【第三話】
■Opening:黒猫の死/Death of cat
偶然通り掛かった大通りで事故があった。
多くの人々はさして興味も持たずに通り過ぎるか、足を止めて見物人に徹している。確かに人によっては別に騒ぐほどの事ではないのかもしれない。
そんな中マリィは、どうすればいいのか分からず、道で呆然と立ち尽くして居た。
雑踏に転がる黒猫。
祭の余韻に浸る街並みに冷水を垂らすような、目の醒める死。
鼓動の停止、呼吸の停止、活動の停止、生命の停止。
実感の湧かない、死と言う単語だけが頭の中で羅列される。
黒い体は力無く地面に横たわり、命の失われた躯は物体となった事を象徴するかのように生きていた頃の面影を失くす。まるで誰かが死者に執着しない様にと、未練を断ち切るようであった。
だから多くの人は死体に関心など示さず、顔を背ける。
それがマリィには、凄く残酷な優しさに思えた。
――きっと。誰しもに平等に降りかかるからこそ。
■魔法王国下層都市/ Lower layer city
旅は残り一割を半ばとするらしい。
最後まで気を抜くなと言う事らしいが、マリィとしては、ほんの一時でもいいから今すぐにでも気を抜きたい気分であった。
「な、何でシスタークロエはこうも問題事を引き寄せるんですか!」
叫びながらマリィは白黒のクロスシンボルの刺繍が施された、魔術医同盟の白い外套を翻し、目前に迫る街へと続く公道を全力で駆ける。
「それは聞き捨て成りませんね、今回はマリィの招いた災いでしょう」
マリィに並んで、同じシンボルの施された黒い外套を翻しクロエも同じように全力で走っていた。
いや、二人だけではない。周囲の冒険者や商人から馬車まで、大勢の人が街へと向かって全力で公道を駆け抜けていた。
「大体シスタークロエが、キャラバン隊の宴会に混ざって酔い潰れて出発時間を遅らせるから!」
マリィの傍らを素早く黒猫が駆け抜けていった、それを見送りながらクロエに文句を垂れる。
「そう言うマリィこそ、楽器の腕を見込まれたからと一晩中演奏していたじゃありませんか」
「関係ありませんし! 私は出発予定時間までには起きていました!」
「ならば早めに私を起こせば、真紅の中を走らなくて済んだのです」
「うっわぁ責任転嫁ですか!? 思春期の少年が母親に言うような文句言わないでくださいよ!」
マリィは何度か起こそうと、起床の歌を試みた。しかしクロエはいつの間にか学習しており、耳栓による絶対防御でマリィの騒音攻撃に対抗してきたのだった(因みに寝ているクロエに不用意に近付くと、関節技で落とされる)。
空は、濃厚な紅と希薄な紅が幾重にも混ざり合い複雑な紅色を描き出す。まるで生き物が蠢く様な、鮮やかに染まる危険濃度の紅色を人々は真紅と呼ぶ。
この日ばかりは全ての人が家に籠り決して表を出歩かない。何処か安全な場所に籠り、身を寄せ合って震えるしかない。
まして街の外など問題外であろう。
マリィ達の背後からは、激しく金属がぶつかり合う戦闘の音が響いてくる。
後続の逃げ遅れた隊商の護衛が、逃げ切る事を諦めて戦い始めた音だ。相手は紅色の獣、紅侵獣と人は呼ぶ。
特徴としては、全身は紅色をしていて、様々な動物を混ぜ合わせた奇怪な姿をしている。
硬質な紅色の外殻で覆われ、剣や槍で攻撃してもなかなか傷つかない。
獰猛且つ狡猾で、油断すれば騎士隊でも手を焼くほどに強い。
真紅の日に何処からともなく湧いてきて襲い掛かってくる。
煮ても焼いても食べられない。等が挙げられる。
マリィがチラリと背後を見やると、夥しい数の紅黒い群れが間近に迫ってきていた。すると横を走るクロエが真顔で尋ねてくる。
「貴女の音楽であの程度の獣くらい操れないのですか?」
「音楽を何か勘違いしていませんか! そもそも言葉が通じない時点で無理です!」
「ならば聞いた者を皆殺しにする魔曲など」
「魔曲ってそう言う効果を持つ曲って意味じゃありませんからね!?」
マリィ達が目指す街の入口で、先に辿り着いた黒猫が二人の到着を待つ。その入り口がゆっくりと門を閉ざそうとしていた。
都市は基本的に街の境に高い壁を持つ為、入り口を閉ざせば紅侵獣が街へ入り込む事を防ぐ事が出来るのだ。しかし外の全員が街へと逃げ込むのを待って居れば紅侵獣の侵入を許してしまうので、早めに門を閉ざす。その代り周囲には、兵が武器を手に待ち構える。入りそびれた人は、兵隊に守られながら郊外の駐屯地で紅が静まるまで危険と隣り合わせで過ごさなければならなくなる。
マリィ達が門に閉ざされる前に街に辿り着けるかは、微妙であった。
「マリィ!」
「シスタークロエ!」
二人と周囲の人は似た様な叫び声をあげて、飛び込む様に街の中へと入った。そのすぐ後ろで、轟音を立てて街への扉が閉ざされる。
土煙が舞う。何とか門が閉ざされる前に街へと入れた人達は、安堵の表情を浮かべた。
人々が門から離れていく中、暫くマリィ達は頭から滑り転んだ形で倒れ込んでいた。
走り疲れて、ピクリとも動かない二人を心配そうに、あるいは愉しがる様に黒猫がタシッと手を出しじゃれる。
「街に入るだけで、何でこんなにも苦労しないといけないんですかー!」
緊張が解けて、マリィの弱音が漏れ出した。
「まったく。泣いて居ないでしっかりと立ちなさい、だらしない」
先に起き上ったクロエは、引っ張ってマリィを持ち上げようとしたのだろうが、しかし持ち上がったのはマリィではなかった。
「…………?」
長身のクロエに手を引っ張り上げられて、ぶらーんと少女が姿を現した。
灰色いワンピースを着て可愛い紅いリボンが前髪で揺れる銀髪の少女は、首を傾げて宙に揺れた。
「……シスタークロエ、その少女誰ですか?」
「…………さっき勢い余って咄嗟に握った手が、マリィの手ではなかったようです」
クロエも良く分かって居ない様子で、ぶら下げた少女を地面に下ろした。
「ふぇ……ぅぅぅ」
少女は背の高いクロエと、少女とそれほど背丈の変わらないマリィに見つめられて急に不安になって泣きだした。
「ゆ、誘拐ですか!? ついにそこまで落ちたんですかシスタークロエ!?」
「え、冤罪です! これは不可抗力を主張します!」
「あぁぁぁぁぁぁん!」
「ニャー!」
三人(+一匹)の声が閉ざされた扉の内側に木霊する。
《――紅の濃度が安全域に低下した事をお知らせします。皆様ご安心ください、危険は去りました。繰り返します、只今紅の濃度が――》
出入り口の付近に設けられた休憩場所でマリィ達が待っていると、小型の魔導波放送受信機から真紅が去った事が伝えられた。
同時に、通り雨が過ぎる様に空の色はいつもの様な紅色に落ち着き、街の入口の扉がゆっくりと開かれる。
マリィ達は、機嫌良く黒猫の脇を掴んでムニムニとしている少女見つめる。そして少女を挟んで左右に並び、街に入りそびれた人が兵士に連れられて街へと入る様子を眺めた。
しかし、安堵の表情で街へと入ってくる人から少女は親を見つける事は出来す、また少女を見つけ安心した様子で駆け寄ってくる人物も居なかった。兵に話を聞いてもみたが、子供と逸れて探している人は外には居ないらしい。
「シスタークロエ、私この娘を育てます!」
「結論が早過ぎます」
マリィの提案は即座にクロエに却下された。
「でもある人は言いました! 人は完成された存在じゃないので、気まぐれで娘を育てる事を許す事も有るんですよね?」
「そのある人って私なのですが、何勝手に拡大解釈しているのですか。猫と女の子を同次元で取り扱える訳が無いでしょう」
トスっとマリィの頭に手刀が落ちる。
「じゃ誘拐しておいてこの場に放置するんですか、それって非道過ぎません?」
「誘拐ではないと何度言えば……コホン。まだこの子より先に街に入っている可能性もあるでしょう」
そう言ってクロエが見つめる先に、ゆっくりと紅が薄まり全景を顕わにしつつある街があった。
「この魔法王国下層都市に」
クロエは漠然と上を見上げて呟いた。
マリィ達が居る門から先は大きな窪地となっており、広大な都市が建って居る。しかし街までの道中を行く人々は、皆クロエと同じく呆然と上を見上げていた。それも無理も無い話で、紅色に染まる空には、巨大な街が浮かんでいるのだ。
マリィ達も他の人と同様に上空を見上げながら、街までの最後の道を進み始める。
「しかしシスタークロエ、厄介毎を自ら抱え込むなんて珍しいですね?」
「まぁ親を見つければ謝礼をふんだくれますからね」
「本当に誘拐じゃないんですよね?」
改めて疑い始めるマリィに、クロエは何故かふんぞり返って答えた。
「当然です、私は小さくて煩い少女が大嫌いなんですよ」
「何で私をジっと見つめて言うんですか?」
「楽器なんかを弾き語る少女なんか特にですね」
「へーそんな少女がシスタークロエの周りには居たんですね、同情します」
マリィがクロエから聞いた話では、魔法王国はその名前の通り魔法使いによって構成された王国であるらしい。王国は紅に空が染まり始めた頃に、魔法によって王都を上空へと浮かばせ、強力な結界で閉じ籠ったという。
