第二章:台所の建築家
金沢の雨は、どこか優しくて、どこか冷たい。
高校生が、一冊の古い詩集と、謎のおじいさんに出会うことから物語は始まります。
第二章のキーワードは「ふるさと」と「母親」。
当たり前だと思っていた台所の風景が、室生犀星の言葉を通して、全く別の「設計図」に書き換えられていく瞬間を描きました。
どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。
玄関の扉を開けると、いつもの家の匂いがした。
出汁の香りと、少しだけ湿った靴の匂い。
テレビのニュース番組が、世界中の出来事を無機質な声で読み上げている。
「あ、おかえり。塾、早かったのね」
キッチンから、母の聞き慣れた声が飛んできた。
いつもなら「お腹すいた」とか「疲れた」とか、適当な返事を投げ返していたはずの言葉が、今の僕にはひどく遠いところから響いているように感じられた。
「……うん。ちょっと、今日は自習することにしたから」
僕は母の顔を見ないようにして、足早に階段を駆け上がった。
後ろで母が何か言いかけた気もしたが、今の僕は、一刻も早くあの「言葉」と二人きりになりたかった。
自分の部屋に入り、ドアを閉める。
部屋の明かりをつけ、カバンの中からあの薄い文庫本を取り出した。
机の電気スタンドだけを灯し、僕は椅子に深く腰掛けた。
窓の外では、さっきまで僕がいた金沢の夜が、静かに深まっていく。
ページをめくる指先に触れる紙の感触は、スマホのガラス面とは比べものにならないほど、生々しくて脆い。
「……ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」
あまりにも有名なその一節をなぞりながら、僕はふと思った。
犀星さんは、東京の空の下でこの詩を書いたのだと聞いたことがある。
故郷を離れ、帰る場所を失った絶望の中で歌った言葉。
けれど、今の僕はどうだろう。
僕は今、間違いなくこの金沢という街の真ん中に住んでいる。
それなのに、どうして僕にとっての「ふるさと」は、こんなにも遠く、悲しいものに感じられるんだろう。
自分の家があり、母さんがいて、毎日通う学校がある。
それなのに、僕はまだ、彼女のことを何も知らない。
おじいさんは、犀星のことを「繊細な心を持った男」だと言った。
きっと、物理的な距離のことじゃないんだ。
大好きで、離れたくなくて、でも、ここにいると自分の居場所がないような気がして、苦しくてたまらない。
手が届くほど近くにいるのに、心は果てしなく遠い場所にある。
その「もどかしさ」が、彼にこの詩を書かせたのではないか。
だとしたら、僕と同じだ。
同じ屋根の下に住み、同じ食卓を囲んでいても、僕は「家族」というものの正体がよくわかっていない。
一番近くにいるはずの母さんさえ、僕にとっては誰よりも遠い「ふるさと」みたいなものだった。
僕は、本の最初の方に載っていた詩をもう一度、今度は一音ずつ、心の奥底で反芻するように読み返した。
「……一人づつ、捜しあててゐるのではないか」
最後の一行を読み終えたとき、部屋の空気が一変したような気がした。
そうだ。僕は変なんかじゃない。
毎日顔を合わせている「お母さん」という名前。
成績を心配し、ご飯を作ってくれる「母親」という役割。
そんな、もう知っているはずの「逢つたことのある人」に満足せず、その奥に隠れている、まだ出逢ったことのない一人の人間を捜そうとすること。
(……お母さん。あなたは、本当は誰なんだ)
僕は詩集を手に取ると、部屋のドアを開け、一歩ずつ、階段を下りていった。
廊下の突き当たり、キッチンのドアの隙間から、黄色い光が細長く漏れていた。
胸の鼓動が、犀星の「とぼとぼ」という歩調と重なって、静かに波打っている。
(……はじめて逢ふために、人を捜してゐるのが、そんなに変に見えるのでせうか)
ドアを細く開けると、そこには立ち昇る白い湯気と、背中を丸めて一心不乱に手を動かす一人の女性の姿があった。
彼女は無言で大根を刻んでいた。
トントン、トントン……。
その規則正しいリズムは、まるで何かを必死に組み立てようとしている、孤独な作業の音のように聞こえた。
ふと、母の動きが止まった。
彼女は包丁を置き、まな板の上の野菜をじっと見つめながら、深く、重いため息をついた。
その肩が、ほんの少しだけ震えているように見えた。
「……お母さん」
僕の喉から出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
