表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/11

第一章:室生犀星といふ男、言葉の居場所

 数ある作品の中から目に留めていただき、ありがとうございます。

 舞台は、石川県金沢市。

 二つの川が流れるこの街には、かつて「犀星さいせい」と呼ばれた詩人がいました。

 誰かと繋がっているはずなのに、どこか空虚な現代の。

 スマホを握りしめたまま、自分の居場所を探して「とぼとぼ」と歩く少年の物語です。

 もしよろしければ、金沢の川のせせらぎを聞くような気持ちで、ゆっくりとお付き合いいただければ幸いです。

 リュックのジッパーに揺れる小さな金色の鈴が、「チリリ……」と高い音を立てた。


 十五年前、近所の駄菓子屋の『たまごくじ』で当てたハズレの景品。


 塗装は剥げ、もはや鈍い真鍮のような色をしているけれど、僕はなぜかこれを捨てられずにいた。


 空気が澄んだ春の日。


 金沢の街からは、東にそびえる医王山いおうぜんの肩越しに、白く輝く**白山はくさん**の連峰が望める。


 その雪を頂いた神々しい稜線は、まるでこの街を静かに見守る巨大な背中のようだ。


 視線を下ろせば、街を抱く山々は萌え始めたばかりの若緑に染まり、さらにその懐へと潜り込むと、ひがし茶屋街の裏を流れる浅野川――通称「女川おんながわ」の土手が現れる。


 そこには、今年も淡い桃色の帯が続いていた。主計町かずえまちの古い家並みを背景に、見事な桜が川面へとしだれている。


 僕は、スマホの画面に映る「既読」の文字と、止まらない通知の音に疲れ果てていた。


 指先一つで誰とでも繋がれるはずなのに、心の中に砂漠のような空白が広がっている。


 知っているはずの友達。知っているはずの家族。


 なのに、僕は誰のことも本当には知らないような気がして、怖かった。


 塾へ向かう足を止め、僕は吸い寄せられるように土手へと降りた。


 舞い散る花びらの中に、一人の老人が立っていた。


 ――とぼとぼ。


 地面の小石を一つずつ愛おしむような、ひどくゆっくりとした足取り。


 その歩き方を見た瞬間、僕の胸の奥で、古い時計の針が小さく震えたような気がした。


(……この人、どこかで見たことがあるような……)


 遠い、ずっと遠い記憶の底。


 セピア色の景色の中で、僕はこれと同じ「とぼとぼ」とした影を追いかけていたような、不思議な既視感デジャヴが僕を捉えて離さない。


 けれど、それがいつ、どこでのことだったのか、今の僕には思い出せなかった。


 老人は立ち止まり、川面を流れる花筏はないかだを見つめて、独り言のように呟いた。


「……けふもあなたは、何をさがしにとぼとぼと歩いてゐるのです。……まだ逢つたこともない人なんですが、その人にもしかしたら、けふ逢へるかと尋ねて歩いてゐるのです」


 その声は、風に乗って僕の耳に直接流れ込んできた。


「……何?、落としたんですか?」


 気づけば、僕は声をかけていた。


 老人はゆっくりと振り向き、深い皺の刻まれた顔を綻ばせた。


「いや、落としたんじゃない。探しているんだよ。……君、動物の『さい』を知っているかい?」


「え、はい。動物園の……」


「そうだ。その犀の星、と書いて**『犀星さいせい』**。……あっちの川(犀川)のほとりで生まれた、金沢の男だよ」


 おじいさんは、西の空を杖で指した。


 金沢には、性格の違う二つの大きな川が流れている。


 西側を流れる、豪快で雄大な「男川」こと犀川。

そして今、僕たちが立っている、たおやかで優雅な「女川」こと浅野川。


「犀星はね、あの荒々しい犀川のほとりで育ちながら、この静かな浅野川のような繊細な心を持っていた男んだ。川だって、場所によって、時間によって、呼び名も表情も変わる。人間も同じだよ」


 おじいさんは、ポケットから角が少し丸くなった古い名刺を取り出した。


「私はね、現役の頃はそれなりに人と名刺を交わしてきた。当時はそれが当たり前の挨拶だと思っていたんだが……今になって思う。肩書きや名前なんてものは、ただの『仮の姿』に過ぎないんだよ」


 おじいさんの声が、女川のせせらぎに混じって、静かに僕の耳に届く。


「人はね、最初は『○○君』と呼ばれて生まれてくる。それがいつの間にか『○○さん』になり、会社へ行けば『係長』や『課長』。家へ帰れば『お父さん』や『お母さん』になり、やがては『おじいちゃん』『おばあちゃん』だ。……急流のような時期もあれば、静まり返った淵のような時期もある」


 そうやって、いくつもの名前を背負い、表情を変えていくうちに、その人自身の本当の顔が、どんどん見えなくなってしまうんだよ。


 おじいさんは、主計町の茶屋街を照らし始めた街灯に目を向けた。


「だからね、役職や呼び名だけで、その人を知った気になってはいけない。……君のすぐ隣にいる人。君のお母さんは、君にとって『お母さん』という名前以外の、一体『誰』だい?」