以来魔導船を使って近づく事は出来るが、厳密な入国審査により魔法使いしか入る事は許されず、他国との交流は殆ど行われていない。その為に魔法王国の浮遊都市の中ではすでに魔法によって紅病を完治させる術が編み出されていると噂される。それ故に訪れる旅人が絶えず、何時しか浮遊都市の下にもう一つ都市が出来上がった。
それが、今マリィ達が辿り着いた下層都市の始まりだと言う。
「わーキラキラだー!」
少女は眩い光に歓声を上げる。少女の言葉通り、浮遊都市によって陰る街は華やかな光と賑やかな音で溢れていた。
「下層都市って言うくらいだから、もっと暗い街を想像してましたー」
あまりの賑やかさにマリィは目を眩ませ瞬きする。
「ほら、向こうから魔導船が来ているでしょう」
クロエが街の外の方を指さす。そこに丁度、魔導船がゆっくりとこの街へと近づいてくる所だった。
「下層都市は浮遊都市へ魔導船が近づくたびに、このように賑やかな祭りを行い、関心を惹こうとしているのです。楽しそうにしていれば、いつかお忍びで浮遊都市の人が下へ降りてくるかもしれない、そしてこの街の誰かを浮遊都市へ連れて行ってくれるかもしれない、そんな淡い期待を込めて」
そしていつしか淡い期待は、多くの旅人がこの街こそ希望はあると信じて旅の終着点とする盛大な祭りへと変わった。
「さて、とりあえずこの街でこの子の親を探しましょうか。それまでこの少女を預かる事にします、謝礼の為にも」
クロエは街の入口で今後の方針を述べた。
「この少女を預かるのは賛成です、謝礼の件には反対です。で、この街にこの子の両親……」
ふとマリィは気づいて少女を見つめた。
「……そう言えば名前は何ていうんでしょうか?」
「少女に聞けばいいではないですか。ついでに両親の名前と職業と資産の有無も」
「ねぇ、貴女の御名前何て言うのかな? お姉さんに教えてくれないかな?」
クロエを無視してマリィは少女に優しく問いかけた。
「名、前……? ふぇぇ……ぁああああ!」
「あぁーほら子猫だよ、黒猫だよぉ!」
またも突然泣き出した少女に黒猫を与えて落ち着かせる。黒猫は諦めた様子でグニグ二とされるがままを受け入れた。
「どうやら名前をトリガーに両親でも思い出すのですかね」
クロエはやれやれと肩を竦めた。
しかしこれでは少女の名前を聞く事が出来ない。マリィは仕方ないと言った様子で手を上げた。
「じゃ、この少女の名前はクロエにしましょう!」
「だから何で私と名前被せるんですか、貴女私の名前好きなんですか」
マリィは頭を指先でクロエに突かれながら、少し考える仕草をして。
「そうですね、クロエ(黒猫)と被っちゃいますね。では黒猫をクロエ(1号)この子はクロエ(2号)にしましょう。ねぇシスタークロエ(3号)」
「誰が3号ですか!」
マリィの頭はクロエに叩かれて、小気味良い音を立てた。
■寄港祭/ The Festival to ship coming.
とめどなく打ちあがる花火は、それだけでも見応えがあった。
「景気よく上がりますねー」
「まぁ、浮遊都市から漏れる魔素を利用する事で、この街はあらゆる動力がほとんどただで使えますからね」
マリィの呟きに対してクロエが説明を補足する。何でも一晩で何百発と夜空を染め上げるらしい。それほどにこの祭りを盛り上げたいのか、それとも浮遊都市に思いを伝えようと切実なのか。
「ピカピカしてるー!」
少女は喜んで空を魅入り、抱えられた黒猫は煩そうに耳を伏せる。華やかな大通りを歩く人の反応は、概ねそんな感じに大別出来る。
下層都市は、色鮮やかな看板と屋台で埋め尽くされていた。行き交う人々は楽しげで、マリィも嬉しそうに声を上げ手を振り高揚を表現する。
「何か、皆此処を目指す気持ちが分かりますね、毎晩こんな感じですか? 楽園じゃないですか!」
「まぁ、何事にも表と裏はあるモノです。しかし、わざわざ石をひっくり返す事も無いでしょう」
そう無感情に告げて、クロエは祭りの騒ぎの中へと身を躍らせる。
目に毒とも思える光を放つ看板に、奇抜な衣装で踊る人。昼間から酔っぱらう人に酔っても居ないのにテンションの高い人。南部の風土が雑じって聴き慣れない笛と太鼓の音、人々が奏でる雑踏が程よく気持ちを振るわせる。どういった由来があるのかマリィは知らないが、広い道の中央をお揃いの動物を模した仮面と煌びやかな飾り付衣装の一団の長い列が通り過ぎる。
流石は魔法王国、まるで皆魔法にでも掛かっているようだとマリィは思った。
街灯に設置された機器から流れる、陽気な音楽に流されるまま、何時しかマリィも他の人と同じように祭りの魔法に酔い痴れる。
「わーシスタークロエ、何か変な食べ物売ってますよ、雲みたいなの!」
「ねぇねぇ、アレ食べたい、アレ食べたーい!」
「あんな砂糖を細く綿状にした菓子の何処に子供は惹かれるのでしょうかね」
執拗に服を引っ張られ、クロエはフワッとしたお菓子を頬張る二人を冷めた目で見つめた。黒猫も遅れて後をついて来る。
「アハハ、このチャチな味がいいんじゃないですかー」
「甘―い!」
「あ、シスタークロエ! 何か果物が飴でコーティングされていますよ、不気味可愛い!」
早くも完食したマリィは次の獲物へと狙いを定める。
「むぐぅ、むぐむぐ!」
少女も顔面をベタベタにしながら慌ててマリィを追いかける。
「どうして子供ってああいう毒々しい色の食べ物を平然と受け入れられるのでしょうか」
クロエは呆れて以下略。
「うをーシスタークロエ、魚が溺れていますよ!」
「救わなきゃー!」
「あれは色鮮やかな魚を掬って遊ぶゲームですよ。あと魚は溺れません」
「氷菓子だー、色々なシロップ掛けてどぎつい色作らなきゃ!」
「冷たそー!」
「少しは落ち着きなさい、あとマリィ貴女の楽しみ方少し歪んでいますよ」
全速力で氷を削るお店に向かうマリィの頭頂部を抑えて、クロエが暴走を抑えた。
「何ですかシスタークロエ、ノリ悪いですね一番こういう雰囲気に酔いそうなのに」
「無駄使いをしないだけです、貴女も私の様に普段から節制を心がけてですね……」
「あ、何だ持ち合わせが無いんですか。最近私も同盟支部で給料貰ってるんで普段の感謝の気持ちは一切無いですけど、折角なので奢ってあげても」
「お、何と南部の地酒ではないですか! 一杯貰わなくてどうするのです!」
かくして止める人間は居なくなった。
マリィ達は思い思いに屋台の食べ物を見て回った後、とある屋台の前で並んだ。
景品番号の振られた的に対して、投擲用の矢を投げる的当てゲームの屋台であった。
「交互に投げて、一番当たった景品のグレードが高かった方が勝ちと言う事にしましょう」
ルールをクロエが述べる。
「いいですよ、単純に技術力の勝負ですね」
マリィも深く頷き了解した。
「あの景品をげっとー!」
少女も二人の気迫に煽られて真剣な眼差しで、鳥のヌイグルミを見つめる。
要するにお腹がいっぱいに成ったので、ゲームに切り替えたわけだが。
先行はクロエ。切れ目の眼差しが的を鋭く狙う。手に握られた三つの矢の一つを手に構えを取る。
マリィはクロエの前傾姿勢に成りつつも、正面から的を見据える構えを見て直感した。投げ慣れていると。的への距離を短く取りつつ、正面から見据える事で狙いを定める。前傾姿勢なのは利き足に重心を乗せる事で下半身を安定させ、腕に余分な力を加える事無く理想的な投擲フォームを保つ為の構えだ。
しかしマリィは内心で笑みを浮かべた。的当てと言う競技において、技術はほんの一割程度の比重しかない。大事なのは精神面。余分な力を抑え込み、理想的な軌道で投げる為には僅かな緊張や動揺が命取りとなる。
クロエが慣れた手つきで矢を引く様に腕を引き絞った瞬間、マリィは周囲の声援に合わせて声を発した。
「頑張ってくださいね! 立ち寄った屋台でことごとくお母さん呼ばわりされて少し凹んでいるシスタークロエ」
クロエの矢は、狙いを大きく外れギリギリ枠に刺さる。無得点。
「……マリィ」
「あ、1回目は外れですかシスタークロエ。じゃ、次私ですね」
恨みがましい声を上げるクロエを押しのけて、今度はマリィが的の正面に立つ。
マリィは勝利を確信した。一度でも精神を揺さぶれば、後は済し崩し的に次投にも乱れは伝播するだろうと。作戦成功と内心で叫んで矢を構える。
「――精々頑張るといいですね。衣装屋でサイズの合う服を頼んだら子供服が出てきたマリィ」
マリィの矢は放物軌道を描いて、しかし的には届かず。
「シスタークロエ……!」
「あら、残念ですねマリィ。では次は私が」
マリィを押しのけ、今度はクロエが矢を構える。
「さっき露店で老化予防商品を勧められたシスタークロエ、頑張って!」
クロエの矢は、放物線を描いて大きく的を外れた。明らかに力み過ぎである。
「衣装屋で店員にブラは不要と言われたマリィ、頑張りなさい」
直線軌道を描いて、矢は地面に勢いよく突き刺さった。
「シスタークロエェェェ!」
「マリィィィィ!」
二人の睨みあう横で、少女はやれやれといった表情で呆れ返った。引き分けである。
