第27話 ヒドラの指輪
ルーナがふらついて、後ろに倒れそうになった。
モルテード侯爵が素早く腕を回して支えた。
「聖女様、大丈夫ですか!」
返事はない。
モルテード侯爵がルーナをゆっくりと床に寝かせた。
顔を覗き込むと、ルーナの長いまつ毛がピクリと動いた。
一呼吸おいて、瞼が開いた。澄んだ青い瞳が動いた。
「……あっ、私どうかしたのですか?」
ルーナが自ら上体を起こす。
「起きたぞ! 大丈夫だ」
「ほんとによかった」
パチパチパチ──!
集まったパーティーの招待客から、拍手が起こった。
キョトンとしているルーナ。
モルテード侯爵とレベッカが顔を見合わせた。
「ルーナ、倒れたのよ。覚えてない。大丈夫なの?」
レベッカが言った。
「え……えええ──!」
ルーナが素っ頓狂な声を上げた。
影を追うように周りをゆっくり見渡した。
レベッカにモルテード侯爵、エドモンド第一王子の顔が並んでいた。その向こうから様々な顔が覗いていた。
カンデラ夫人も、心配そうな様子で人々を背後から覗き込んでいた。
みんなルーナの状態が気がかりだった。
ルーナはゆっくり立ち上がった。
そして、ペコリと頭を下げた。
「心配かけて申し訳ありません。ちょっと貧血でふらつきました。でも、もう大丈夫です」
ルーナの口調はしっかりしていた。
周りから安堵の声が漏れた。
「あー、ホッとした。聖女様は貧血だったようだ」
「頭を打たなくてよかったわね。モルテード侯爵のおかげだわ」
「聖女様に何かあったら、この国はどうなったのかしら……」
「“聖女様の加護”が必要だったのは、みなさんじゃなくて私のようですね」
ルーナが自嘲気味に笑った。
周りの人々が、一瞬固まった。
「あれ? みなさん、ここは笑うところですよ」
とルーナがおちゃめに促すと、どっと笑い声がさざなみのように大広間に広がった。
「さすが聖女様、笑いのレベルも高い」
「私たちに気を使ってくださっているんだわ。ありがたいことです」
ルーナの体調のこともあって、レベッカの誕生パーティーは早めにお開きになった。
主催者のモルテード侯爵とレベッカは、客人たちを屋敷の玄関まで見送り、馬車に乗り込むところまで付き添った。
いつの間にか太陽は傾いて、夕日を浴びた馬車が、次々と屋敷の門を出ていった。
シルヴェーニ公爵とカンデラ夫人がモルテード侯爵とレベッカに別れの挨拶を交わした。
「今日のパーティーはハプニングがあったけど、本当に楽しかったわ」
カンデラ夫人が言った。
「こちらこそ、わが愛娘のために、お越しくださりありがとうございました」
「今日のパーティーに来てよかったのは、レベッカさんとお友達になれたことです。私は男兄弟に囲まれて育ちましたから、彼女のような美しいお嬢さんを見るのが目の保養になるのですよ」
「ありがとうございます。またご夫婦にお会いできることを心待ちにしております」
レベッカが丁寧に言った。
「近々また会えるような気がします。ねぇ、あなたもレベッカさんと会いたいでしょ」
「もちろん。レベッカさんとまたお会いできたら嬉しいです」
レベッカは口角が上がりそうなところをぐっと我慢した。
シルヴェーニ公爵と目も一瞬しか合わせなかった。
ーーここはポーカーフェイスでないといけないわ。カンデラ夫人は鋭い勘の持ち主のようだから。パーティー会場でカンデラ夫人に『この泥棒猫』っていわれたけど、あれはきっとカマをかけてるに違いない。証拠があれば、あそこで修羅場になってたはずだ。その手には乗らないわよ。
シルヴェーニ公爵を見送った後、モルテード侯爵とレベッカが居間に戻ると、エドモンド第一王子とルーナがソファに座っていた。
レベッカとモルテード侯爵が対面に座った。
「招待客はみんな帰ったわ。ルーナ、何があったの、本当のことを聞かせてよ」
レベッカが真顔で言った。
ソファに大人しく鎮座していたルーナが目線を侍女と執事に向けた。
それに気づいたモルテード侯爵が部屋を出るように促した。
「失礼いたします」
二人は会釈して居間から出て行った。
「それは僕も聞きたい。あんなルーナを見たのは初めてだ」
