第10話 私の秘密の場所
孤児院の重い扉をくぐり抜けたルーナとオザンナの前に、一人の少女が現れた。
年の頃は17歳ほど。少女はルーナの姿を見た瞬間、地面に額をこすりつけるように土下座した。
「聖女様、どうかお助けください。母の命を助けてください」
ルーナは思わず立ち止まった。
うつむいた少女の肩が小刻みに震えていた。
「どうしました?」
「母が流行り病で高熱を出しています。苦しんでいます。でも、うちは貧乏で医者に診てもらうお金がありません。どうか、聖女様のご加護をください」
声が地面に落ちていくような、消えそうな訴えだった。オザンナが小さくため息をついた。
ーーこの子、ルーナが出てくるのをずっと待っていたんだ。なんか痛々しいな。
「頭を上げてください」
少女はゆっくりと顔を上げた。目が赤く腫れている。
「私は医者ではありません。病人を治す役目は持っていません。かりにあったとしても、医者の仕事を奪うようなことはできません」
「……聖女様の御自愛を与えてください」
「女神様の加護は、私がどうこうできるものではありません。女神様のお気持ちがすべてです。あなたが女神様を信じる力によって加護を与えるかどうか、判断なさるのです」
少女の顔に、かすかな影が差した。
「それじゃ、聖女様は私の母を見捨てるのですか?」
トゲのある言葉だったが、ルーナはそれを正面から受け止めた。この子を責める気にはなれなかった。
「あなたのお名前は?」
「コズマです。コズマ・フェスタです」
「加護になるか分かりませんが……私の手を握ってください」
コズマは恐る恐るルーナの手を両手で包んだ。柔らかい。そして温かい——コズマの表情が、その感触に少し驚いたように変わった。見えない何かが自分の中に流れ込んでくるような顔をしている。体の強張りや緊張が、潮が引くようにほどけていく。
「これが女神様の加護ですか?」
コズマの顔が、ほころんだ。
「お母様の手を握ってあげてください。少しは楽になると思います」
コズマの目から、涙がこぼれた。洋裁店は裏通りにあるから、ぜひ一度来てほしいと、嗚咽まじりに言う。それから何度も何度も振り返りながら、深々とお辞儀を繰り返して去っていった。
その背中が路地の角に消えると、オザンナが口を開いた。
「今の聖女様のパワーなの?」
「ただ手を握っただけよ」
「加護はなし?」
「なんか勝手に勘違いしたみたい。私は手を握っただけ」
「悪役令嬢が板についてきたね」
「ふふふ」
ルーナは前を向いて歩き出した。
◇
「ねぇ、ハイキングってこんな森に入るの?」
王都の郊外、アンドレイニ伯爵邸の裏に広がる森は、昼でも木漏れ日が届かない箇所があるほど深かった。
ルーナはワンピース姿のまま灌木をかき分け、迷いなく奥へと進む。オザンナが編み込みのバスケットを抱えて後に続いた。
「なんか物騒だね。狼とか出たりしない?」
「うん、狼はいないけど熊なら出るよ」
オザンナの顔が白くなった。
「冗談でしょ」
先頭を歩いていたルーナが振り返った。
「冗談じゃないわ。ほら、オザンナの後ろにいるじゃない」
オザンナの背筋を、冷たいものが這い上がった。
「嘘、私を担ごうとするのね」
——ザッ、ザッ。
落ち葉を踏みしめる音がした。低く、腹に響く唸り声が続く。背後の空気が変わった。壁のような圧が、じわりと迫ってくる。
オザンナはゆっくりと振り返った。
身長3メートルを超えるヒグマが、後ろ足で立ち上がっていた。
ウゴォォォ──オオー!
オザンナはその場に尻もちをついた。熊はルーナめがけて前に出る。
「ルーナ、逃げて!」
巨体がルーナを覆いかぶさった。
「キャア──!!」
オザンナは両手で顔を覆った。
「ふふふ、ヤダ、甘えん坊ね」
ルーナの声。
オザンナはそっと指の隙間から覗いた。ルーナの顔を、熊が舐めていた。まるで蜂蜜を舐めるみたいに、のんびりと。
ルーナは熊の頭を撫でながら、ゆったりと起き上がった。
「オザンナ、この子紹介するわ。オルソ君よ」
「オルソ……熊そのままじゃん」
「オルソ君、案内してね」
「ウゴォォ!」
「ひぃ」
オザンナがびくりと跳ねる。オルソが四つん這いになった。ルーナはその背中に軽々と乗った。まるで馬に乗るように、ごく自然に。それからオザンナに手招きする。
オザンナは恐る恐る熊の背中に腰を落とし、ルーナの腰に両手を回した。温かく、分厚い毛並みが尻の下で揺れた。
「それじゃ、出発進行!」
オルソはゆっくりと、獣道の奥へ向かった。
やがて木々の密度が薄れ、視界が開けた。
円形の空き地だった。色とりどりの花が地面を埋め尽くし、蝶と蜂がその間を縫うように飛んでいた。オザンナは空を見上げた。白い雲が、青の中にゆったりと浮かんでいた。
「天国みたい……」
ルーナは籠からサンドイッチを取り出し、オルソの鼻先に差し出した。オルソは丁寧に食べ終えると、そのままうつ伏せになった。ルーナはオルソの背にもたれかかり、オザンナにもサンドイッチを手渡した。
「いいところでしょ。私の秘密の場所なの」
「嬉しい。こんなとこに連れて行ってくれて。ルーナは私のこと特別だと思ってるのね」
「ううん、ここでこき使うために連れて来たのよ」
「えっ」
籠の中から、軍手が出てきた。
「雑草を取り除きましょ」
ルーナはにこやかに笑った。
しばらくして空き地の雑草が駆除されると、ルーナはユリの球根を籠に入れた。
「これを食べさせるの。ここの花には女神様の加護があるから元気になるわ」
「誰に?」
「コズマのお母様に」
その言葉を聞いたオザンナの顔が、一気にほころんだ。両腕がルーナの背中に回ってくる。
「やっぱりルーナは聖女様よ!」
「悪役令嬢……まっ、いいか」
◇
洋裁店の奥の部屋は、薄暗く静かだった。
ベッドに横たわるコズマの母は目が虚ろで、肌に生気がなかった。コズマがそっとスープを口元に運ぶ。ユリの球根を煮込んだそのスープを、母は少しずつ飲み込んだ。
ルーナはオザンナと並んで、その背中を見守った。
しばらくすると、変化が現れた。青ざめていた母の頬に薄紅色が戻り、肌にツヤが差してきた。コズマの肩が小さく震え始め、声もなく涙があふれた。
「コズー、どうして泣いてるの? あら、お客様なの?」
母の声が、部屋に戻ってきた。コズマの母はオザンナとルーナを見て、きょとんとした顔で言った。
洋裁店を出ると、夕方の空気が肌にひんやりと触れた。
「聖女様パワー全開ね」
「いやみね。でも、私の悪役令嬢の道は果てしなく遠いわね」
ルーナは遠い目をした。




