第2話 カビの生えたパン
アンドレイニ伯爵邸の厨房は、今日も熱気と喧騒に包まれていた。コックたちが忙しなく立ち働くなか、一人が保管庫の扉を開けた。
「あちゃー、やっちまったな。ここ一週間、長雨続きだから、パンにカビが生えちまった」
棚いっぱいに並んだパンは、どれも青や白の斑点に覆われていた。コックは頭を抱えてうめいた。
その夜の食堂は、いつものように豪華絢爛だった。宮廷にも匹敵するほどの調度品が並ぶ長いテーブルに、アンドレイニ伯爵、長男レナート、母マリア、そして長女ルーナが席についていた。
食事が進むなか、ルーナはふとバゲットに手を伸ばした。指先が空気を掴む。皿の横に、パンがない。
「あら、今夜はパンがなかったのね」
執事長がすかさず頭を下げた。
「申し訳ありません。コック長に厳しく指導しておきました」
伯爵がナイフを置き、執事長を見た。
「大量に余ったらしいな。どうするつもりだ」
「処分の手筈を整えております」
その言葉を聞いたとき、ルーナの目がわずかに輝いた。
「パンの処分、ちょっと待ってください。いい考えがあります」
口の端がゆっくりと持ち上がり、ルーナはにんまりと笑った。
翌日、貴族学校の中庭のベンチにルーナとオザンナは並んで座っていた。周囲の植え込みにはラベンダーが咲き、甘い香りが漂っている。
「えっ、カビの生えたパンを孤児院に届けるって?」
「いいでしょ。これこそが悪役令嬢のやりそうなことね」
オザンナは内心で呆れた。
ーーカビの生えたパンなんて、削ったらいくらでも食べられるじゃない。
へー、アンドレイニ伯爵邸では、カビの生えたパンなんてゴミ箱にポイなのか。もったいないよな。でもこいつはいいぞ。孤児院の子たちはいつもひもじい思いをしてるものね。
私が財力あったらいくらでも援助するけど、うちは没落貴族だからできない。だから、このお嬢様を利用して骨までしゃぶってやろう、フフフ。
「それいいアイデア。孤児院にカビパンを送ってみんな苦しめるなんて、まさに悪役令嬢そのものよ」
ルーナの顔がパッと明るくなった。
「賛成してくれるの?」
「もちろんよ」
放課後、屋敷に戻ったルーナは庭を歩いていた。すると、侍女が二人、地面を覗き込むようにして立っている。背後からそっと近づいた。
「何かあったの?」
「ルーナお嬢様、こんな汚いもの、見てはいけません」
侍女マリカが慌てて前に出る。侍女フランカが両手を広げて視線を遮ろうとした。
ルーナは首を傾けて二人の隙間から覗き込んだ。芝生の上に、小さなネズミが一匹、横たわっていた。
「あっ、ネズミの死骸だ」
「殺鼠剤入りのエサを食べたみたいです」
「殺鼠剤? それ、もっと詳しく教えて」
翌日、授業が終わるとオザンナはすぐにルーナの席へ向かった。しかし、すでにルーナの周りには取り巻きたちがひしめいていた。
男女を問わず、みながルーナのそばに集まり、笑い声が絶えない。
オザンナは少し離れた場所から眺めながら、去年のことを思い出した。
ーールーナは転入生だった。一年前に転入した生徒が人気だって噂を聞いて見に行ったの。そしたらみんな囲んじゃってニコニコ笑ってるの。私はなぜかムカついた。ルーナが見せる屈託のない笑顔が憎らしかったのだ。
だから、最初は無視してたのよ。絶対にあんな取り巻きにはならないと。
でも、声をかけられたら嬉しくなって舞い上がってしまった。何のことはない。気づいたときにはルーナの取り巻きの末席にいた……
人垣をかき分けるようにして、ルーナがオザンナのもとに来た。
「今日、孤児院にいかない?」
にこやかな顔で首を傾けている。オザンナは眉を寄せた。
ーーもしや、“悪役令嬢ごっこ”はおしまいなの? 金づるに逃げられたか……
足がその場に縫い付けられたように固まった。
孤児院へ向かう道は石畳が続き、夕暮れの光が長い影を作っていた。
ルーナは弾むような足取りで歩いているが、オザンナはどうしても顔が上がらない。
「さっきから気になるけど、何がそんなに嬉しいのよ」
「私、今度こそ悪役令嬢らしいことをやったのよ」
「悪役令嬢らしいこと? 孤児院にカビの生えたパンをプレゼントしたことね」
「正解!」
オザンナは内心で鼻を鳴らした。
ーーふん、これだからお嬢様は悪役令嬢になれないのよ。カビの生えたパンなんて何でもない。カビの部位を取り除いて食べる。そんなこと、貧乏な家では常識よ。
アンドレイニ伯爵邸のカビパンなんて、庶民にとってはご馳走なの。高級貴族が食べるパンは羨望の的だわ。
「でもカビパンだけなら面白くないでしょ?」
「?」
「だからパンに殺鼠剤を注入したの。これで私は本物の悪役令嬢だわ」
ルーナが誇らしげに顔を上げた瞬間、オザンナの頭から血の気が引いた。足が勝手に動き出す。走った。石畳を蹴って、ひたすら走った。
背後からルーナが何か叫んでいたが、耳に入らない。
脳裏に、孤児院の子供たちが床に倒れている光景が浮かんだ。
ーーシーナ、レオ、アル、コッポ、お姉ちゃんが今行くからね!
孤児院の玄関ドアに手をかけ、力まかせに押し開けた。
「お姉ちゃん、いいとこに来たね。まだパン余ってるよ!」
レオがテーブルから手を振っている。子供たちは全員、元気よくパンをかじっていた。
「殺鼠剤が……」
食堂の入り口に立ちすくむオザンナの前に、コック長のフランキが歩み寄ってきた。
「あー、あのパンはネズミ駆除のためにこの地域一帯に配りました」
「えっ」
しばらくして、ルーナが玄関をくぐってきた。それを見た子供たちと職員たちの顔が、一斉にほころんだ。
「うわー、聖女様が来た!」
「聖女様のプレゼント、最高に美味しかったよ」
「聖女様、大好き」
部屋中の人々がルーナを囲んで口々に称えたてる。
オザンナはフランキから事の経緯を聞いた。ルーナお嬢様から殺鼠剤入りのパンを孤児院にプレゼントしなさいと命じられたとき、フランキはこう解釈したのだという。
あの聖女様のお考えだ、この大量の殺鼠剤入りのパンは孤児院を含む下町地域からネズミを駆除しろとの命に違いないと。
そこで地域の住人全体に殺鼠剤入りのパンを配り、孤児院には焼き立てのパンを新たに運んだ。
その後、孤児院だけでなく下町の人々からも感謝の声が上がった。聖女様のおかげで伝染病の原因が取り除かれたと、みなが口を揃えた。
帰り際、ルーナの表情から光が消えていた。石畳の上をゆっくりと歩きながら、幽鬼のような顔でぽつりと言った。
「私、悪役令嬢になれないかもしれない……」
「大丈夫、悪役令嬢マスターの私がついてるわよ!」
ルーナが顔を上げた。その目に、じわじわと火が戻ってくる。
「そうね、オザンナがついてるのよ。こんなことで諦めないわ。絶対に立派な悪役令嬢になってみせるわ!」
夕暮れの石畳に、二人の影が長く伸びていた。