エドモンド第一王子が真剣な眼差しを向けた。
ルーナは何と言うべきか迷っていた。
この場にいる三人の顔をじっと見て、こっくりと頷いた。覚悟ができたようだ。
「絶対に誰にも言わないでください」
みんな身を乗り出して、ウンウンと頷く。
「……実は」
レベッカは唾を飲み込んだ。
ーー何だろ? やっぱりカンデラ夫人に関することかな? あの夫人と握手してから体調が悪くなったから……
「このところドレスのお腹周りがキツイのでダイエットしていたのです。でも、挨拶で軽食も食べられなかった……それで空腹でふらついて倒れたんです」
ルーナは火照った顔を両手で隠した。
ーーはぁー? なんだそれ……倒れた原因が、お腹が減ったからだと。
ルーナが顔を覆った両手の指を広げて片目を見せた。それが左右に動く。
「クククッ……」
エドモンド第一王子が笑いを噛み殺していた。
お腹を抱えて、ついには声を張り上げた。
「ハハハ! 何だ、真相はそうだったんだ。よかった。体調不良で病気かとドギマギしたからね」
そして、レベッカやモルテード侯爵に目を合わせた。
レベッカもモルテード侯爵も緊張が解けて安心しきった顔だ。
「あのー、お菓子でもいいから口に入れるものをください」
ルーナは恥ずかしそうに身をよじらせながら言った。
◇
夕日が王都の街並みの向こう側に沈む。三角屋根の並びが黒いシルエットになった。
その脇道を馬車が横切った。石畳に馬の蹄の音が響いた。
馬車の中にいるのは、シルヴェーニ公爵と奥方のカンデラ夫人。
「それにしてもヒヤヒヤものだったぞ」
シルヴェーニ公爵が言った。
「なんのことかしら?」
「とぼけるな。“ヒドラの指輪”を使っただろ? パーティー会場で指輪を手のひら側に回したのを見たぞ」
「あら、目ざといわね、あなた……」
カンデラ夫人は左手の薬指の指輪を夫に見せた。上面にヒドラの紋章が刻まれていた。
上蓋を開けた。
小さな針が一本立っていた。
カンデラ夫人の脳裏であの場面が再生された。
パーティー会場。今まさに聖女様ことルーナと対面する順番を待っていたとき、指輪を手のひら側に回して針を露出させた。
そして、握手の瞬間、ルーナの手のひらにチクリと針を刺した。
ヒドラの指輪の毒は、一滴で神経を麻痺させて、死に至る猛毒だ。
ぶっ倒れていた聖女様を見て、カンデラ夫人は歓喜した。しかし、それもすぐに回復したルーナを見て内心苛立った。
「本物の聖女様かどうか一度試したかったのよ。この猛毒で死ななければ本物。あんなに早く回復するなんてありえない。確信したわ。あの娘、本物の聖女様で間違いない」
「もし偽物だったらあっさり死んでいたが……」
シルヴェーニ公爵は咎めるように言った。
「なにか問題かしら?」
カンデラ夫人が目を細めて夫を見た。
「いや、別に……」
シルヴェーニ公爵は、馬車の窓辺に顔を向けた。窓の外では夜の帳が下りようとしていた。
アンドレイニ伯爵邸に戻ったルーナ。
夕食の後、早めの睡眠を取ることにした。
「もっと食べないと駄目だ。貧血だなんて」
と父のアンドレイニ伯爵が説教した。
「女の子だから仕方ないでしょ」
と母親のヴィオレッタがルーナを庇った。
自室に入ったルーナはネグリジェに着替えた。ベッドの縁に腰を下ろして、ランタンの明かりで右手の手のひらをじっと見つめた。
右手の指に残る黒い針の穴。毒針の痕だ。
「これ、染みみたいに残るの嫌だな……」
ルーナの眉間に皺が寄った。
すると、ルーナの前に黄金色に輝く女神様が降臨した。音も気配もなく、突如現れた。
ルーナは女神様に気づいた。口角が上がった。
《手を見せてください》
ルーナは右手を差し出した。
じっと見つめた女神様は、ルーナの手のひらを両手で優しく包み込んだ。
女神様は目を閉じて祈りの言葉を告げた。するとルーナの手のひらが温かくなって、光を帯びた。
ルーナの手のひらから毒針の痕跡が、綺麗さっぱりなくなっていた。
《カンデラ夫人をどうします? ルーナの命を奪おうとした悪女です。天罰を与えますか?》
「天罰はいけません。愛を与えましょう」
ルーナはにっこり笑った。