母は慌てて背筋を伸ばしてこちらを振り返った。
その顔には、いつもの「母親」らしい穏やかな笑みが、あらかじめ準備されていたかのように張り付いていた。
「あら、どうしたの? お腹空いた? もうすぐできるわよ」
「お母さんってさ、お母さんになる前は……誰だったの?」
その問いが放たれた瞬間、キッチンの空気が凍りついた。
「……誰って、どういう意味?」
「お母さんは、お母さんじゃない。昔は、名前があって、やりたいことがあって、一人の人間として歩いてたんでしょう? その時のあなたは、誰だったのって、聞きたかったんだ」
母は目を丸くして、僕をじっと見つめた。
僕の手にある詩集と、僕の視線を交互に眺めている。
「……犀星。懐かしいわね。私もね、昔よく読んだわ。この人の言葉にある、独りで何かと戦っているような、あのひりひりした感じが好きだった」
母は、僕がさっきまで読んでいた『誰かを探すために』のページを、吸い寄せられるように開いた。
「『人間はみなそんな捜し方をしてゐるのではないか』……。そうよね。毎日顔を合わせていると、お互いに見えている部分だけで納得しちゃう。でも、本当はもっと別の自分が、ずっと奥の方に隠れているのよね」
母は一度言葉を切ると、眩しいものを見るようにキッチンを見渡した。
「犀星はね、金沢の川や、古い家や、そこに流れる時間を、言葉で『組み立て直した』人なのよ。……実はね、私も昔、そんなふうに何かを組み立てる人になりたかったの。……建築家、とかね」
建築家。
その言葉が彼女の口から出た瞬間、僕の中で、さっき聞いていたまな板の音がカチリと音を立てて繋がった。
「でもね」とお母さんは少し照れくさそうに笑い、詩集を僕に返した。
「今は、この台所が私の現場。毎日、目に見えない家を建てているようなものね。……そんな捜し方、犀星に言わせれば『おかしい人』かしらね」
食卓に運ばれてきたのは、琥珀色のスープが美しいポトフだった。
面取りされた大根、柔らかく煮込まれた人参。
バラバラだった素材たちが、一つの鍋の中で完璧に「組み立て」られている。
「いただきます」
一口、スープを口に運ぶ。野菜の甘みが、驚くほど深く体に染み渡った。
目の前にいるのは、ただの「お母さん」じゃない。
犀星の詩を愛し、かつて建築家を夢見、今は台所という現場で僕たちの命を組み立てている、一人の、誇り高い人間だ。
「……ねえ、お母さん。僕、明日からまた学校も塾も行くよ。でも、今までみたいに、ただ行くだけじゃないと思う」
僕は、ポケットの中の詩集の感触を確かめた。
「僕も、僕なりの『誰かを探すために』、とぼとぼ歩いてみることにする。……変な人だって思われても、死ぬまで捜し続けるつもりで」
母は驚いたように僕を見つめ、それから今日一番の、本当の笑顔を見せた。
「そう。……あなたも、おかしい人になるのね。いいんじゃない? 犀星のふるさと、金沢に住んでいるんだもの」
外では浅野川のせせらぎが、変わらぬリズムで夜を刻んでいる。
窓ガラスに映る僕たちの姿は、どこか知らない他人のようでもあり、けれど、これ以上ないほど確かな、新しい「家族」のようでもあった。
自室に戻り、僕は再び机に向かった。
部屋の空気は、数時間前とは明らかに違っていた。
重たく沈殿していた孤独は消え、代わりに、まだ見ぬ誰かへと繋がる風が吹き抜けているような緊張感に満ちている。
僕は机の上に置かれた詩集を、もう一度開いた。
母が言った言葉を頭の中で反芻する。
(……犀星はね、金沢の川や、古い家や、そこに流れる時間を、言葉で『組み立て直した』人なのよ)
僕も、僕自身の「家」を、僕自身の「言葉」で組み立て直していかなければならない。
たとえそれが「とぼとぼ」とした、不格好な歩みだとしても。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
室生犀星といえば「ふるさとは遠きにありて思ふもの」が最も有名ですが、その言葉は、同じ屋根の下にいる家族にさえ当てはまるのではないか……。そんな思いからこのエピソードを執筆しました。
ポトフの湯気の向こう側に、一人の「人間」を見つける。
そんな静かな発見を、読者の皆様と共有できれば幸いです。
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第三章は、さらに新しい出会いと「音」の物語です。
また次のページでお会いしましょう。