続いてマリィ達が訪れた屋台は、棚に無数の商品を陳列し、客にクロスボウとキャップの付いた矢を渡す。客は撃ち落とした商品を手に入れると言う趣向の店だ。
「今度は、より多くの的を落とした方が勝ちです」
クロエは手渡されたクロスボウに矢を番えながらマリィに確認を取る。
「了解ですシスタークロエ、そして負けた方が罰ゲームです」
マリィもクロスボウの機構を確認しながら答える。
「しかしハンデは無しで良いのですか? 拳銃の名手たる私を相手に」
「フフフ、それは在学時代食事に肉が足りないと、自作の弓で近隣の野鳥を乱獲した私に言っているのですか?」
不敵な笑みを浮かべてマリィは狙いをつけた。
「お姉ちゃん達頑張れー! あの景品が欲しー!」
可愛い子犬の小物を指さす少女の声援を聞きながら、マリィは目の前の的へと意識を集中させる。
この様な屋台の商品を狙う時、獲物を狩る場合とは勝手が変わる。まず欲しい商品では無く狙い易く落とし易い物を、真ん中では無くやや右上を狙う。商品までの距離が短く、弦が緩いのでなるべく腕を伸ばし威力の減退を防ぐ。
しかしこの程度の技術はクロエも把握しているとみて間違いないとマリィは確信していた。普通に商品を落として行けば、勝敗は運に任せる事になるだろう。ならば、商品を勝ち取る為では無く、勝つ為に的を狙わなければならない。確実な勝利を得る為にマリィは商品に目を向けたまま、獲物にクロスボウを向けた。
対戦相手が次矢を撃つ事が出来なくなれば、勝利は確実なものとなる。と考えて、先ほどの言い争いが後を引いているのかもしれないが。
結果、お互いの頭にお互いの矢がヒットし互いに頭を抱えて蹲った。やはり、引き分けである。
「やた、景品げと!」
二人を余所に、自力で欲しい商品を射止めた少女が歓声を上げた。
祭の楽しい雰囲気は時を忘れさせるのか、それとも浮遊都市の陰が落ちて常に暗いので気づきにくいのか、いつの間にか夜になっていた。
歩き疲れた体を癒す為に、マリィ達は特別な宿をとった。
「はー癒されますね」
クロエは宿に併設された、大通りを眺められる大きな露天風呂に身を浮かべ至福の声を漏らした。大通りからも此方が見える構造だが、クロエは黒い生地に紅い華の描かれた水着を着て、温水に浸かる。
「信じられません! そんな往来の見える場所でそんな恰好なんて!」
マリィが湯船の外側でクロエを非難する。
「マリィだって下に水着は着ているでしょう」
「外から丸見えなんて聞いてません!」
マリィ達から少し離れた所で、少女が桃色ワンピースのフリル付水着を着て湯船でバシャバシャと泳いでいた。少女の前髪を留める紅色のリボンを外さないのは、何かのポリシーでもあるのだろうか。因みに黒猫はお湯が苦手らしく、湯浴み場に踏み込もうとしない。
「さぁさ、湯船で制服なんて無粋ですよ」
「イヤです! そんなはしたない! しかも男性と一緒に入るだなんて!」
浴場は、着替え場所こそ別れてはいるが男女一緒に浸かる造りとなっていた。
「そうですか。しかしそんな恰好では暑いでしょう、飲み物を奢りますよ」
そう言ってウェイターを呼び、クロエはマリィに淡い緑色の液体の入ったグラスを手渡す。
「美味しい!? 不思議な味のジュースですね!」
マリィは飲んだ事の無い飲み物に驚きの声を上げる。
「あー、それ知ってるカクテルっていうお酒むぐっ!」
「さぁさ、マリィ御代りを」
クロエは余計な事を言いそうな少女の口を押えて、ウェイターに新たな飲み物を頼む。
「何か体が暑いれすねー」
顔を火照らせるマリィに、間髪入れずクロエが新しい飲み物と取り換える。
「今度は蒼いんれすかー、んくぅー、これも美味しいです」
「ソレは良かったですねマリィ。所でそんな暑苦しい恰好で大丈夫ですか?」
「そうれすねー、脱ぎましょうかー」
マリィはクロエに言われるままに、羽織る上着を脱いだ。いつもの制服の下には、白いセパレートのフリル付水着が現れる。
「ところれー、このジュースに表記されてりゅ%って何の表記れすかー、段々高くなっていますけりょー」
「さぁ、存じ上げませんね」
呂律の回らなくなってきたマリィの手から、クロエはレシートをもぎ取り丸める。
「そういればー、気になっていたんですけろーシスタークロエのその入れ墨っれー結構この街で見かけるんれすけど」
「そう、ですか……」
質問を適当にはぐらかし、クロエはマリィにさらに新しい飲み物を。
「何か気分いいれすねー、一曲いきまひょー!」
黄色い飲み物を一気に空けたマリィは、何だか分からなくなってきたのか何処からともなく三日月型の弦楽器を取り出して奏で始める。酔っても音のリズムは外さない。
「ほうほう、明日は低濃度ですか。何々今こそ問い掛ける魔導船の安全性、墜落を予見……物騒ですね」
クロエは湯船に持ち込んだ雑誌に目を落とす。背後では見物人が集まり上がる歓声に暴走するマリィが楽器を鳴らす手に力を入れる。それを横目に見てクロエは湯船に浸かり呟く。
「むぅ、こうなっては私も酔うしかありませんね。ウェイター、私にも飲み物を」
呼ばれて男が、淡い紅のグラデーションの綺麗な飲み物をトレイに乗せてクロエに近付く。
「いやいやぁ……子供にこんなモノを飲ませるなんて良くないですよぉ」
トレイを持って隣に急に現れた細目の男に、クロエは目を点にして空のグラスを湯船に落とした。クロエが驚くのも無理は無い。細目の男は普段の黒スーツ姿では無く、雰囲気に合わせたカラフルな花柄のシャツに半ズボンと麦わら帽子と言う格好で溶け込んでいたからだ。
「ニール先生……その恰好は一体?」
「私だって祭りを楽しむ為に恰好を変えたりしますよぉ。でも遊んでばかりではいけませんからねぇ、この後少し時間よろしいですかぁ?」
「ああ。いつものお仕事でしょう……」
男が去った後、クロエの背後で盛大な拍手が起こる。いつの間にかマリィの演奏が終わり、観客からアンコールが巻き起こっていた。
クロエは物思いに耽るように目を閉じて、ブクブクと頭の先まで湯船に沈み込んだ。
■祭りの朝/ The morning of a festival
翌日の宿、部屋に朝日は差し込まない。
相変わらずの紅い空は、浮遊都市に阻まれてよく見えない。
静まり返る一室で、ゆっくりと活動を開始する黒い影。
マリィの眠るベッドに近づいた影は、助走を付けて飛び掛かった。
「ダーイブ!」
「へぐぅ!?」
少女に急に圧し掛かられて、マリィは人語成らざる声を発した。
「小お姉ちゃん、朝だよー!」
「ぅぅぅ……あぁクロエ(2号)ですか。すみませんが私、何故か頭が割れるように痛くてですね……」
ベッドの上で少女に乗られ、マリィは頭を押さえて呻いた。
「起っきろー♪」
少女は笑顔で前髪を抑える紅色のリボンを揺らしながら、体を揺する。
「あぁぁぁ――頭ガンガンするぅ……こんな事でシスタークロエの気持ちを理解する時がこようとはぁ……」
少女に体の上で暴れられ、マリィは苦悶の表情で喘ぐ。そしてふと気づいて目を開けた。
「そう言えば、シスタークロエは?」
「大お姉ちゃん居ないよー」
頭を押さえて起き上がりマリィは反対側のベッドを確認するが、そこにいつもなら布団を被って丸まっている黒髪長身の女性は居らず、黒猫が大きなベッドを一人占領していた。
「――部屋が綺麗です」
散らかって居ない部屋は、クロエが昨日から帰って居ない事を示している。目を覚まして頭を抱える必要のない部屋の状況に、マリィは新鮮な感覚と寂しさを覚えた。
頭痛が収まるのを待って、昼頃を回った大通りを、マリィと黒猫を抱えた少女が歩く。街からは昨日の様な華やかさはすっかり消えてしまっていた。
「静かだー」
「何か寂しいですね」
人通りは多いが人々の顔に昨日のような笑顔は無い。花火も音楽も無く、ただ雑踏を刻む人の足音が流れるだけ。
薄暗い色褪せた風景、冷え切るように落ち着く街。マリィは本当に昨日と同じ町に居るんだろうかと疑う。
しかしまた今夜には盛大な祭りがあるのだろう、街の片隅では祭りに向けて商品の補充や機材の搬入などの準備が進められていた。この街は一夜の夢を繰り返す。マリィはあまり長居したくないなと思った。あまり長く居ると、夢から醒めなくなりそうで。
「大お姉ちゃんを探そー!」
少女は元気そうに前髪を押さえる紅いリボンを揺らす。
「そうですね、クロエ(2号)の親のついでにシスタークロエも探さないと」
魔法王国下層都市は広い。この中をマリィ一人で少女の親を探し歩くのは流石に無理だと思った。まぁ、クロエと二人で取り組んだ所でさしたる違いは無いのだろうが。
「出来れば早く合流したいですね。愚痴を代弁してくれる人が居ないのは少し寂しいですから」
街の静けさかクロエが居ないからか、マリィは不安を覚え少女の手を握った。
「大お姉ちゃん居ますかー!」
「いくらシスタークロエでもそんな路地裏に潜んでは……」
「こっちー?」
「ちょっ! 待って!」
