第2話「救世主なら、宿代くらい払ってください」
金貨が五百枚ある。
ミラ・ヴァーミリオンは宿屋《銀の匙》の二階、小机の上へそれを五十枚ずつ十列に積み上げて、さっきから何度も数え直していた。
指先で列の高さを揃え、端の一枚がずれていないか確認し、それからまた最初の列へ戻る。
(この金貨、縁のギザギザ、前より細かくない?)
そんなことを考えている場合ではないのに、指が勝手に確かめていた。
昨日の朝は銅貨七枚と銀貨二枚だった。今は金貨五百枚。数えても数えても減らないというのは、なかなか良い体験だ。
「何してる」
酒瓶を提げたゼノ・クロウが部屋へ入ってきた。
「確認」
「さっきもしていただろう」
「金は確認して困るものじゃないの」
「増えるのか」
「減ってないか見るの」
「誰が盗る」
ミラはゼノを見た。
「お前」
「失礼な」
「昨日の前科忘れた?」
「あれは投資だ」
「回収できてないでしょ」
「三人とも美人だった」
「それ回収って言わないから」
金がある。それは間違いない。それなのに、まったく安心できないのはなぜだろう。目の前に元凶が立っているからだ。
階下へ降りて、まず宿代を払った。
主人が硬貨を数え、それから顔を上げる。
「やっと払ったね」
「見て。この厚み」
「自慢するほど滞納してたの?」
「昨日までとは違うのよ」
「そりゃ結構」
主人は帳簿へ線を引き、それから妙な間を置いた。嫌な間だった。
「ところで」
「何」
「表の人たち、どうにかしてくれない?」
ミラは窓へ寄って、外を見た。
人だかりができていた。それも、宿の前の通りを完全に塞ぐ規模のものだ。
花を抱えた若い娘がいて、包みを掲げた商人がいて、手を組んで祈っている老人がいる。子供が親の腕から身を乗り出し、記者らしい男が紙束を抱えて誰かに話を聞いている。その後ろには兵士と、神官と、役人らしい服装の男まで並んでいた。
「……何これ」
「救世主様でしょ」
「宿代払った客です」
「昨日までは払ってない客だったけどね」
「今日は払った」
「そうだね」
主人は感心するでもなく、布巾で卓を拭き始めた。
裏口から出たのに、通りへ出た瞬間には囲まれた。
二人の名前は、一晩で街中へ広まっていたらしい。
「救世主様が使った剣!」
露店の商人が抜き身を掲げている。
「俺の剣ではない」
「では同型!」
「粗悪品だな」
「英雄監修!」
「今監修してないでしょ!」
ミラが叫んでも、商人は聞いていなかった。すでに次の客へ同じ口上を始めている。
別の店の前を通ると、今度は看板が目に入った。
《ミラ様が召し上がった肉料理》
ミラの足が止まる。
「……食べたっけ」
「これから食べていただければ」
「順番逆!」
ただ、鉄板の上で焼かれている肉は正しくうまそうだった。厚みも申し分ない。ミラは値札を見た。
「救世主価格?」
「特別価格です!」
「倍になってんじゃん!」
「特別ですので」
「特別に高いだけでしょそれ!」
それでも、匂いには勝てなかった。ミラは財布から金貨を一枚取り出す。
「これで足りるでしょ」
「い、いりません!」
店主が両手を振った。
「何で」
「救世主様からお代をいただくなんて、そんな!」
「払わせて。肉食べたいだけなんだけど!」
「ぜひ献上させてください!」
「献上された肉って、急にまずそうに聞こえるからやめて!」
押し問答の末、金貨は結局懐へ戻った。皿だけが差し出される。
もらった肉は、腹が立つくらいうまかった。
人混みをどうにか抜けたところで、昨日の役人が待っていた。上等な服に王国紋章。今日は書状まで持っている。
「ミラ・ヴァーミリオン殿。ゼノ・クロウ殿。王都より正式な招待状が届いております」
「中身は」
「国王陛下への謁見。勲章の授与。戦功褒賞。爵位の検討。それに宴席と、西方戦線への協力要請を」
「戦功褒賞?」
ミラの目が変わった。
「いくら?」
「金銭だけではなく名誉を――」
「いくら?」
「まだ査定中です」
「じゃあ行かない」
「早い!」
横でゼノが招待状を奪い、参加者一覧の欄を眺めていた。
「貴族の女は来るのか」
「……来ますが」
「行く」
「勝手に決めんな!」
役人が咳払いをする。
