第20話 聖女様を誘拐しろ!
サブリナが差し出した白皙の手に、男は吸い寄せられるように指を絡めた。 オールバックに整えられた髪が、シャンデリアの光を弾く。
男が椅子から立ち上がると、周囲を囲む貴族たちから一斉に惜しみない拍手が送られた。
「あなたが今夜の客人です」
サブリナが言った。男は面食らったように目を瞬かせる。
「客人? 何ですそれ?」
「あらら、『赤い薔薇の天国』にいらっしゃって、客人の意味が分からないって、野暮な人ね。ここはOKするのが礼儀じゃないかしら」
「……OKです」
男の返事に、彼女は満足げに目を細めた。
「素直ないい子ね。私は好きよ」
サブリナの腕を取り、男はゆっくりと階段を登り始める。背中に突き刺さる紳士たちの視線には、明らかな羨望が混じっていた。
「こんな豪華な部屋があるなんて、信じられない」
案内された一室は、王宮の客間すら霞むほどに贅を尽くした、シックな設えだった。天蓋付きの大きなベッドが部屋の主役として鎮座している。どこか異国情緒を感じさせる香が焚かれ、男の鼻腔を甘くくすぐった。いい匂いだ。
「しばらくここが、あなたと私の巣になるのよ」
「巣?」
「愛の巣よ」
サブリナの陶酔したような表情を見つめていた男だったが、ふと何かに弾かれたように我に返った。
「駄目だ。やっぱりこんなところに逃げてはいけない」
男の顔が苦悩に歪む。その瞳は今にも涙が溢れ出しそうに潤んでいた。
「逃げてはいけない? かわいそうに……何かたいへんなことがあったのね。安心して私が慰めてあげるわ」
サブリナは男を優しく抱きしめた。男は崩れ落ちるように床に膝を突き、すがるように彼女の背中へ両手を回した。
しばらくして、ベッドを降りたサブリナが薄いガウンを羽織り、ランタンの炎が揺れるテーブルへと歩み寄った。彼女は手慣れた手つきで種火箱を開け、葉巻に火をつける。紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「葉巻を吸うんだ」
「あなたも吸う?」
「俺はいいよ。それにしても、まさかこんな天国のような場所に来れるとは……」
「あら、まるで地獄から生還したみたいな言い草ね」
サブリナの軽口に、男は力なく笑った。
「地獄からの生還……いい得て妙だ。もう何もかも捨てて逃げたい気分だったけど、人生って捨てたものじゃないと思ったよ。こんな魅惑的な女性と出会えるんだから」
「あなたも魅力的よ。私を本気にさせた人はいなかったけど、あなたは別」
彼女は葉巻をくゆらせながら、情熱的な視線を男にぶつける。
「もっと幸せにさせて、朝まで寝させないわ」
「もちろん!」
◇
「隣国の聖女様を誘拐せよ!」
アルテミオス王国の謁見の間。玉座からの冷徹な命令が、親衛隊長ルーベン・フェスタの鼓膜を打った。
国家破綻という崖っぷちに立つこの国を救うには、隣国の聖女を強奪し、その奇跡の加護にすがる以外に道はない。死に体の国家が放つ断末魔のような王の言葉に、ルーベンが抗う術はなかった。
「かしこまりました」
ルーベンは五人の部下を連れ、フランチェスカ王国へと足を踏み入れた。男爵の爵位を持つ彼は、商人に同行して小麦粉の買い付けルートを開拓しに来た貴族という触れ込みで、正体を隠した。
王都へと続く街道を進む箱馬車の窓から、ルーベンは外を眺めた。視界に広がるのは、たわわに実った黄金色の穂が揺れる広大な畑だ。その豊作ぶりは、荒廃しきった自国の土地とは比べるべくもない。別世界を見せられているような感覚に、自然と溜息が漏れた。
隣国でありながら、なぜこれほどの差がついたのか。大陸最古を誇るアルテミオス王国の自慢は、今や「美女の産地」と呼ばれるほど容姿の整った女性が多いことだけだ。経済も農業も壊滅し、他国からの借金でかろうじて命脈を保っている。
だが、王都の景観だけはアルテミオス王国の圧勝だった。格式ある古びた王宮に比べれば、フランチェスカのそれは新築まがいの安っぽささえ感じる。
それなのに、通りを歩く人々の表情は一様に明るい。雑踏のあちこちから、絶え間なく笑い声が聞こえてくることに、ルーベンは困惑を隠せなかった。
通りのカフェに入り、給仕のメイドに探りを入れる。
「この国にやって来たばかりだけど、国民の明るさにびっくりした。これは国民性なのかな」
「何言ってるんですか、聖女様の加護に決まってます」
「聖女様の加護?」
「聖女様が生誕してから十八年、フランチェスカ王国は、ありとあらゆる憂いがなくなって、幸福そのものです」
胸を張るメイドの言葉に、ルーベンと部下たちは思わず顔を見合わせた。
【アジトの一軒家】
「聖女様の存在は事実のようだ。これから情報を集めろ。散開して夜に落ち合おう」
ルーベンの指示で、五人の仲間は一斉にアジトを飛び出した。
自身も聖女の目撃情報を求めて街を歩き回るが、収穫のないまま夕暮れ時を迎える。その時だった。
「聖女様じゃない?」
「聖女様よ」
周囲の歩行者たちが足を止める。ルーベンは心臓の鼓動を早め、振り返った。
それは大きな叫びではない。さざ波のように広がる、ひそひそとした囁き声。ルーベンはその視線の先を鋭く追った。
「ルーナ、こっち」
貴族学校の制服に身を包んだ二人の少女が、ルーベンのすぐ前を通り過ぎていく。手を引かれている金髪の少女。その姿が網膜に焼き付いた。
(あっ、聖女様だ!)
