第6話 黒髪の聖女
昼間の陽光を浴びた孤児院は、記憶の中とまるで変わっていなかった。
ダンテはナップザックを肩に引っかけたまま、レンガ造りの建物と三角屋根をゆっくりと見上げた。胸の奥が、じわりと熱くなる。
「1年ぶりだ……懐かしいなー」
言葉が自然とこぼれた。
庭で箒を動かしていた院長のシスターが顔を上げ、目を丸くした。
「……ダンテじゃないの」
「えへへ、お久しぶりでやんの。エルおばさん」
「エルお姉ちゃんでしょ。ほんと口の悪いのは変わらないわね」
「アハハハ!」
笑い声とともに、ダンテは孤児院の中へ足を踏み入れた。
大部屋の子供たちが一斉に振り返る。
「ダンテ兄ちゃんだ!」
「おかえりなさい」
「うわー、嬉しいよー。お土産ちょーだい」
「分かってる。それ以上言うな」
ダンテはナップザックを床に降ろした。子供たちが我先にと中を覗こうとする。ダンテは両手で黒パンをつかんで高く掲げた。
「ほら、黒パンだぞ!」
歓声が上がるはずだった。
しかし子供たちは、黒パンを見た瞬間に固まった。さっきまでの熱気が嘘のように、部屋が静まり返る。
「おいみんな、あっちでゲームやろうぜ」
「私は本を読むわ」
「……勉強しよ」
潮が引くように散っていく子供たちの背中を、ダンテは呆然と見送った。両手に黒パンを持ったまま、立ち尽くす。
院長のエルネスタが腹を抱えて笑い出した。
「えっ、黒パンはまずいからいらないって」
レオが当たり前のように答えた。
「そうだよ。俺達が食べてるのは白パンだよ。柔らかくて甘いからとても美味しいんだ。それに比べて黒パンは噛み応えあるけど酸味があって……はっきりいうけどまずいよね」
「なけなしの金で手に入れたのに……」
ダンテは肩を落とした。
職員のエンマが苦笑する。
「しかたないよ。最近口が肥えてるからね」
「口が肥えてる?」
ダンテは子供たちの顔を、改めてじっくりと眺めた。血色がいい。ほんの少し、丸みを帯びている。一年前とは別人のようだ。
視線を大部屋全体に向ける。食堂の長テーブル、遊びスペースの本棚、床に敷かれたカーペットとクッション、おもちゃ。どれも新しかった。そして祭壇の奥、以前は木像が置かれていた場所に、金色の光を放つ女神像が鎮座していた。
「景気がいいんだな……」
「聖女様のおかげですよ」
「聖女様?」
ダンテはエンマからこれまでのいきさつを聞いた。話が進むにつれ、ダンテの表情がほぐれていく。
「──そして、この孤児院に聖女様があしげく通ってるのが知れ渡って、寄付金が倍増したのよ。ほんと聖女様には感謝しかないわ」
ダンテは腕を組んだ。
「一度その聖女様に会ってみたいな」
その言葉が終わらないうちに、玄関の重厚な扉が開いた。
若い女だった。
「お姉ちゃんだ」
レオの声とともに、子供たちが駆け寄っていく。女がこちらに顔を向けた瞬間、ダンテは息を呑んだ。
とてつもない美人だった。
背中のあたりから、黄金の後光が輝いているように見える。目が灼ける。頭の芯がとろけるような、奇妙な陶酔感だった。
「これが……聖女様か」
つぶやくと、女はきっぱりと言った。
「あ、違います。私、悪役令嬢です」
ダンテは一拍置いてから、頭をかいた。
「いやー、すまんすまん。てっきり聖女様だと思ったよ。アハハハ」
女の表情はほとんど変わらなかったが、わずかに目が細くなった。それ以上褒め言葉として受け取っていないのは、見ればわかる。
「で、聖女様は孤児院に来ないのか?」
「風邪引いて、今日は行けないからみんなによろしくって」
二歳くらいの小さな女の子が、下唇を突き出した。
「えー、聖女様来ないの?」
悲しそうな顔が、胸に刺さる。
女はしばらく子供たちの相手をして、それから帰っていった。ダンテはその後ろ姿が扉の向こうに消えるまで、なんとなく目で追ってしまった。
その夜、レオが目を輝かせてせがんできた。
「ダンテ兄ちゃん、今夜泊まるよね。いろんなお話聞かせてよ」
ダンテはエルネスタをちらりと見た。
「いいわよ。この子たちに寝物語を聞かせてあげて」
「よし、おもしれー話がわんさかあるぜ。楽しみにしな」
子供たちがはしゃぐ声が、大部屋に広がった。
深夜、ダンテは二段ベッドからそっと降りた。子供たちの寝顔をひとつひとつ確認してから、部屋を出る。廊下の燭台を外し、携帯の種火箱で火を点けた。橙色の明かりが石壁に揺れる。足音を殺して階段を降り、一階の祭壇前へ向かった。
黄金色の女神像を右手でつかむ。ずっしりとした重さが掌に伝わった。ナップザックに押し込む。
――これで助かった。俺がやった不始末は、これで帳消しにできる。
親分ドメニコの声が耳の奥に蘇る。