「ただし、その前に一つだけ確認を」
そこで声の調子が少し変わった。
「西方軍が崩れたことで、人間軍が前線を押し上げました。魔王軍は撤退しています」
「いいことでしょ」
「はい。ただ、撤退した部隊の一部が、別の街道へ流れ始めています」
ミラは黙った。
炉を止めた。それだけのつもりだった。
軍が動いたのは分かる。助かった場所があるのも分かる。
でも、昨日まで安全だった場所が今日はそうじゃないかもしれない、というのは、今初めて言われた。
「お二人の責任だと言うつもりはありません」
役人が続けた。
「戦争とは、そういうものです」
「……そうね」
「だからこそ、我が国としてはお二人に――」
「嫌」
「まだ最後まで」
「聞かなくていい」
「なぜです」
「一回手伝ったら、次もやれってなるでしょ」
役人が口を閉じた。図星らしい。
「しかし、救世主として――」
「それ」
「はい?」
「その呼び方やめて」
ミラは相手の目を見て言った。
「俺に命令したいなら」
ゼノが招待状を役人へ返しながら言った。
「まず俺より強くなれ」
「……無理そうなので、お願いしているのですが」
「なら断る」
役人が額を押さえる。それから、諦めきれない顔で言った。
「本来なら、このような任務は王国勇者が担うのですが」
「勇者いるの?」
「おります」
「じゃあそいつに頼めば?」
「西方戦線に出ております」
「弱いな」
「会ったこともないでしょう!」
ゼノは肩をすくめただけだった。
王国を断った直後、今度は封術局が来た。昨日の調査員だ。
「昨日の件について、事情聴取を」
「飯出る?」
「出ない」
「帰って」
「来い!」
結局、ギルドの奥の小部屋へ通された。
調査員は書類を広げ、軍脈炉の解析結果を一つずつ確認していく。ミラが書き換えた分配認証の箇所、ゼノが斬った幹部の契約回路、それから焼かれた再起動中枢まで、順に指でなぞっていった。
「炉自体は残った。地脈への接続も生きている。判断としては妥当だ」
「褒めてる?」
「事実を確認している」
「褒めてないんだ」
調査員は書類をめくり、一枚を裏返した。
「それと、一つ報告がある。軍脈炉の制御部に、現代法術と酷似した部分があった」
ミラの手が止まる。
「やっぱり?」
「ただし、同一ではない」
「でしょうね」
それだけだった。ミラもそれ以上は聞かなかった。聞いたところで、この男も答えを持っていない。
「もう一つ」
調査員が別の資料を机へ置いた。
「軍脈炉停止直前の記録だ」
入力量と出力量の差。二・四%。
ミラはその数字を見た。昨日は戦闘中だったから、走り書きの計算しかできなかった。今は違う。ちゃんと数字が並んでいる。
「……これ」
「封術局では変換損失として処理している」
「環境散逸と術式摩擦と、計測誤差込みで?」
「そうだ」
「二・四って、そこまで大きくない?」
「大きい。だが説明がつく範囲ではある」
ミラは横を見た。
ゼノは壁にもたれて酒を飲んでいる。昨日、あの地下で確かに何か言った。終わったあとも流れが残る、と。俺の時代にはなかった、と。
調査員もその視線に気づいたらしい。
「ゼノ殿。これについて、何かご存知では」
ゼノは瓶から口を離した。
「さあな」
「……は?」
「昨日は喋ってたじゃん」
ミラが言う。
「昨日は暇だった」
「今も暇でしょ!」
「調べたきゃ自分で調べろ」
それきり、ゼノは窓の外を見て何も言わなくなった。
ミラは少しだけ、その横顔を見た。
「……ま、いいけど」
今は肉の方が大事だった。たぶん。
建物を出ると、また囲まれた。
「神の導きにより現れた救世主――」
「違います」
「救世主公認商品を――」
「しません」
「兵士への激励を――」
「しません」
「ぜひ我が家へ――」
最後の一人は貴族だった。しかも隣に令嬢を連れている。
「行こう」
「行かない!」
ミラはゼノの襟を掴んで引き戻した。
飯を食いに行こうとすると人が集まる。酒場へ行こうとすると人が集まる。依頼掲示板を見に行こうとすると人が集まって、掲示板が見えない。
金貨は五百枚ある。使い道がない。使いに行けない。
「……この街、無理」
「まだ二日目だぞ」
「二日で分かった」