全身から溢れ出すオーラは、圧倒的だった。それまで胸を支配していた鬱々とした気分が、一瞬で晴れ渡るような解放感。ルーベンは吸い寄せられるように二人の後を追った。
通りを曲がり、路地の奥へと逃げ込んだ彼女たちは、何やら親密そうに話し込んでいる。物陰から様子を伺っていると、やがて二人が路地から出てきた。
(金髪から黒髪に変わってる? ウィッグか)
変装を確認しながら尾行を続ける。少女たちは、高級貴族の屋敷が立ち並ぶ一角にある、立派な邸宅へと吸い込まれていった。
しばらくすると、再び姿を現した聖女が箱馬車に乗り込み、去っていくのを見届けた。
収穫を手にアジトへ戻り、仲間を待つ。だが、約束の時間を過ぎても誰も帰ってこない。
じりじりとした焦燥が募り、嫌な予感に胸が騒ぐ。ようやく、一人の部下アルドが転がり込むように戻ってきた。
「どうした他の四人は?」
「殺されました。俺だけが命からがら逃げました」
アルドは青ざめた顔で報告した。聖女と噂される娘の住まいを突き止め、仲間と合流して郊外の屋敷に向かったという。
夜の闇に乗じ、屋敷裏の森に潜んでいたところ、玄関先に箱馬車が止まり、金髪の少女が降りてきた。仲間が本人であることを確認し、ルーベンに報告しようと動き出した瞬間、背後から絶叫が上がった。
「──最初、何か分からなかったです。ただただ、仲間の絶叫がこだましていました。それもすぐに止みました。そして月明かりのシルエットにそいつが現れました。二本足で立った、巨体の熊でした」
暗闇の中で立ち上がり、獲物を威圧する熊の姿。
部下はただ無我夢中で走り、その場を逃れた。ほとぼりが冷めた頃に現場へ戻ったが、すでに仲間の死体は消えていたという。
「引きずった後がありました。追いかけようとしたら、威嚇の唸り声が聞こえました。これ以上行けませんでした。申し訳ありません」
「残ったのは、俺達だけか……アルテミオス王国の命運がかかってるのに何たることだ!」
ルーベンの顔が苦渋に曇る。郊外の屋敷を攻めるのは、あまりにも危険だ。何より、誘拐のために集めた戦力のほとんどを失ってしまった。
「残ったルートは、俺が追跡した屋敷だ」
ルーベンは、街で見かけた聖女の足取りを部下に伝えた。
「貴族学校の生徒のようですね。そこの屋敷も出入りしてるなら郊外の屋敷よりめんどくさくないですね」
「街には熊は出ない。ただし俺と二人だけでは誘拐は難しいぞ」
「その点ですが、どこの国でも金で動くやからはいます。この国の裏組織を探して使うってのはどうですか?」
「頼む。俺は貴族学校周辺と聖女様が出向いた屋敷を探る」
それからの調査で、アンドレイニ伯爵家の長女ルーナこそが聖女であるという噂を確信に変えた。学校内でも彼女は常に崇拝の対象として囲まれている。
ルーナ・アンドレイニ、彼女こそがフランチェスカの希望の象徴だった。
そしてもう一つ。彼女が立ち寄っていたあの屋敷。そこは、選ばれた者のみが立ち入る【高級娼館】だという。ルーベンはあらゆるコネクションを駆使し、ようやくその紹介状を手に入れ、潜入に成功した。
◇
──翌朝。
ルーベンが目を覚ますと、広いベッドの隣に彼女の姿はなかった。昨夜の甘美な出来事はすべて夢だったのかと、ぼんやり天井を見上げていると、不意にドアが開いた。サブリナが部屋へ入ってくる。
「お寝坊さんね、もう昼前よ」
その言葉に跳ね起きる。そして、彼女の姿に目を剥いた。
「その格好は……」
昨夜の扇情的な衣装とは打って変わり、彼女は気品溢れる貴族のドレスを纏っていた。化粧も薄く抑えられている。美しさは健在だが、あまりのイメージの激変に思考が追いつかない。
「着替えて」
「追い出すのか……残念」
「何言ってるの。これから部屋の掃除をするから、邪魔なだけ」
そっけない言い草に、ルーベンは逆に安堵した。
「これから一緒に出掛けるのです」
「出掛ける? どこに」
警戒の色を隠せないルーベンに、サブリナはこともなげに告げた。
「聖女様の屋敷よ」