――おめえは孤児院出身だってな。面白い。孤児院の子供をピクニックに行こうと騙して、隣国の奴隷牧場に売ろうぜ。そうすれば今回の不始末は許してやる。
床に這いつくばって、ダンテは必死に頭を下げた。
――それだけは許してください。お願いします。
返ってきたのは、平手打ちだった。
背後から声がした。
「お兄ちゃん、何してるの?」
振り返る。レオが立っていた。
「急用を思い出してな。朝まで待てない。出て行く」
「また、帰ってくるよね」
「もちろん」
ダンテはレオの頭を撫でた。レオの目に、じわりと涙が滲む。燭台をレオの手に渡して、玄関の扉を押し開けた。
夜の路上に出て、しばらく歩いたところで足が止まった。
女が立っていた。
黒髪が夜風になびいている。昼間の、あの女だった。
「お前は……」
「そのナップザックに女神像が入ってるんでしょ。聖女の私に返しなさい」
ダンテは薄く笑った。
「あんたは"悪役令嬢"だったな、べっぴんさん」
女の脇をすり抜けようとした。その瞬間、足が動かなくなった。見えない何かに縫い止められたように、一歩も進めない。歯を食いしばって、膝に力を込める。どうにか半歩だけ踏み出して、ダンテは振り返った。
「うわぁぁぁあ────!」
腰が砕けた。
女の頭上に、黄金色に輝く女神が降臨していた。
《その純金の女神像は差し上げます。これからも孤児院に顔を出してくださいね》
地面に額を擦りつけて、ダンテは土下座をした。感激で喉が震えた。
しばらくして、ゆっくりと顔を上げる。
女神も、黒髪の女も、もうどこにもいなかった。
**********
前日の夕方、オザンナはルーナの見舞いに訪れた。
ベッドの上で上体を起こしたルーナに、オザンナは眉をひそめた。
「ダメダメ寝てなくちゃ。風邪は安静が一番」
ルーナは素直に横になった。
「何かあったのね?」
オザンナは少し間を置いてから、口を開いた。
「ちょっと気になることがあって……」
孤児院でOBの少年に会ったこと。その彼が祭壇の女神像をちらりと見やった一瞬、オザンナは直感した。あれは狙っている。
「いいじゃない。OBが窃盗して孤児院も困って疑心暗鬼が蔓延するのよ。これこそ悪役令嬢の醍醐味よね、フフフ」
複雑な顔をするオザンナに、ルーナが言った。
「そんな顔しないで美人がだいなしよ」
「私はルーナほど美人じゃないわ」
ルーナはベッドから降り、オザンナを壁際へ促した。立て掛けてあった姿見に、二人の顔が並んで映る。金髪と黒髪。
「ほら、私たち姉妹みたいにそっくりじゃない」
言われてみれば、確かに似ていた。貴族学校で何度か言われたことがあったが、気のせいだと流していた。
こうして並べると、輪郭の形も、目の配置も、驚くほど重なっていた。
オザンナが帰った後、ルーナはワードローブの引き出しをそっと開けた。中に、黒髪のウイッグがあった。
**********
ダンテが親分ドメニコの家に着いたのは、夜明け前だった。
「おっ、こいつは女神像じゃないか。まさか……純金なのか?」
「はい。間違いありません。何しろ女神様が直接言いましたから」
「えっ、どういうこった?」
ダンテは一部始終を話した。うんうんと頷いていたドメニコの顔が、みるみる蒼白になっていく。
「女神様の降臨だと……」
ドメニコはしばらくダンテの目を黙って見つめた。
「俺は子供の頃から嘘をついて生きてきた。嘘をついて人を騙して金を稼いだ。こうやって一端の悪党になってからも嘘偽りは日常茶飯事だ。だから、嘘を見抜く目は誰よりも持っている。ダンテお前……」
「はい」
「嘘はついていない。真実をそのまま語った。間違いない」
「孤児院を出て失職した俺を拾ってくれた恩人、ドメニコ親分に嘘はつきません。女神様に誓います」
ドメニコは女神像を両手で持ち上げ、しばらく見つめてから、静かに声を上げた。
「この女神像は女神様から授かったものだ。俺は女神様の足元にひれ伏すぜ。【野良犬の牙】は解散だ!」
部屋にいた子分たちが、顔を見合わせた。
「親分、組織を解散するのですか?」
「あたぼうよ。女神の加護を俺達は受けたんだ。犯罪組織から転換だ。明日から町のボランティア組織を立ち上げる!」
一瞬の沈黙の後、こぶしが次々と突き上がった。
「俺達、やりますぜ」
「ボランティア組織、最高じゃないですか」
ダンテはその光景を眺めながら、昨夜の黒髪の女を思い浮かべた。
――これが、聖女様の力なんだ。あの子は悪役令嬢なんかじゃない。聖女様なんだ。
同じ頃、オザンナは自室のベッドで目を覚ました。
「ハー、ハックション!」
盛大なくしゃみが出た。鼻の奥がむずむずする。鼻水が垂れた。
「ルーナの風邪が移ったみたい」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。




