第1話 悪役令嬢になりたいです!
「悪役令嬢になりたいです!」
アンドレイニ伯爵邸の長女の部屋は、足を踏み入れるたびにオザンナの胃を重くさせる。
天蓋付きのベッド、繊細なレース、品のいい花瓶に活けられた白薔薇。調度品のひとつひとつが、この家の豊かさをさりげなく、しかし確実に主張していた。
同じ貴族でも、うちとはえらい違いだ……
そんな物思いをしていたときに、あの言葉が唐突に飛んできた。
ルーナが振り返り、両手を胸の前で組んだ。その顔は、今朝届いた新作菓子を前にしたときと同じ、無邪気な輝きに満ちていた。 オザンナは思わず半歩引いた。
「それ、本気なの?」
「本気も本気。私、悪役令嬢に憧れてるのよ!」
オザンナの視線がルーナの手元へ滑る。先週貸してやった本だ。「面白いのがあったら教えて」と言われて、棚から適当に抜き出した悪役令嬢ものの一冊。まさかこんな目に遭うとは。
ーーうへっ。これだからお嬢様育ちは嫌いなのよ。 貴族学校の同級生。18になっても夢見る乙女なのね。
「こんな本のどこが良かったの?」
声のトーンだけは平坦に保ちながら、オザンナは問いを投げた。
ルーナはうっとりした顔で天井を仰いだ。
「私は生まれて一度も意地悪されたことがないの。周りの人はみんな優しくていい人ばかりで、本当に幸せなの。だから悪意を持って生きる人がいることが理解できない。そんな悪役令嬢の屈折したところに憧れるんだ」
オザンナの奥歯が、ぎり、と鳴った。
屈折。その単語が、胸の中で静かに燃えた。
没落貴族。男爵の肩書きは庶民には眩しく映るかもしれないが、貴族社会の底辺であることに変わりはない。
父親は領地経営を放り出してポーカー三昧、借金は膨れ上がり、領地は少しずつ切り売りされていく。ルーナに愛想よくしているのだって、将来の保険のためだ。友人のふりをしているが、本心では——。
ーーあんたなんか、だーい嫌い!
けれどオザンナの顔には、何も出なかった。笑みとも無表情ともつかない、完璧な仮面。それが貴族令嬢として生き残る術だと、身体で覚えていた。
「だから家庭教師になってほしいの」
「家庭教師?」
「私を本物の“悪役令嬢”になれるように指導してほしいの」
「何で私が……」
「だって、私の数多くいる友人の中でオザンナが一番評判悪いじゃない。怖がられているし、嫌われ者だし、意地悪で根性が腐ってるってみんな言ってたわよ」
血の気が、すうっと引いた。
ーーわ、わたしって、そんなに嫌われていたの? 心当たりなら、山ほどある。それはわかっている。わかっているが、こうして面と向かって言われると、別の話だ。誰がルーナに告げ口したのか、顔を思い浮かべただけで手の指が白くなった。
ーー見つけてギチョンギチョンにしてやるぞ、覚悟しなよ。
「それよ、それ! その悪意に満ちた顔、本物の悪役令嬢みたい」
ルーナが声を弾ませた。
ーー……本物ですけど。
「じゃ、悪役令嬢の家庭教師してくれる?」
オザンナは一秒、間を置いた。
「条件がある」
「何なの?」
「金」
ルーナの目が丸くなった。
「金をください。ただでこれまで培ってきた悪役令嬢のノウハウを教えることはできない。これは一子相伝のノウハウなのよ。そこらの悪役令嬢と私は格が違うのよ!」
「おお~、本物だ」
ルーナの瞳が、きらきらと輝いている。
オザンナは白薔薇から視線を外し、小さく息を吐いた。
こうして悪役令嬢の家庭教師になったわけだが、どう考えても嫌な予感しかしなかった。
◇
孤児院の建物の前に立つと、中から子供たちのはしゃぐ声が漏れ聞こえてきた。
「まずは、弱き者をいじめる。これは悪役令嬢の基本よ」
「私、意地悪やったことないから難しいわね」