何時の間にかマリィの手を振り切って、薄暗い路地裏の奥へと少女は元気そうに入っていく。慌ててマリィもその後を追いかけた。
籠った嫌な臭いに顔をしかめながら、マリィは細く塵で埋もれた路地裏を進む少女の後ろを追う。
埋もれた塵、廃材や布。何処か紅い色にくすんで空の色を思い起こさせる。そう見てしまうと、壁も広がるただの染みが血のように見えてしまう。
マリィはゆっくりと足を止めた。
足もとに広がる塵の中に、幾つかの骨が覗く。そして鉄錆を思わせる濃厚な死の匂いで、マリィはこの街の光と影に気付いた。
紅病の末期患者は身動きが取れなくなり、やがて死に至る。しかしどの段階で死に至るかは曖昧だ。大抵は身動きが取れなくなり意識が無くなれば死んだとされる。そうなったら回復の見込みは無いからだが、時には紅病の末期となった瞬間に死んだとされる場合もある。しかしどのような場合であれ、処理方法に違いは無い。焼いて世界に還すのが一般的だ。
足もとに転がる人間大の塵塊に白骨が幾つも雑じって、紅色の衣服の破片が散乱する。ようやくマリィは、ここに何が捨てられているかを理解した。
さらに奥へ進むと、紅病の末期症状で動く事も出来ない人達が何人も塵の様に捨てられ転がって居た。きっとその内火葬屋辺りが始末に来るのを待っているのだろうか。
マリィは来た道を懸命に戻った。これ以上奥を見たくなかったからか恐怖ゆえにか。
魔法王国の下層都市は、厳密に言えば国家では無い。浮遊する魔法王国の下に広がった、とても広大な無法地帯なのだ。
それ故にこの下層都市に政府は無い。
指導者も管理者も居ない。
魔術医同盟支部も正規の病院も。
此処にあるのは、魔法と言う希望に縋りつく治療の施されなくなった末期の紅病患者の最期と、金儲けを企む人達の店だけ。
夢のような祭りの裏側には、醒めるような現実が広がっている。
「早くシスタークロエを探そう」
虚構に輝く一時の幻想と、醒めた後に広がる惨めな現実から逃げる様に、路地裏から飛び出してマリィは呟いた。
「あ……」
そしてようやくマリィは少女を見失った事に気付いた。
「……クロエ(2号)も探さないといけなくなりました」
マリィは呆れて溜息を吐いた。
雑踏を歩く無数の人は、無関心で通り過ぎる。
マリィは不意に一人ぼっちになった寂しさに潰されそうになった。
「何処ですか」
か細く呟く。
「何処にいるんですか、クロエ(3号)は!」
少し涙を浮かべて、大きな声で叫んだ。その直後。
「誰が3号ですか」
マリィの頭に、手刀が落とされた。
「シスタークロエ何時の間に後ろに!?」
「貴女が呼んだのでしょう」
クロエは呆れた顔でマリィを見下ろした。
「シスタークロエ、早くこの街を出ましょう!」
「そうしたいのは山々ですが、まだ謝礼がですね」
「ああ、そう言えばクロエ(2号)を探さないと!」
「貴女も色々と厄介毎を背負っているのですね……」
クロエは少し陰のある表情で呟いた。
「も?」
「いえ……それより少女を探すとしましょうか」
その日の昼下がり――。
偶然通りかかった大通りで。
「事故だ!」「貨物運搬の馬車が暴走したらしい!」「何人か巻き込まれたぞ!」
事故があったらしい。
「小さい女の子が巻き込まれたって――」
瞬間、マリィはクロエと顔を見合わせて、野次馬を掻き分けて大通りへと急いだ。
現場は凄惨な物だった。馬車は横倒しに路肩に横たわり、周囲に何人かの怪我をした人。それらを遠巻きに見て、関心無く通り過ぎる人と足を止めて見物する人。
そして辿り着いたマリィは、地面を紅色に染める少女を見つけて固まった。血で染まった服、力無く横たわる身体、意識を失った表情はさっきまで一緒に居た元気な少女とは似ても似つかなかったが、前髪に揺れる紅色のリボンが、逸れた少女であった事を示す。
マリィにはどうすればいいのか分からず、唖然と立ち尽くすしか出来なかった。
そんな折に、マリィの背後に立ったクロエが鋭く声を上げた。
「魔術医同盟、治療優先項目暗唱―!」
クロエの一声にマリィの身体がビクッと反応し、覚えた項目を述べる。
「ひ、一つ。自力での歩行が可能でない者、意識の無い者、呼吸の無い者を優先する!」
「次」
「二つ。目立った重度の外傷のある者、過呼吸の者、こちらの応答に正常に答えられない者を優先とする」
野次馬が奇異の目で見つめる中、マリィは大声で優先事項を述べる。
「最後」
「三つ。老人、妊婦、疾患を抱える者、女性、子供を優先する!」
「よし、ではこれより二手に分かれて応急処置を施して回ります。マリィは怪我人を診て回り診療録を書きなさい。重傷者は私に任せなさい、私が最優先順位から治癒術を施します。なお、同時に周囲に呼び掛けを怠らぬように」
そう言って、クロエは手始めにしゃがみ込んで少女の身体に手を掲げ治癒を始めた。
「はいっ! すみません! 魔術医同盟です、これより治癒を行います! 自身もしくは周囲に怪我人が居る方は挙手をお願いします! 魔術医また医療の知識のある方は出来る限りご協力をお願いします!」
マリィは周囲に呼びかけながら、懐からメモ帳サイズの診療録を取り出して怪我人を回り始めた。
やがて、近くの個人経営の診療所から応援が駆けつけ、事態は収束へと向かった。
「ふぅ、何とか収まりましたね」
クロエは憑かれた様子で、道の真ん中に立つマリィに近付いた。
「あの少女も命に別状はないとか。近くの診療所に預けたので親を見つけたら、この事をちゃんと報告して謝礼の他に治療費も請求しないといけませんね」
マリィはクロエに反応を返す事無く、道の一点を見つめている。
「しかしまさかこんな事故が起きるとは、後で馬車の持ち主の商会にでも掛け合って慰謝料でも」
「シスタークロエ……」
泣き出しそうな声で、マリィは声を発する。
マリィの見つめる地面には、雑踏に転がる黒猫。
先程の事故に少女と共に巻き込まれたのだろう、黒い体は力無く地面に横たわり、命の抜けていく躯は物体となっていく事を象徴するかのように生きていた頃の面影を失くしていく。まるで誰かが死者に執着しない様にと、未練を断ち切っていくようで。
「クロエ(黒猫)が……」
治癒術は万能ではない。多くの人に治癒を施す様になりマリィは多少治癒術に自信を持てるようになったが、人間以外に治癒術を行った経験は無く、それ故に立ち尽くすしか出来なかった。
「なんと、可愛そうに」
クロエはそっと道に横たわる黒猫を抱えた。上位の魔術医であるクロエならばとマリィは期待の目を向けた。
クロエは詰まらなそうに、黒猫を道の端へと放り投げた。
「なっ!?」
一瞬、マリィにはクロエが何をやったのか理解出来なかった。黒猫は道の端に転がり新たな血溜りを作る。
「何をするんですかっ!?」
マリィはクロエに掴みかかった。建物の陰に隠れてクロエの表情は良く見えない。
「何をって……道の真ん中に死骸があっては迷惑でしょう?」
当然の事をしたまでと言う様子で、マリィの怒りが理解出来ないと首を振った。
「ま、まだ死んでいません!」
「今死にましたよ」
陰に隠れ表情の読めないクロエが淡々と呟く。その言葉にマリィは声を荒げた。
「す、直ぐに治療を施せば助かったはずです!」
「それはどうでしょうね? 懸命にやっても助からないかもしれませんよ?」
「やってみなければ分からないじゃないですか!」
「無駄な努力です」
「命を救う行為を無駄って言うなぁぁぁ!」
マリィは感情のままに、クロエに殴り掛かった。しかし身長差があるので、子供が駄々をこねる様にしかならない。
「貴女がぁ……言うなぁぁぁ!」
マリィはクロエの治癒術に憧れを抱いていた。口ではあれこれ文句を言っても、いざ現場に立てばマリィが惚れこむような仕事をやってのけるこの黒衣の先輩が、いつの間にか心の中で、誇りの様にさえ思えていた。
「くぅ……ぅ、ぅ……!」
「何を泣いて居るのですか?」
影を背負ったクロエは首を傾げた。
「……クロエ(黒猫)は私がちゃんと育てるって……誓ったのに……」
「たかが猫でしょう」
マリィは聞きたくなかった。魔術医としては尊敬する人の口から、命の尊厳を踏みつけるような言葉を。
「猫とか、そんなの関係ないじゃないですかっ!」
「……貴女さっき路地裏から出てきていましたね? ならば見たでしょう? この街の裏側を」
「それが……何か?」
「人の命ですら紅病に侵されれば塵と同様に扱われる世の中ですよ、それなのに貴女は猫一匹にどのような価値をつけると言うのですか」
「私は価値とか、そう言う――」
「貴女はいつもお金じゃないとか、人の命は大事だとか口にしますね。でもそれって本当にそうですか? そうすれば皆幸せになるのですか? 貴女はそうやって一時の感謝にどれほどの労力を注ぐと言うのですか?」
「ひ、人々に救いの手を差し伸べるのが……魔術医の、本分です」
「クックックッ……」
「な、何が可笑しいって言うんですか」
マリィは唐突に笑うクロエに、今度は戸惑いの声を上げる。
「クハハハハハ……」
「何か間違っているって言うんですか! 何が! 何が何が何が何が!」
