第一章:室生犀星といふ男、言葉の居場所
数ある作品の中から目に留めていただき、ありがとうございます。
舞台は、石川県金沢市。
二つの川が流れるこの街には、かつて「犀星」と呼ばれた詩人がいました。
誰かと繋がっているはずなのに、どこか空虚な現代の。
スマホを握りしめたまま、自分の居場所を探して「とぼとぼ」と歩く少年の物語です。
もしよろしければ、金沢の川のせせらぎを聞くような気持ちで、ゆっくりとお付き合いいただければ幸いです。
リュックのジッパーに揺れる小さな金色の鈴が、「チリリ……」と高い音を立てた。
十五年前、近所の駄菓子屋の『たまごくじ』で当てたハズレの景品。
塗装は剥げ、もはや鈍い真鍮のような色をしているけれど、僕はなぜかこれを捨てられずにいた。
空気が澄んだ春の日。
金沢の街からは、東にそびえる医王山の肩越しに、白く輝く**白山**の連峰が望める。
その雪を頂いた神々しい稜線は、まるでこの街を静かに見守る巨大な背中のようだ。
視線を下ろせば、街を抱く山々は萌え始めたばかりの若緑に染まり、さらにその懐へと潜り込むと、ひがし茶屋街の裏を流れる浅野川――通称「女川」の土手が現れる。
そこには、今年も淡い桃色の帯が続いていた。主計町の古い家並みを背景に、見事な桜が川面へとしだれている。
僕は、スマホの画面に映る「既読」の文字と、止まらない通知の音に疲れ果てていた。
指先一つで誰とでも繋がれるはずなのに、心の中に砂漠のような空白が広がっている。
知っているはずの友達。知っているはずの家族。
なのに、僕は誰のことも本当には知らないような気がして、怖かった。
塾へ向かう足を止め、僕は吸い寄せられるように土手へと降りた。
舞い散る花びらの中に、一人の老人が立っていた。
――とぼとぼ。
地面の小石を一つずつ愛おしむような、ひどくゆっくりとした足取り。
その歩き方を見た瞬間、僕の胸の奥で、古い時計の針が小さく震えたような気がした。
(……この人、どこかで見たことがあるような……)
遠い、ずっと遠い記憶の底。
セピア色の景色の中で、僕はこれと同じ「とぼとぼ」とした影を追いかけていたような、不思議な既視感が僕を捉えて離さない。
けれど、それがいつ、どこでのことだったのか、今の僕には思い出せなかった。
老人は立ち止まり、川面を流れる花筏を見つめて、独り言のように呟いた。
「……けふもあなたは、何をさがしにとぼとぼと歩いてゐるのです。……まだ逢つたこともない人なんですが、その人にもしかしたら、けふ逢へるかと尋ねて歩いてゐるのです」
その声は、風に乗って僕の耳に直接流れ込んできた。
「……何?、落としたんですか?」
気づけば、僕は声をかけていた。
老人はゆっくりと振り向き、深い皺の刻まれた顔を綻ばせた。
「いや、落としたんじゃない。探しているんだよ。……君、動物の『犀』を知っているかい?」
「え、はい。動物園の……」
「そうだ。その犀の星、と書いて**『犀星』**。……あっちの川(犀川)のほとりで生まれた、金沢の男だよ」
おじいさんは、西の空を杖で指した。
金沢には、性格の違う二つの大きな川が流れている。
西側を流れる、豪快で雄大な「男川」こと犀川。
そして今、僕たちが立っている、たおやかで優雅な「女川」こと浅野川。
「犀星はね、あの荒々しい犀川のほとりで育ちながら、この静かな浅野川のような繊細な心を持っていた男んだ。川だって、場所によって、時間によって、呼び名も表情も変わる。人間も同じだよ」
おじいさんは、ポケットから角が少し丸くなった古い名刺を取り出した。
「私はね、現役の頃はそれなりに人と名刺を交わしてきた。当時はそれが当たり前の挨拶だと思っていたんだが……今になって思う。肩書きや名前なんてものは、ただの『仮の姿』に過ぎないんだよ」
おじいさんの声が、女川のせせらぎに混じって、静かに僕の耳に届く。
「人はね、最初は『○○君』と呼ばれて生まれてくる。それがいつの間にか『○○さん』になり、会社へ行けば『係長』や『課長』。家へ帰れば『お父さん』や『お母さん』になり、やがては『おじいちゃん』『おばあちゃん』だ。……急流のような時期もあれば、静まり返った淵のような時期もある」
そうやって、いくつもの名前を背負い、表情を変えていくうちに、その人自身の本当の顔が、どんどん見えなくなってしまうんだよ。
おじいさんは、主計町の茶屋街を照らし始めた街灯に目を向けた。
「だからね、役職や呼び名だけで、その人を知った気になってはいけない。……君のすぐ隣にいる人。君のお母さんは、君にとって『お母さん』という名前以外の、一体『誰』だい?」
おじいさんの言葉が、浅野川のせせらぎに溶けて消える。
