 

 僕は苦笑いして、リュックからあの詩集をゆっくりと取り出した。

 

「これを読んだんだ。室生犀星っていう、昔の詩人」

 

「犀星? ……あぁ、金沢の古い人だろ。堅苦しい言葉のイメージしかないけど」

 

「僕もそう思ってた。もっと違うんだ。この人も、あらかじめ用意された『答え』なんて信じてなかった。誰もいない夜に、一人で言葉を組み立てて、まだ出逢つたことのない誰か――本当の自分を、捜しあてようとしていたんだ。まるで、君が聴いているそのジャズみたいに」

 

 僕は詩集のページを開き、『誰かを探すために』の一節を佐伯に見せた。

 

「犀星はね、金沢の風景を『言葉で組み立て直した』んだってお母さんが言ってた。君のジャズも、きっとバラバラな音を組み立てて、新しい世界を造ろうとしてるんじゃないの?」

 

 佐伯は黙って詩の一節を読んだ。

 教室の喧騒が、一瞬遠ざかる。

 彼の中で、マイルスの鋭いトランペットの音色と、犀星のひりひりした言葉が、火花を散らして共鳴しているのが分かった。

 

「……組み立てる、か。建築家みたいだな」

 

 佐伯が不意に漏らしたその言葉に、僕は息を呑んだ。

 お母さんと同じ言葉。

 おじいさんが「設計図」と呼んだもの。

 

「そうだよ。言葉も、音も……ポトフの具材だって同じだ。バラバラなものを、自分の意志で一つに繋ぎ合わせる。それが、生きていくってことなんだと思う」

 

 僕が熱っぽく語ると、佐伯が「は?」という顔をして、一瞬だけ動きを止めた。

 

「……ポトフ? なんだそれ(笑)」

 

 佐伯は呆れたように吹き出した。

 

「お前、いい話してる最中に何言ってんの。なんでいきなり西洋風の煮込み料理が出てくるんだよ。お洒落かよ」

 

「いや、違うんだよ。昨日、お母さんが作ってくれたんだ」

 

 僕は少し赤くなりながら続けた。

 

「お母さん、昔は建築家になりたかったんだって。でも今は、台所が自分の『現場』なんだって言ってた。……ただの料理じゃないんだよ。バラバラになりそうな僕たちの時間を、バラバラにならないように一つひとつ丁寧に面取りして、組み立ててたんだ。その答えが、昨日のポトフだったんだよ」

 

 佐伯は笑うのをやめて、少しだけ神妙な顔をした。

 

「……母ちゃんが、建築家ね。……へぇ。うちの親父も、ただのサラリーマンだけど、たまに夜中に一人で図面引いてる時がある。……案外、みんな何かを組み立てるために、必死に『今』を煮込んでるのかもな」

 

 佐伯はそう言って、窓の外を流れる雲を眺めた。

 

「面白いな、お前。……なぁ、その詩集、後でちょっと貸してくれよ。犀星の『アドリブ』、俺も聴いてみたくなった」

 

 僕は頷いた。

 初めて、学校という場所が「仮面」だけの場所ではなくなった。

 佐伯という「まだ逢つたことのない誰か」を、僕は今、捜しあてることができたんだ。

 

 キーンコーン、カーンコーン。

 

 放課後を告げるチャイムが、教室の空気を一気に解き放った。

 その瞬間、クラスメイトたちが一斉に動き出す。

 

 カバンを掴んで部活へと足早に駆け出していく奴。スマホを囲んで、昨日のテレビの話に談笑を咲かせる連中。中には、まだ帰りたくなさそうにノートの端に落書きをしている者もいる。

 

 昨日までなら、僕はその光景を「意味のない群れ」として、冷めた目で眺めていただろう。

 けれど、今は違う。

 

(……人間はみなそんな捜し方をしてゐるのではないか)

 

 急に、胸の奥が熱くなるような、不思議な楽しさがこみ上げてきた。

 あそこで笑っている奴も、あっちで急いでいる奴も、本当はみんな、自分でも気づかないうちに「誰か」を、あるいは「まだ見ぬ自分」を捜すために、とぼとぼと、あるいは全力で走っているんじゃないか。

 

 そう思うと、無機質だった教室が、一人ひとりの設計図が交差する、巨大な建築現場のように見えてきた。

 

「……じゃあ、貸すよ。明日まででいいから」

 

 僕はリュックから詩集を取り出し、佐伯に手渡した。

 彼は「サンキュ」と短く答えると、大切そうにそれをカバンに仕舞い、また片方のイヤホンを耳に突っ込んだ。

 

「明日、感想聴かせてよ。……犀星のアドリブが、君のジャズに勝てたかどうか」

 

「ハッ、厳しい注文だな。……楽しみにしてろよ」

 

 佐伯は軽く手を振って、人混みの中に消えていった。

 僕は一人、放課後の廊下を歩く。

 

 校舎を出ると、金沢の街は夕暮れの淡い紫に包まれていた。

 

 おじいさんに報告した朝。

 佐伯のイヤホンから漏れた、ひりひりした音。

 

 そのすべてが、僕の体の中で心地よい熱を帯びている。

 僕はあえて、いつものバスには乗らずに歩くことにした。

 

 浅野川の土手を、今度は一人で歩く。

 朝、おじいさんが座っていたベンチはもう空っぽだったけれど、そこにはまだ、彼の「君ならできる」という静かな励ましが残っているような気がした。

 

 僕は、自分の足音を数えながら歩いた。

 

 とぼとぼ。とぼとぼ。

 

 昨日までの「とぼとぼ」は、行き先のない迷子の足音だった。

 でも、今日の「とぼとぼ」は、違う。

 一歩踏み出すたびに、この街の色彩が、温度が、誰かの呼吸が、僕の五感に飛び込んでくる。

 

(……犀星さん。おじいさん。お母さん。……そして、佐伯)

 

 一人ひとりの名前を心の中で呼んでみる。

 「お母さん」という役割の向こう側にいた、一人の女性。

 「同級生」という記号の向こう側にいた、一人の表現者。

 僕は、たしかに二人を「捜しあてた」んだ。

 

 家が近づくにつれ、立ち並ぶ家々の窓に明かりが灯り始めた。

 その一つひとつに、僕がまだ逢つたことのない、誰かの「本当の姿」隠れている。

 

「ただいま」

 

 玄関を開けると、またあの匂いがした。

 でも、それはもう「退屈な日常」の匂いじゃない。

 今日も誰かが、この場所で、僕たちのために何かを組み立ててくれている、誇り高い「現場」の匂いだ。

 

 僕は鈴の付いたリュックを背負い直し、キッチンのあかりに向かって、一歩踏み出した。

第3章をお読みいただき、ありがとうございます。

 母親を「建築家」として捉えた第2章を経て、今回は学校の友人・佐伯の中にマイルス・デイヴィスのアドリブを聴く回でした。

 犀星の「とぼとぼ」という歩みが、主人公の中で少しずつ「確かな足音」に変わっていく様子を感じていただければ幸いです。

 次回の第4章では、佐伯が詩集を読んで何を感じたのか、そして二人の関係がどう深まっていくのかを描きます。

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