「ハハ……いえ、失礼。今ようやく大事な間違いに気付いたのですよ」
「間違い?」
「ええ、貴女と私の。価値観の違いと言う奴です」
クロエは薄笑いを浮かべて、理解出来ないでいるマリィに向かって告げる。
「貴女は魔術医の心得とかをよく口にしていますが、あんなのは詭弁ですよ。人々に救いの手を? ハッ、ならば無償で治癒を施していますよ。いいですか? 魔術医同盟も、世の中も、私も、全てはお金です。お金に成らない事に意味は無い。なのに貴女は命命と……貴女の言う大事な命って、一体いくら?」
「そ……そんなの! 値段が付けられる物じゃないに決まっているじゃないですか!」
「ならば無価値と言う事ですね」
「違う!」
「違うのならば証明してみなさい。あの黒猫の命に、貴女なら一体いくら払えます? もし相応の価値と言うものが示せたのなら生き返らせても見せようじゃありませんか!」
「この……外道! 貴女には愛が足らないのです!」
耐え切れなくなったマリィが、飛び上がってクロエの顔面に拳を叩き込んだ。同時にクロエの蹴りがマリィのお腹に命中し、互いに吹っ飛ぶように距離が開く。
「痛……つまり、価値観が違う者同士仲良く旅は続けられないのですよ」
そう言ってクロエは懐から、一枚のカードを取り出してマリィの足元に放る。カードの表紙には、[魔導船]乗船券の刻印と、判子が押されている。
「ここでお別れです。後は故郷に帰るなり何なりと貴女のご自由に」
「ぅ……ぁ……」
マリィは地面に落ちたカードを拾い上げて、嗚咽を漏らした。クロエに蹴られたお腹があまりにも痛かったからか、それとも――。
「さようならです、もう二度と会う事も無いでしょう」
やがて泣き声から喚き声に変わったマリィの叫びを背後に浴びながら、クロエはゆっくりと雑踏に消えた。
■魔導船/ The magic airship
魔法王国下層都市は、浮遊都市ありきの街だ。しかし浮遊都市もまた下層都市が無ければ街として存続する事は出来ない関係にある。
下層都市の郊外付近には広い敷地が設けられ巨大な機械が、降り立つ蒼と銀と白で彩られた乗り物を迎え入れようとしていた。
ゆっくりと巨体を下す魔導船は、円筒形な胴体を装飾品のリングが囲み、魚の様なフォルムで虚空を優雅に泳ぐ。胴体部分に丸い窓があり、前方は操舵室があり全面が丸い特殊硝子で覆われている、後方は貨物室で搬入用の扉が取り付けられる。魔法で動くからか単にそう言う技術なのか、外部に推進機関らしき物は無く、宝石の様な機関が蒼い光を放っていた。
魔法で浮くこの船は、完全に地面に着陸しない。やや浮いた状態で機械のアームに固定され、貨物庫が開く。そして作業員が荷物の出し入れを行いはじめた。
この船は次に魔法王国の浮遊都市に物資を運ぶ予定だ。
宙に浮く浮遊都市は食料や水、製品を作る為の資材など、定期的に物資を地上から運び込まなければいけない。空中なんかに浮かぶとそう言った大地の恩恵が受けられなくなるものなのかと、呆れた顔でクロエは彼方に浮かぶ都市を眺めた。
積荷が詰め込まれた後に、最後に乗客を乗せるのだが、魔法王国には魔法使いしか入国を許されず基本的に下層都市で客を乗せる事は滅多に無い。それ故に乗船補助員は移動式タラップで船員が乗り込んだ後、すぐに取り外し作業に入った。
「あぁ待って下さいぃ乗ります、乗りますよぉ」
なので、黒いスーツに帽子をかぶった細い男が駆け寄ってくるのを見つけて、乗船補助員は驚き手を止めた。
「乗船券をご提示ください」
「はいはいぃ、ありますよぉ」
細目の男は慌ただしくスーツのポケットを漁り、カード状の乗船券を取り出して見せた。
「じゃ、足もとにお気をつけて……でも、見た所アンタ魔法使いじゃないだろ? 魔法王国には降りられないよ」
「おや、どうして私が魔法使いじゃないと?」
「アンタが魔法使いなら、そもそもここに居る意味が無いからさ、魔法使いは浮遊都市から出ないもんだろ?」
「なるほどぉ、でも魔法使いだってたまには乗り物で遊覧気分でという時もあるでしょう?」
「確かにな、でアンタはどっちなんだい?」
「それは秘密です……あ、コレ外すのもう少し待って下さい。連れが来ますのでぇ」
細目の男が話し込んでいる間に、タラップの下にようやくクロエは辿り着いた。
漆黒の制服姿で、背後にお揃いの動物を模した仮面と煌びやかな飾り付衣装の一団を引き連れて。
「待って居ましたよ、さぁ中へぇ」
細目の男の後について、クロエもタラップを登る。
「……アンタ等旅芸人か何かか?」
乗船補助員は訝しむよりも呆れ返る様な表情で、奇妙な一団が無言で魔導船へ乗り込むのを見送った。
「まぁそうですね、お祭りをお届けすると言う意味では」
クロエは無関心そうに呟いて、船内へと入って行く。
華やかな外見とは裏腹に、船内は無機質な金属床が剥き出しの簡素な造りになっていた。外見だけを華やかに取り繕うのはお国柄の様にクロエは感じた。
クロエの後について船内に入った一団は、仮面と衣装を外し、中から紅色の装束に身を包んだ人達が姿を現す。背中には揃って宝石に絡みついた蛇の紋章。
「さぁ、これから歴史に残る大仕事を始めますよ、皆気を引き締めていきましょうねぇ」
様に成らない口調で、細目の男は魔導船に乗り込んだ全員を見渡して声を通す。
積み込みが終わったようで、ゆっくりと魔導船は上昇し始めていた。通路の丸い窓の下では今日も祭りが行われ、花火が上がっていた。そんな祭りを見下ろしクロエは遠くに来たなと感じた。
「まずは操舵室を制圧しましょう。黒猫と3名ほど私について来てくださいぃ。山犬と野鳥達で客室と機関部を制圧しておいてくださいねぇ」
軽い命令を残して、細目の男はマイペースな足取りで魔導船の戦闘へと歩き出した。
「楽しく世界改変ときましょう!」
クロエは3名と共に男の後ろについて歩き、残りは手分けして客室を確認しに回る。
《当船は間もなく、魔法王国浮遊都市へと到着いたします。快適な空の旅をお楽しみください》
船内放送の中、薄い合金版を歩く音が船内に響き渡る。船体の前方を目指して歩くクロエ達の前に、添乗員が姿を現した。
「お客様申し訳ありませんが、当船は間もなく急上昇を行いますので安全の為に客室にお戻り」
言葉途中でクロエの横に居た紅衣の一人が素早く駆け出し、添乗員の首を素早く手元の短刀で一閃した。一瞬にして付近が紅色に染まり添乗員が軽い音を立てて倒れる。
「ナーイスですよぉ、さぁ次行きましょう」
手を叩きながら、細目の男は紅く染まった通路を気にせず、先へと急ぐ。
丁度放送が音楽に切り替わり、厳格なオーケストラが船内に響き渡る。男性の添乗員も女性の添乗員も、船内警備の魔法使いも等しく紅い床に沈めて、まるで紅い絨毯を歩く様に細目の男は笑い声を上げる。
「良いですねぇ、良いですねぇ。曲も相まって教団のお仕事って感じですよぉ」
やがて、紅衣の二人に胸を刺され倒れる警備員の間に、操舵室と書かれた重厚な扉が佇む。細目の男は遠慮無く扉を開き中へと踏み込んだ。
「皆さんお仕事ご苦労様ですぅ。突然ですが当船は我々紅教が徴発する事となりましたぁ!」
突然現れた細目の男の宣言に、操舵室の船員は全員呆然とした。当然だろう、加担しているクロエですら未だに、魔導船を乗っ取るなどと言う大それた事をこの男が本当に行おうとしているのか疑問が拭えないのだから。
「……おやぁ、皆さん反応が悪いですねぇ」
「お客様、悪いけどここは関係者以外立ち入り禁止でござ」
徐に船員の一人が細目の男に注意しようと近寄って、紅衣の一人により袈裟切りにされた。一瞬何が起こったのかと船員は沈黙する。
「この船は我々紅教が頂きます」
クロエは無表情で拳銃を取り出し、適当に天井に向けて発砲した。
悲鳴は直ぐに上がった。
「あーとりあえず騒がしいのでぇ、静かにしましょうか」
細目の男の命令に従って、紅衣が走る。瞬く間に何人かが床に倒れ、操舵室は紅に染まり――静かになった。
「じゃ、操舵は街猫達に任せましょうか。他の皆さんは我々の指示に従ってそのままでぇ」
紅衣が船の操舵を倒れた職員と代わる。
「な、何故魔導船の操縦が出来るっ!?」
驚く船員に、細目の男は口の端を釣り上げて答えた。
「我が教団にも魔法使いは居るのですよぉ。世界に不満を持つ人材は今の世に事欠きませんからねぇ。下手な真似はしない事です、誰だって命は惜しいでしょう?」
操舵室の監視と指示を紅衣に任せ、クロエと細目の男は操舵室を後にした。
通路に出ると、客室の点検を行っていた紅衣の一人が奥から姿を現す。
「報告します。船内に他に乗客無し、機関室を制圧。動力源の魔法使いを確保しました」
「お疲れ様ですぅ、浮遊都市にもうちょっと近づくまでは現状のままで結構です」
「はっ!」
細目の男の労いを受けて、紅衣は奥へと戻って行った。クロエと細目の男は客室の方へと向かう。
「ニール先生、これで魔導船は掌握できましたね」