 おじいさんの言葉が、浅野川のせせらぎに溶けて消える。


 主計町の石畳に街灯がぼんやりとした光の輪を描き出していた。


 僕はその光から逃げるように、ふと夜の帳が下り始めた空を仰いだ。


 群青色の空には、まだ星はまばらだ。


 けれど、その底知れない暗闇を見つめていると、自分という存在が吸い込まれてしまいそうな、冷たい広がりを感じる。


 この広い空の下、何億という人間が、それぞれに違う名前を背負って生きている。その一人ひとりに、おじいさんの言う「本当の顔」があるのだとしたら。


 ポケットの中で、スマホが短く震えた。


 誰かからの通知。あるいは、どうでもいい広告。


 いつもなら反射的に取り出していたその震えを、今の僕は、ただの微かなノイズとしてやり過ごした。


 今、僕を揺さぶっているのは、掌の中の冷たい機械じゃない。


 耳の奥で鳴り止まない、あの一行だ。


 ――けふもあなたは、何をさがしにとぼとぼと歩いてゐるのです。


 僕は弾かれたように、夜の闇へと駆け出した。


 ひがし茶屋街の裏路地、紅殻格子の間をすり抜け、自分の足音だけを頼りに走る。


 心臓の鼓動が早くなるにつれ、あのおじいさんの「とぼとぼ」とした歩き方が、僕の血の中に混ざり合っていくような気がした。


 大通りを避けた先に、一軒の古い書店の看板が浮かび上がった。『文昌堂』。


 看板の文字は潮風に吹かれたように掠れ、息を切らしながら、僕はその重い引き戸に手をかけた。錆びた鈴が「チリン」と頼りなく鳴った。


 店内は、湿った紙と古い埃が混ざり合ったような、濃密な沈黙に満ちている。


「……むろう、さいせい、って人の本、ありますか」


 奥のカウンターで新聞を読んでいた店主は、顔も上げずに棚の最上段を指差した。


 僕は背伸びをして、薄暗い棚を指先でなぞっていく。


 背表紙の文字が掠れて読めないもの、厚みがありすぎて手に取るのがためらわれるもの……。一冊ずつ、その背中に触れては「これじゃない」と繰り返す。


(どこだ……)


 おじいさんの言っていた「犀星」という名を探して、僕の指はとぼとぼと棚を彷徨う。


 やがて、棚の隅、他の大きな本に押し潰されそうになっていた一冊の薄い文庫本に、吸い寄せられるように指が止まった。


『室生犀星詩集』。


 手に取ると、紙の冷たさがじわりと体温を奪っていく。


 吸い込まれるように、僕はその場でページをめくった。 


 カサリ、と乾いた音が沈黙を破る。


「けふもあなたは/何をさがしにとぼとぼと歩いてゐるのです」


 活版印刷の、少し凹凸のある文字が目に飛び込んできた。


 おじいさんの声が、ページの中から立ち上がってくるような錯覚に陥る。


「まだ逢つたこともない人なんですが/その人にもしかしたら/けふ逢へるかと尋ねて歩いてゐるのです」


 そこには、スマホの中の誰にも言えなかった僕の孤独が、百年も前からずっと待っていたかのように座っていた。


「逢つたことのある人には、わたくしは逢ひたくないのです」という一行に、僕は震えた。


 知っている人ばかりを気にし、自分をすり減らしていた僕の心に、その言葉は冷たく、けれど鋭い光を放って突き刺さった。


 僕はその本を握りしめたまま、レジへ向かった。


 帳場にいた店主は、文庫本を一目見ると、眼鏡の奥の目を少しだけ細めた。


「……室生犀星か。いい本を選んだね、お若いの」


 店主は、まるで旧友の名を呼ぶような声で呟いた。


「犀星は、目に見えないものを言葉にして閉じ込めた男だ。今夜、静かな場所で読んでごらん。きっと、君が探していた『誰か』の声が聞こえてくるはずだよ」


 店を出ると、浅野川の向こう岸の街灯が、川面に長い光の筋を描いていた。


 カバンの中の詩集が、温かい心臓のように腰のあたりで揺れている。


 僕は紅殻格子の間を、あえて「とぼとぼ」と、自分の足音を確かめるように歩き出した。


 今夜、僕は誰に会うのでもなく、ただこの古い詩集を開こう。


 犀星という男が閉じ込めた言葉の数々が、僕の中でどんな音を立てるのか。


 それを確かめるために、僕は家路を急いだ。



 第一章をお読みいただき、ありがとうございました。

 作中に登場する**「とぼとぼ」**という言葉。

 これは室生犀星の詩『誰かを探すために』の一節からお借りしています。

 犀星の言葉は、今の時代に読んでも、驚くほど鋭く私たちの孤独に寄り添ってくれる気がします。

 また、冒頭に登場した**「白山はくさん」**は、金沢市民にとって心の拠り所とも言える美しい霊峰です。晴れた日に見えるその真っ白な姿は、本当に神々しく、街のどこにいても見守られているような安心感を与えてくれます。

 少年の手元に渡った一冊の詩集。

 これから彼がこの街でどんな「誰か」に出会っていくのか、見守っていただけると嬉しいです。

 第ニ章は、詩集がもたらす小さな変化についてお届けします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