主計町の石畳に街灯がぼんやりとした光の輪を描き出していた。
僕はその光から逃げるように、ふと夜の帳が下り始めた空を仰いだ。
群青色の空には、まだ星はまばらだ。
けれど、その底知れない暗闇を見つめていると、自分という存在が吸い込まれてしまいそうな、冷たい広がりを感じる。
この広い空の下、何億という人間が、それぞれに違う名前を背負って生きている。その一人ひとりに、おじいさんの言う「本当の顔」があるのだとしたら。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
誰かからの通知。あるいは、どうでもいい広告。
いつもなら反射的に取り出していたその震えを、今の僕は、ただの微かなノイズとしてやり過ごした。
今、僕を揺さぶっているのは、掌の中の冷たい機械じゃない。
耳の奥で鳴り止まない、あの一行だ。
――けふもあなたは、何をさがしにとぼとぼと歩いてゐるのです。
僕は弾かれたように、夜の闇へと駆け出した。
ひがし茶屋街の裏路地、紅殻格子の間をすり抜け、自分の足音だけを頼りに走る。
心臓の鼓動が早くなるにつれ、あのおじいさんの「とぼとぼ」とした歩き方が、僕の血の中に混ざり合っていくような気がした。
大通りを避けた先に、一軒の古い書店の看板が浮かび上がった。『文昌堂』。
看板の文字は潮風に吹かれたように掠れ、息を切らしながら、僕はその重い引き戸に手をかけた。錆びた鈴が「チリン」と頼りなく鳴った。
店内は、湿った紙と古い埃が混ざり合ったような、濃密な沈黙に満ちている。
「……むろう、さいせい、って人の本、ありますか」
奥のカウンターで新聞を読んでいた店主は、顔も上げずに棚の最上段を指差した。
僕は背伸びをして、薄暗い棚を指先でなぞっていく。
背表紙の文字が掠れて読めないもの、厚みがありすぎて手に取るのがためらわれるもの……。一冊ずつ、その背中に触れては「これじゃない」と繰り返す。
(どこだ……)
おじいさんの言っていた「犀星」という名を探して、僕の指はとぼとぼと棚を彷徨う。
やがて、棚の隅、他の大きな本に押し潰されそうになっていた一冊の薄い文庫本に、吸い寄せられるように指が止まった。
『室生犀星詩集』。
手に取ると、紙の冷たさがじわりと体温を奪っていく。
吸い込まれるように、僕はその場でページをめくった。
カサリ、と乾いた音が沈黙を破る。
「けふもあなたは/何をさがしにとぼとぼと歩いてゐるのです」
活版印刷の、少し凹凸のある文字が目に飛び込んできた。
おじいさんの声が、ページの中から立ち上がってくるような錯覚に陥る。
「まだ逢つたこともない人なんですが/その人にもしかしたら/けふ逢へるかと尋ねて歩いてゐるのです」
そこには、スマホの中の誰にも言えなかった僕の孤独が、百年も前からずっと待っていたかのように座っていた。
「逢つたことのある人には、わたくしは逢ひたくないのです」という一行に、僕は震えた。
知っている人ばかりを気にし、自分をすり減らしていた僕の心に、その言葉は冷たく、けれど鋭い光を放って突き刺さった。
僕はその本を握りしめたまま、レジへ向かった。
帳場にいた店主は、文庫本を一目見ると、眼鏡の奥の目を少しだけ細めた。
「……室生犀星か。いい本を選んだね、お若いの」
店主は、まるで旧友の名を呼ぶような声で呟いた。
「犀星は、目に見えないものを言葉にして閉じ込めた男だ。今夜、静かな場所で読んでごらん。きっと、君が探していた『誰か』の声が聞こえてくるはずだよ」
店を出ると、浅野川の向こう岸の街灯が、川面に長い光の筋を描いていた。
カバンの中の詩集が、温かい心臓のように腰のあたりで揺れている。
僕は紅殻格子の間を、あえて「とぼとぼ」と、自分の足音を確かめるように歩き出した。
今夜、僕は誰に会うのでもなく、ただこの古い詩集を開こう。
犀星という男が閉じ込めた言葉の数々が、僕の中でどんな音を立てるのか。
それを確かめるために、僕は家路を急いだ。
第一章をお読みいただき、ありがとうございました。
作中に登場する**「とぼとぼ」**という言葉。
これは室生犀星の詩『誰かを探すために』の一節からお借りしています。
犀星の言葉は、今の時代に読んでも、驚くほど鋭く私たちの孤独に寄り添ってくれる気がします。
また、冒頭に登場した**「白山」**は、金沢市民にとって心の拠り所とも言える美しい霊峰です。晴れた日に見えるその真っ白な姿は、本当に神々しく、街のどこにいても見守られているような安心感を与えてくれます。
少年の手元に渡った一冊の詩集。
これから彼がこの街でどんな「誰か」に出会っていくのか、見守っていただけると嬉しいです。
第ニ章は、詩集がもたらす小さな変化についてお届けします。