金属質の廊下に二人の足音が響くだけと言う状況に耐え切れず、クロエは感慨無く呟いた。今船は紅色に染まる虚空の大海を泳いでおり、幾ら魔導船が浮遊都市に張っている結界と同様の物を纏っていると知っていても、紅色に染まる景色に不安を覚えた事も有るかもしれない。
「いえいえぇ、これも皆さんのご協力合っての事ですぅ」
「さっそくこの魔導船を用いて、何処かの弱小国にでも空襲を行いますか?」
「あのですねぇ、我々紅教は戦争目的でこの魔導船を手に入れたわけではありませんよぉ」
クロエの発言に、細目の男は呆れた顔で首を振った。
「……ならば如何するのですか? 上空から教団勧誘のビラを配るくらいしか後は使い道が思い浮かびませんが」
クロエの言葉に困ったように細目の男は首を傾げた。
「作戦指令書はちゃんと読みましたかぁ?」
「酔って居たのでよく覚えていませんね」
「よく集合場所に辿り着きましたねぇそれで……」
細目の男は呆れ半分感心半分と言った様子で、改めて口を開いた。
「まぁ良いでしょう、改めて説明しましょうか。今回の狙いは魔法王国です、だから進路はそのままなのですよぉ」
「確かに魔導船に乗り込めば浮遊都市には近づけますが……このまま攻め込んでも魔法で撃ち落とされるのでは? それに魔法王国に攻め込むには人員が足りませんが」
魔法王国と自ら名乗っているのだ、こんなゆっくりと空を飛ぶ鉄の塊など容易く撃ち落とせる魔法使いが数多と要るに違いない。クロエ自身本物の魔法使いとやらにそうそう出くわした経験はないが、こんな巨大な物を浮かべるくらいだ、下手に手を出すのは得策ではないと思うくらいに畏怖は感じている。
「心配には及びませんよぉ。今回の目的は魔法王国に攻め込む事じゃありませんから」
「では、こんな大がかりな準備をしてまで何を?」
「ぶつけるんですよぉ。この魔導船を、魔法王国にぃ」
男が笑みを浮かべて告げた。言葉の意味が理解できず、クロエはしばらく瞬きを繰り返した。
「特攻……ですか?」
「少し違いますねぇ。それに魔導船一隻では浮遊都市は流石に落ちないでしょう」
「なら、一体何が目的なのですか?」
男は笑みを浮かべて、懐から紅い宝石を取り出して見せた。
「今この船内には大量の、宝飾品に偽装した紅石が積み込まれています」
紅石とは、紅病を治療した際に生まれる石だ。高濃度に紅病が濃縮された物質であり、取り扱いは慎重に行わなければならない。
「小さな街なら二つ三つ余裕で紅病を蔓延させられる量がねぇ……これを魔法王国の結界内に撒くのです」
細目の男は妙に楽しそうに語る言葉を、クロエは唖然と聞いていた。紅石は紅病の塊だ、下手に衝撃を与えれば、砕けて紅病として広がる危険がある。
もし、この男の言う通りの量がこの船に積まれ、この魔導船が激突したのなら、紅石は紅病と化し大量に空気中に撒かれる事になるだろう。
「実は、あまり知られていませんが紅病とは肉体だけでは無く、時に心をも蝕むのですよ……紅石として凝縮させた場合、肉体への感染力は殆どなくなりますが心への浸食はむしろ増すのです!」
男はクククと含み笑いを漏らしつつ続ける。
「衝撃によって、紅病と共に細かく砕けた紅石が無数に降り注ぐ……いくら希望と言われた魔法王国でも流石に紅病に蝕まれ、滅びは避けられない。そしてその様子はさぞや人々の心に深い傷を作る事でしょう。そして人々が絶望の淵で真に救いを求めた時に――」
もし、本当に結界内に侵入出来てしまい、邪魔される事無く紅石と紅病を散布する事が出来たなら。
もし、魔法王国に噂通りの紅病を完治させる術が無かったら、あったとしてもそれが一瞬で広がる紅病を消し去る事が出来ない術であったのなら。
「――我ら紅教が救いの手を差し伸べるのです」
今宵魔法王国は滅んでしまうかもしれない。
――さぁ、我らが救いの手を差し伸べましょう。
クロエに教団が手を差し伸べたのは、今から十年以上も前の事になる。
それより以前は、底辺に居た。
名前など無く、気が付けば路地裏で物乞いや残飯漁りで、何とか生きていくのが精いっぱいだった。
普通の生活と言うものを知らなくて、自分の状況が酷い物だと言う自覚すら無かった。そしてそういった生活を送る者の例に漏れず紅病に掛かり、屍の中動く気力も無く横たわった。
普通の子供が施設学校や将来を見据えて、青春を楽しむ年の頃の話である。
生きる事自体が地獄のようだと人は言う。しかし真の地獄とは何もする気も起きないほどに、何も出来ないという焦燥感ばかりが永遠に続く事ではないかとクロエは思う。
幸せを願おうにも、幸せを知らない。
他者を羨もうにも、手の伸ばし方が分からない。
不条理な世の中を憎もうにも、自身が不幸である事を自覚出来ない。
後どれだけの時間が自分に残されているのか、それすらも定かでは無く。確実に衰弱して行く体、死ぬと言う事を理解はしてはいなかった。でももうこれで毎日お腹の空腹を満たす為だけに塵を漁ったり、紅病に蝕まれる体に悩んだり、理不尽な暴力や暴言に怯え竦む事も無くなるんだと言う事はうっすらと理解出来た。
そんな底辺で、クロエは天使を見た。
ふらりと路地裏に立ち寄った様子の、クロエよりも年下の女の子が懸命に、クロエの見た事の無い三日月型の弦楽器を掻き鳴らしていた。
周囲の人はクロエと同じ様な、生気の無い視線を彼女に向ける。
女の子の歌は、決して上手くは無かった。歌の歌詞も理解出来なかった。何より音楽などこれまでまともに聞いた事も無かった。しかし何故かクロエは涙を流した。
それは彼女の懸命さに胸打たれたからか、それともこんな底辺の自分達に曲を手向けてくれた彼女の心にか。
クロエは、他人に気に掛けられる優しさと、思われる嬉しさと、心が満たされる幸せを知った。
女の子は一曲を歌い終わった後、保護者と思しき人に怒られながら連れて行かれた。
そして裏路地はいつもの静けさに戻る。
しかし、女の子が奏でた音楽は何時までも耳に残って消えなかった。
クロエは立ち上がった。もう、動く力も残って居なかったのに不思議と力が湧き出た。自分も、あの女の子の様に誰かの為に出来る事があるんじゃないか? そう思えて仕方なくて。何か出来る事を探したくて。自分が生き続ける事も危ういのに、拙い足取りで路地裏を出た。
そこで紅教に遭遇する。
クロエは紅教に入団する事を条件に紅病を治して貰った。入れ墨はその時につけられた同志の証だ。
そして紅教の援助を受け、魔術医に成る為の勉強を行った。誰かの助けに成りたいと必死に。元から素質があったのか、それとも治癒術の勉強に生きる意味を見出したからか、直ぐに上位魔術医にまで昇位したクロエに、再び教団は姿を現す。
さぁ、そろそろ恩義に報いる時ですよとでも言いたげに。
この世に無償など存在しない。全ての行動には目論見がある。簡単に言えば、タダより高い物は無いと言う事だ。紅教は各街に救民館という施設を構えており、クロエの様な救われない子供に治癒術を学ばせて働かせていた。そして見込みのある子供には、教団の同志としての仕事が与えられた。
断ろうにも、身体には同志の入れ墨が、心には救いの手を差し伸べられた恩義があった。
其処からの記憶は酷く断片的な物となる。
クロエは見込みがあったらしく、魔術医としての仕事よりも、紅教の同志として活動を優先された。覚えている限りでは、横領や密輸。娼婦の様な事もやらされたし、暗殺に虐殺と何でもあれだ。
やがて当初の信念を忘れクロエが壊れてしまうのに、そう時間は掛からなかった。お金に執着し、自らの価値観を金銭に委ねなければ自分が保てなくなり、今のクロエに至る。
後は、紅教の同志としての仕事を繰り返し、身も心も紅に狂うだけだったクロエの前に、奇跡が起こった。
表の顔としての魔術医同盟の仕事で、クロエは女の子と再会したのだ。
あの頃と変わりない心で、他者を慈しむマリィに壊れていたクロエの心は動かされた。
女の子もまたクロエと同じく、もっと他者の助けに成りたいと魔術医を目指していた事を知って、己が後ろめたくなった。魔術医と偽って犯罪に塗れた自分に、あの時の天使が曇りの無い笑顔を向けてくれることが耐えられなくて。結局嫌われるような言動を行い自ら離れてしまった。
しかし後悔はしていない。これ以上一緒に居ては恐らく彼女の為に成らないだろうから。
自分は道を誤ってしまったが、マリィならきっと間違えずにまっすぐ進めるはずだ。これ以上、底辺から這い上がろうともがいて、結局底辺に転がり落ちた自分にできる事は無い。もう思い残す事は無い、最後に天使と過ごした旅を宝物として胸に仕舞い込み、後は教団に使い古され、捨て駒として幕を閉じようと覚悟を決めて。今回の同志の仕事に挑んだ。
「ぶつけるんですよぉ。この魔導船を、魔法王国にぃ」
改めて仕事の内容を説明されても、クロエには理解が出来なかった。
「人々が絶望の淵で真に救いを求めた時に――」
そんな事をすれば、恐らく世間は大騒ぎになるだろう。失敗して魔導船が墜落したとしても、下には下層都市が広がっている、どれほどの被害が出るか。