宿へ戻り、机の上に地図を広げた。金貨の山はもう袋へ詰めてある。
「出る」
「どこへ」
「ここじゃないとこ」
「雑だな」
「この街もう無理なの」
「俺は気に入っている」
「女いるからでしょ」
「当然だ」
「じゃあ置いてく」
「それは困る」
「何で」
「金を持っていない」
「お前ほんと……!」
人目を避けてギルドの掲示板を見に行くと、いくつか依頼が残っていた。
その中の一枚。
《東街道・食料輸送隊護衛》 報酬、金貨二十枚。
「安い」
そう言いながら、ミラの目は依頼書の下の方で止まっていた。目的地の町の欄に、余計な一行が添えてある。
当地名物、炙り角牛の香草焼き。
「……受ける」
「報酬が安いぞ」
「名物料理がある」
「くだらん」
「昨日『美女を見逃すと人生が危険』とか言ってた奴に言われたくないんだけど」
「あれは真理だ」
「肉も真理でしょ」
「並べるな」
「並ぶわよ」
受付で手続きをしていると、職員が小声で言った。
「あの、東の方なんですけど」
「何」
「最近、荷が上がってきてなくて」
「魔王軍?」
「それもあると思うんですけど……値段の上がり方が、ちょっと変で」
ミラは半分聞き流して、依頼書を鞄へ入れた。
西門を出ようとしたところで、人だかりに行く手を塞がれた。
中央で男が声を張り上げている。
「救世主ミラ様公認! 魔王軍避けの護符!」
「……何あれ」
「お前の信者だろう」
「違う」
売人は木の板に紙を貼っただけのものを掲げ、堂々と続けていた。
「こちら、救世主ミラ様が軍脈炉を破壊した際に使用した術式を――」
「使ってない!」
声が届いた。売人が振り返り、そして凍った。
ミラは人をかき分けて前へ出る。
「人の名前、勝手に使うな」
「い、いえこれは、その、敬意の表明でして」
「敬意で銀貨五枚取るの?」
「五枚は……材料費が」
「紙でしょこれ」
その時、客の列の中にいた老人が、おずおずと口を開いた。
「あんたら、これ、効かんのかね」
見れば、ベルク村の方角へ向かう荷を積んだ荷車の横に立っている。魔王軍が怖くて買おうとしていたのだろう。
ミラは売人の手から護符を一枚取り、目を落とした。一秒。
「魔力回路が閉じてる。起動条件もない。紙」
裏返す。
「紙代、銅貨二枚。インク入れて三枚ってとこ」
「そ、それは――」
「原価三枚を銀貨五枚? ぼったくるなら、せめてあたしより上手くやりなさいよ」
周りの客からどっと笑いが起きた。
「じゃあ……」
「買わなくていい」
老人は何度か頷いて、それから深く頭を下げた。
売人がそっと後ずさりし、身を翻す。三歩目でゼノが足を出した。派手に転ぶ。
「な、何を!」
「女の名を使って稼いだのだろう」
「だ、だから何だと!」
「では本人に払え」
「そっち!?」
ミラが叫ぶ。
「名を借りた代金だ。安くはないぞ」
「勝手に値段つけんな!」
結局、売人は襟首を掴まれたままギルドの職員へ引き渡された。
その後ろで、ゼノが自分の空の手を見ていた。
「一枚くらい取ってもよかっただろう」
「駄目に決まってるでしょ」
西門を抜けて街道へ出る。荷は少ない。金貨だけがやけに重い。
後ろから声が飛んできた。
「救世主様ー!」
ミラは歩く速度を上げた。
「聞こえない」
「呼ばれているぞ」
「聞こえない」
「救世主」
「その呼び方やめろ!」
「では何と呼べばいい」
「ミラでいいでしょ!」
「貧乏人」
「あんたもだろ!」
しばらく無言で歩いた。ラドネの城壁が背後で小さくなっていく。
「次はどこだ」
ミラは地図を広げ、依頼書と見比べ、それから目的地の名物料理の欄をもう一度確認した。
「東」
「理由は」
「肉」
「くだらん」
ミラは振り返って言った。
「女」
ゼノが少し考えた。
「東に美女はいるのか」
「知らない」
「調べろ」
「自分で調べろ!」
二人はそのまま街道を歩いていった。
背後のラドネでは、まだ救世主誕生を祝う鐘が鳴っていた。
その救世主二人はもう、東の肉のことを考えていた。
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第2話「救世主なら、宿代くらい払ってください」 終