「この孤児院の経営は貴族たちの寄付で成り立ってるの。だから貴族は自由に出入りできるのよ」
「その手荷物は何なの?」
オザンナの両手には紙袋が二袋ぶら下がっていた。
「お菓子……」
「お菓子? 悪役令嬢マスターが孤児院の子にお菓子を配るの?」
オザンナは首を振った。
「これはね、甘い顔を見せて安心させてから地獄に落とす手筈の第一歩なのよ」
ルーナの目に、じわりと尊敬の色が浮かんだ。
「さすが、ガチの悪役令嬢ね。これこそオザンナだわ」
「ううん、そうよ、私は悪役令嬢のマスターだから、ハハハ」
笑い声が乾いた風に溶けた。
孤児院の玄関扉が開き、少年が飛び出してきた。
「あっ、オザンナお姉ちゃんだ!」
その声を聞きつけたのか、建物の奥からぞろぞろと子供たちが現れた。
ワイワイガヤガヤと嬉しそうな声を上げながら、あっという間にオザンナを取り囲む。
その輪の中から、よちよちと歩いてきた二歳の女の子——シーナが、小さな両手をオザンナへ向かって差し伸べた。
「お姉ちゃん、抱っこして」
「しかたないなー」
オザンナはシーナを抱き上げた。顔がほころぶのを、止められなかった。
ーーやばい、やばすぎる。ルーナの視線が横から突き刺さってくるのがわかった。怪訝そうに細められた目が、オザンナの表情をじっと観察している。
ーー私の裏の顔がバレたかもしれない。駄目、駄目、金づるに逃げられるわけにはいかない。
オザンナはシーナをそっと地面に降ろし、ルーナの耳へ顔を寄せた。
「これも私の悪意を隠すカモフラージュなのよ。悪役令嬢は表向きいい人ぶるでしょ。それなのよ」
ルーナの顔が、すとんと納得に落ちた。
「そうなんだ。さすが本物の悪役令嬢は違うわね。油断させてひどい目にあわすのね」
「もちろんそうよ」
「じゃ、さっきから私の靴を踏んづけてるこの子はどうしたらいいかしら?」
ルーナが声を低くして言った。憤慨がにじんでいる。
オザンナはルーナの足元に目を落とした。赤い靴の上に、レオがどっかりと乗っかっていた。オザンナはレオの肩をつかんでどかした。
「お姉ちゃん、どうかした?」
「私の大切な友達の靴を踏んづけたじゃない、メッ!」
レオは頭の後ろに両手を置いて、とぼけた顔を作った。
「知らないよ」
ルーナがオザンナの耳元に口を寄せた。
「こういう場合、悪役令嬢ならどうするの?」
オザンナはぼそっと答えた。
「……突き飛ばす」
「ほんとにいいの?」
「いい」
ーーごめんなさい、レオ!
次の瞬間、ルーナが勢いよくレオを押した。
「あっ!」
レオの身体が地面を転がった。
直後、轟音が響いた。
屋根から落ちた瓦が、幾つも幾つも、さっきまでレオが立っていた場所へ叩きつけられた。
ガガガー
ガァシャ──ン!
オザンナが上を仰ぐと、屋根の縁に職人の姿があった。瓦の張り替え作業の最中だったらしい。
「大丈夫か、怪我はなかったか!」
「大丈夫です」
職人の顔から緊張が抜けた。地面から立ち上がったレオが、ルーナへ真っ直ぐに駆け寄り、その腰にしがみついた。
「お姉ちゃんが助けてくれた! ありがとう」
周囲で見ていた子供たちと孤児院の職員たちが、ざわめいた。
「まるで聖女様みたい」
「本当だ」
「とっても優しい聖女様だ」
オザンナはルーナの横顔を見た。貴族令嬢らしい微笑みを張り付けている。一見すれば完璧だ。ただ、眉間のあたりで血管がピクピクと動いていた。
ルーナがオザンナの耳に唇を寄せた。
「後で話し合いましょうね」
オザンナは子供たちの歓声を遠くに聞きながら、ルーナの眉間をもう一度盗み見た。
ーーもう立派な悪役令嬢じゃないの?
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