もし成功したとしても、浮遊都市の瓦礫が街に降り注ぐ。何より紅病で魔法王国が滅んだのなら、結界が消え紅病は下層都市に降りかかるだろう。
「――我ら紅教が救いの手を差し伸べるのです」
それは駄目だとクロエは肌で感じた。
それをやってはいけないと、チリ付くような焦燥感が訴えかけてくる。
嫌な悪寒がクロエの背筋を走る。
「でも……そうしたら我々の命もまた」
いや嘘だとすぐさま自分の言葉を否定した。クロエは自分の命など惜しんではいない。
「大丈夫ですよぉ、今回の任務には魔術医だけで臨んでおりますので。魔法王国から逃げ出す魔法使いに乗じて、距離を置く時間はありますよぉ」
でもそれでは下層都市はただでは済まない。
下層都市には――マリィが居る。
そう思い至った瞬間、クロエの頭は白く染まった。
《ニール先生。間もなく魔法王国の結界付近です》
船内放送で、操舵室の紅衣が細目の男に報告を行う。
「おや、ではそろそろ紅石の準備を行いましょうか」
客室を歩いてきた二人は、貨物庫の前まで来ていた。扉を開けようと背中を向ける細目の男に、クロエは拳銃を構えて発砲した。
一瞬時間が止まったかのような静寂に包まれる。
「……黒猫、これは一体?」
扉に寄り掛かって、細目の男はズルっと床へ崩れ落ちた。
クロエも問い掛けられて、自分が何をしたのかを考えた。そして笑みをこぼす。
「――ハッ、全く今更ですね」
クロエは、今更ながら自分のしたかった事を思い出したのだ。
もう何人も殺して、自身の手を紅に染めながら。
たった一人の少女の危機に目が覚めた。
クロエは――。
「――私は人を救いたかった……」
本当に今更だと苦笑する。
「――私は人を殺したくなんかなかった……」
押し寄せる感情が、涙を拭う事すら忘れさせる。
「――あの子に、胸を張れる生き方がしたかった……」
全く今更だと首を振った。
クロエは踵を返して操舵室に向かう事にした。とりあえずこの作戦を成功させる訳にはいかなかったからだ。魔法王国の何万人が死のうと気にはしなかったが、マリィに危険が降りかかるのならばとても容認出来るものではない。
操舵室に向かって長い廊下を駆けようとし、背後に慣れ親しんだ気配を感じて身を捩った。それは今まで散々肌で感じた、死。しかし自分の身体を死の気配は逃さない。
大振りの、三つ刃を持つ奇形ナイフがクロエの身体を引き裂き抉った。細目の男は武器を振り切った格好で、こちらに笑みとも威嚇とも取れない表情を向けていた。
「流石は黒猫ですねぇ……良い動きですよぉ、でも私からは逃れられません」
「そうか、貴方も魔術医でしたか」
そう言えば、今回の仕事は魔術医だけで臨んでいるとさっき言っていたのを思い出す。撃たれた男の傷は急速に治癒され、クロエの傷もまた急速に治癒されていく。二人の手には入れ墨の様な光る文字が広がる。
「何故このような事をしたのかは今は問わないでおいてあげましょう、ですのでぇ早く拳銃を納めてくださいぃ。今はこんな事をしている場合ではないのですよぉ」
「かもしれない。でも、私には必要な事なのです。だから付き合って貰いましょうか!」
クロエは細目の男に向かって、銃口を向ける。男は素早く大きく踏み込んで切る突く抉るに適した三つ刃のナイフで拳銃を持つクロエの腕を狙う。衝撃を受け流すようにクロエは全身で回転し、一回転後に再び拳銃を男に向けて引き金を引いた。
数発の銃声が響く廊下で、男は壁を走り天井を蹴りことごとく銃弾を避けた。
距離が開いたのを見て、クロエは素早く拳銃に弾を込める。切り裂かれた腕の傷が瞬時に治癒される。
魔術医同士の戦いは、必然的に消耗戦に成る。自身の怪我を瞬時に回復する自動治癒は、無尽蔵に怪我が治ると言うものではない。即死の場合はそのまま死に至る。体力の消耗も激しく、既に二回の発動でクロエの身体は鉛のようにずっしりと疲労が蓄積されつつあった。そして、血が流れたり身体を抉られたりすると、身体の材料が不足してしまう。除紅薬等で材料を補わなければやはり死に至る。
「早く降参して貰わないとぉ、切り刻んでしまいますよぉ!」
男が一瞬にして開いた距離を詰め、ナイフを閃かせる。クロエは拳銃の銃身で受け止める。しかしいつの間にか男のもう片方の手に儀礼用の装飾の施された短剣が握られ、クロエの身体を深く貫いた。体を貫く衝撃によろめきながら、クロエは男の身体に数発銃弾を撃ち込む。
「くぅ……効きますねぇ。しかし貴女の回復力はもう残って居ないのではないですか?」
銃に撃たれた衝撃で男は後ろへと下がり、クロエの身体から短剣が抜かれる。
「さて、どうでしょうか」
ゴフっとクロエの口から血が溢れるが、直ぐに怪我は治癒される。しかし男の言う通りそろそろ回復材料、体力共には厳しくなってきていた。対する男は未だ余裕の笑みを浮かべる。
クロエは男に背を向ける様にして、懐に手を伸ばした。もはや足取りも重く、満足に前に進まない。
「おや遂に観念しましたか!」
男はすぐさま飛び掛かる。クロエは懐に忍ばせた除紅薬を自身の胸に押し当て、覚悟を決めた。男の奇形なナイフがクロエの背中を大きく切り裂く。悲鳴を上げる事無くクロエは倒れ床を紅く染め上げる。
「いやしかしぃ、流石は黒猫です。私も結構消耗しましたよぉ、なので折角ですし貴女の残りの命を頂く事にしましょうか!」
クロエの背中の傷口に、男は容赦なく指を突っ込む。魔術医の術は他人や自身を治癒するだけでは無い。他者から強制的に回復力、材料を奪う術がある。
「禁書閲覧――死の目第2項、命の吸収」
男の言葉をきっかけに、入れ墨のような光が全身に広がる。そしてクロエの身体から、命と称せる力が男に向かって流れ始めた。自身の怪我を癒し他者を死に追いやる、魔術医としてはあるまじき行為。
その禁術の発動に、クロエは笑みを浮かべた。
「何を笑って……!? コレは……!」
男は驚きの声を上げて飛び退いた。しかし時すでに遅く、男の全身を紅色の痣が蝕む。
「……魔術医なら、命を無駄にしないよう吸いに来ると踏んでいました」
ゆっくりと起き上がるクロエの身体にも、少なからず紅病の痣が浮かんでいた。床には割れた薬品瓶と、その中にあった紅石が散らばる。
「か……隠し持った紅石で自ら紅病になったと言うのですか!?」
「ちょっと前に部下が侵されたのを治癒した際の奴ですよ……記念品ってのは悪く無い物ですね」
紅病は人の命に取りつく。魔術医が紅病を治癒出来るのは紅病のその性質を利用しているからだ。紅病患者から命を奪うと、命と共に紅病が流れ込んでくるのだ。それ故に体力の無い重度の患者に、紅病の治癒を施す事は出来ない。
「下手を打てば自ら死に至ると言うのに!」
「すみませんね、生憎自分の命などはとうに捨てていますので」
体を蝕む紅病に満足に動けなくなった細目の男に、クロエは拳銃を向けた。
「わ、私を殺しても何も変わらないですよぉ! 私など教団の神父としては下っ端です、私はぁ、教団の理念理想の推進の為にぃ!」
「それでは、お世話に成りました」
終止符を告げる様に引き金に指を掛ける。男の頭部に拳銃が穴を穿った。
倒れる男に目もくれず、クロエは操舵室へと急ぐ。
操舵室の扉を開けるなり、倒れる様に部屋へと転がり込んだ。
「黒猫様!」「一体何が起きたのですか!?」
衣服は所々切り裂かれ、血塗れの様子のクロエはしめたと内心で笑みを浮かべ言葉を切れ切れに綴った。
「さ、作戦に不備があったようです……王国の魔法使いが。ニール先生は敵の攻撃を受け、倒れました。此処は作戦を中止し郊外に……逃げろと最後に」
「な、何と!」「か、舵を切れ! 街外れに停泊するぞ!」
操舵室は突然の事態に慌ただしくなった。
「……機関室にもこの事を放送で伝えてください」
起き上がるクロエを、紅衣が引きとどめる。
「そのような状態で動いてはいけません」
「まだ魔法使いが潜んでいるかもしれません。ここは私が囮に成ります」
何とか適当な事を言ってクロエは操舵室を出た。
魔法使いの所為にした以上、拳銃で撃たれた死体があるのはまずい。クロエは一先ず死体を何処かに隠す為に廊下を戻る。
船内放送で作戦の中止が流され、船の舵は切られ大きく傾く。
よろめきながら、先ほど戦った通路に戻ると、目を背けたくなるような血溜まりの中に、男の死体は無かった。
「……え?」
瞬間、クロエの身体は風に舞う木の葉のように吹き飛ばされた。受け身も取れず長い廊下を転がる。意識を取り戻し、起き上がるのに暫しの時間を要した。
『アアア――』
クロエの眼前に、見た事も無い異形の怪物が立って居た。
長身のクロエがさらに見上げる程に、狭い通路で窮屈そうに体を曲げて、紅色の瞳を持ち、全身を硬質な外殻が覆う人型の紅黒い怪物。
「くぅっ……紅侵獣! 何故こんな所に!」
魔導船内には結界が張ってあったのではないのか? そもそも今は真紅ではないのに何故紅侵獣が? 様々な考えが頭を過り、怪物の三つ刃のナイフのような奇形な腕の爪に目が行った。怪物は何処となくスーツ姿に帽子を被っている様な格好に見えなくもない。
「……まさか、ニール先生とかですか?」
『良く気が付きましたねぇ――こんなに変わり果てたと言うのにぃ』
「こんな薄気味悪い笑みを浮かべる生き物が二人も居たら、この世の終わりですからね!」
クロエは素早く怪物に向かって拳銃を向けて発砲する。銃弾は男に達して、外殻に弾かれる。
次いで襲ってくる怪物の拳を、クロエは転がるように避けて廊下の奥へと走った。
何故細目の男が紅侵獣と化したのか。耐性のある魔術医に紅病の素を過剰に投与したからか。それとも長い時間紅石と共にいると、心が狂い果ててこうなるのかもしれない。
ともあれそんな推測はどうでも良い。とりあえずあの怪物をどうにかしなくてはいけないとクロエは考えた。
「拳銃は効きませんか――ならば」
非常扉を蹴破り、風吹き荒れる船外へと身を躍らせる。
整備用の梯子を上って魔導船の上にクロエは逃れた。一息つく間もなく、足元から刃が突き出た。クロエの立つ魔導船の天井を切り裂いて、怪物が姿を現す。
『――今、世界は淀んでいますぅ』
怪物が、紅空の中で雄雄しく叫び、クロエの正面、風上に立つ。背中から棘の様な突起物が放射線状に広がり、紅い光を放つ。
大きく振りかぶった爪がクロエに襲い掛かるのを、身を沈めてかわした。
『世界の基準を書き換える必要があるのですよぉ』
クロエは風に浮く身体を魔導船に何とか張り付けながら、拳銃で狙い撃つ。銃弾は怪物を外れ、船体を囲う装飾の構造物に当たって火花を散らす。
『噂ばかりの希望、魔法王国を滅ぼし全ての人を紅病にしなければ! 未来へとは進まない!』
「それでもこの作戦を成功させる訳にはいかない、魔導船を落とさせる訳にはいかないのですよ」
必死に風と戦いながら、千切れそうな腕を耐えてクロエは攻撃から身をかわし拳銃で狙い撃つ。またも構造物に当たった銃弾が火花を散らす。
『何故分からないのですかぁ! 人は自身に火の粉が降りかからなければ本気で払おうとしない!』
暴風の中、何度目かの発砲。構造物の接合部が火花を上げて弾け飛んだ、やがてギギギと音を立てて、破綻した一部が風圧に負けて折れ曲がり始める。
『グヌゥ!』
怪物の体格では身を沈めても当たってしまう。しかし飛び上れば吹き荒れる風に飛ばされる。魔導船はまだ雲に手が届く位置に居る、この高さから落ちて生きていられるか飛べると言うなら話は別だが。
「確かに……教団の教義には納得する部分はあります。でも、今回ばかりは頷けない理由があるのです」
怪物は構造物に突き飛ばされ、しかし辛うじて取りついて落下を免れた。迫る構造物をクロエはしゃがんでやり過ごす。
『まだ……終わりませんよぉ!』
クロエは構造物の上によじ登って風に飛ばされないように慎重に、構造物に掴まり喚く怪物へと近づいていく。
『我々紅教は、人類全てを紅病にする事で世界の正しさを取り戻そうとしていると言うのに!』
「でも、それではとある一人の女の子が悲しむ事になる。それが私には人類の未来よりも守りたい事なのです」
クロエは懐から、結局今の今まで売れなかった除紅薬を取り出して構造物に捕まる怪物の腕に振りかけた。
『紅は我ら人類の贖罪! 皆が平等に背負うべきなのです! さすれば紅の神は我等を許し――』
そして手を添えて声を発する。
「聖典閲覧――治癒の目第10項。紅吸収」
怪物の腕を構成する紅病が、撒かれた除紅薬を媒介に紅石となり空中に散った。怪物の腕に無数に罅が入り、砕ける。
『アアア――……』
「この罪深き我等を救いたまえ……」
眼下へと落ちていく怪物に、クロエは聖典の一文を手向けた。
「……まぁ聖典なんて読んだ事無いんですけどね」
魔導船は郊外に向けてゆっくりと降下し始めていた。
怪物を倒す為に折った構造物が、魔導船の運行に致命的な損傷だったらしい。下層都市郊外に魔導船は墜落の様な有様で着地した。
郊外に不時着した魔導船を一目見ようと、周囲には沢山の野次馬が集まりつつあった。その混乱に乗じて、現場指揮官である細目の男の不在に慌てる紅衣を余所に、クロエは魔導船を抜けだした。
花火と祭の音で賑わう街を、疲れ果てた体で目指す。
酷く消耗し、自分で体に残った紅色の痣を消す余力も残っていなかったが、身体は達成感で満ちて軽やかだった。
まだ何か守れた事が、嬉しくて仕方なかった。
そして、出来る事ならばまたマリィに会いたかった。その為だったら、疲れも怪我も気にはならなかった。
街まで辿り着き、賑わう大通りをクロエはマリィを探して歩いた。いっそ宿まで行ってみようか、しかし同じ宿に泊まっているとは限らない。
まぁいいかと頭を振った。見つけるまで探すだけだと心に決めて。
「大お姉ちゃんー!」
通りの奥から、額の上に紅色のリボンを揺らす少女が手を振って駆け寄ってきていた。
「……元気になったのですね」
馬車との接触事故の怪我が完治したのを見せる様に、笑顔で駆け寄ってくる少女をクロエは抱き留めた。そうだ、この少女ならばマリィの居場所を知っているのかもしれないと考えて。
続いて襲ってくる全身を蝕む痛みに、体を震わせた。
「……な……に……?」
紅いリボンの少女の手に、儀礼で使うような短剣が握られ、その切っ先は深々とクロエに突き刺さる。短剣の柄には紅い宝石が埋め込まれ、クロエの身体は傷口から紅く染まり始めていた。
そしてそのまま少女は、何事も無かったかのようにクロエの横をすり抜け雑踏へと消えようとする。辛うじて伸ばしたクロエの手が少女のリボンを掴んだ。少女のリボンが解け、額には宝石に絡みついた蛇の入れ墨が覗く。最後に少女はクロエを見つめ返して呟いた。
「――紅に狂え」
■Ending:黒猫の死/Death of her
偶然通りかかった大通りで事件があった。
多くの人々はさして興味も持たずに通り過ぎるか、足を止めて見物人に徹している。確かに人によっては別に驚くほどの事ではないのかもしれない。人が刺されて死にそうしているだけ、この無法地帯で珍しくは無い。時折親切な人が医者や魔術医を呼んできてくれる事があるが、親切な人は偶然居合わせてくれない事の方が多い世の中だ。
クロエは覚束ない足取りで、大通りの端へと移った。それだけでほとんどの人が関心を失くし、道を進む流れへと戻っていく。
体力を消耗し過ぎて、治癒術が発動しない。怪我は塞がらず、クロエは道に倒れ込んだ。
雑踏に転がる黒猫。
祭に浸る街並みに溶け消える様な、無関係な死。
鼓動の停止、呼吸の停止、活動の停止、生命の停止。
クロエは今まで死と言う単語に実感を持った事は無かった。別にいつ死んだとしても未練など無いと思っていたからだ。しかし世の中は残酷だ。死にたくない順にソレは訪れるのかもしれないとさえ思えた。
黒い体は力無く地面に横たわり、命が失われてゆく躯は物体となっていく事を象徴するかのように、生きていた頃の面影を失くしていく。まるで誰かがもう生に執着しない様にと、未練を断ち切るかのようであった。
だから多くの人は、死に行くクロエに関心など示さず、顔を背けるのだろう。
それがクロエには、凄く滑稽な様子に見えた。
思わず笑みを浮かべて、悪態をついた。
――ざまぁみろ。次はお前等がこうなるぞ。
クロエが諦めて目を閉じかけたその時、不意に伸ばした手が、何かに触れた。
少し顔を起こしてみるとそれは、黒猫の死体だった。
奇しくも同じ場所で死を迎える境遇に共感を覚えたのか、それとも別れる為の口実にと粗雑に扱った罰が当たったと感じたのか。クロエの瞳から涙が流れた。
「……悪かった、お前だって生きて居たかったでしょうにね」
もはや意識は朦朧として、気が付けば猫の躯に声を掛けていた。
「本当にこの世は救いの無い」
果たしてそうでしょうか?
と、クロエの中で誰かが囁く。
「――?」
耳を澄ませば聞こえてくる、三日月型の弦楽器の音楽。
誰かの好きな、明るい曲を、歌を添えて。
クロエが最後に聞きたかった、自分を救った歌声が、祭りの音に掻き消されながら微かに街に響いていた。
やはりだ、とクロエは確信した。この歌を聴くとクロエは不思議と力が沸き起こってくる。今ならクロエはどんな事だって出来そうな気がした。
「――そう言えば、相応の価値を見せたらと約束していましたね」
最後にこの歌を聴ける奇跡に、自分はどのような対価を払えると言うのか。クロエは苦笑して黒猫の亡骸ににじり寄った。
「まぁ、奇跡くらい起こせば妥当でしょうか」
腕に埋め込まれた聖典を開く。
消えかけた最後の命を注いで、言葉を紡ぐ。
「聖典禁書閲覧――命の目第1項。死者蘇生」
一瞬だけ全身を光らせた文字は、直ぐに消え去った。何も起きる気配は無い。
クロエは分かっていた、自分に所詮奇跡など起こせる事は出来ないと。
しかし、とある女の子は言ったのだ。命を救う行為は無駄ではないと。
ならばきっと、この無意味に見える行動にも意味はあるんだと思えて、笑顔を浮かべた。
最後に魔術医っぽい事が出来たからか、昔目指した自分に一歩でも近づける事が出来たからか。
まぁ概ね満足かなと思ってクロエは目を閉じた。
そしてその目が開く事は無かった。




