7.小鳥の末路②
馬車の車輪が、乾いた石畳の上を静かに軋ませながら進んでいく。向かう先はヴェセリー子爵家。窓の外には、どこまでも薄く曇った空が続いていた。
見送りは……誰もいない。門を出る時、ただ冷たい風だけが私の背を押していった。
あの日以来、母はベッドから起き上がれないほど体調を崩したままだ。
兄と弟は、それぞれの婚約者の家から婚約破棄を告げられ、父はその慰謝料の工面に奔走し、夜も十分に眠れていない。
兄弟には恨まれ、泣かれ……責められた。あの視線と声は、今も胸に重く残っている。
『また、余計なことに巻き込まれる』
そう言って父に止められ、ミレーナ様へ助けを求める道は閉ざされた。
『誇れるものはお金だけ』
そう言ったマリーの言葉が、いまでは妙に現実味を帯びて響く。マリーの誇れるものは「豊満な体、口達者、化粧のうまさ」……そういうことなのかしら。
『私たちの家の商会が取引を取りやめたらどうなるかしら?』
あのときのマリーの声が、やけに鮮明によみがえる。あの子も私たちも、分かっていなかった。その一言が、どれほど重いのか、どれほど簡単に、誰かの人生を壊してしまうのか。
マリーがそう煽った結果……いえ、正確には伯爵家の商会が手を引いた。それだけで破産したのは、他ならぬイリック男爵家だった。
イリック男爵家は一家で夜逃げし、置き去りにされたマリーは娼館に行くと噂で聞いた。
私は、あの子を止めることもできたはずなのに、ただ隣で笑って、同じ場所に立っていた。
『品位はお金で買えませんから』
エイミーは、静かで、揺るぎのない声音で、いつもそう言っていた。あの子は本気で、そう信じていたのだと思う。与えられる裕福な暮らしの中で、それを当たり前として受け取りながら、自分はお金に執着せず、慎ましく正しいのだと疑わなかった。
きっと、知らなかったのね。自分の家が、借金を重ねていたことを。
家族がツケで買い物をしていたのは、彼女自身のせいではない。
「……皮肉ね」
小さく、息が漏れる。
あのあと、複数の伯爵家の商会から一斉にこれまでの請求が届いたそうだ。払えるはずもなくエイミーの屋敷は売却され、一家は領地へ戻ることになった。そしてエイミーは修道院へ。エイミーの誇れるものは「清貧さ」……かしら。
静かで、閉ざされた世界の修道院。祈りと規律の中で生きる場所。あの子は、そこで初めて知るのだろう。本当の清貧さを。
『祈りましょう』
あの口癖が、蘇る。もし、この結末を知っていたなら、エイミーはあんなふうに言えただろうか。あんなふうに、セレナ様を見下すことができただろうか。
マリーもエイミーも、自分の立っている場所すら知らなかった。それでも、そこが揺るがないと信じていた。そして私も、分かっているつもりで、何も分かっていなかった。
私は……「子だくさんの家系」、若さと丈夫な体。そんなものしか取り柄がないと言われているのと、同じだわ。
どうして、急にすべてが崩れたのだろう。何を言っても、今までは大丈夫だった。多少きつい言葉でも、多少踏み込んでも、セレナ様は何も言わなかったのに。事実だから言い返せない、私たちには未来の王太子妃が付いている、そう思って……。
……急に、どうしてなの。
指先が、わずかに震える。未来の王太子妃に気に入られようと、少し振る舞いを飾っただけじゃない。ほんの少し、背伸びをしただけよ。
それが、こんなにも、罪深いことだったの……?
「どうしてなの……」
どうして、誰も教えてくれなかったの?
どこまでが許されて、どこからが踏み越えてはいけない一線なのか。何を言えば傷つけて、何を言えば許されるのか。
そんなもの教えてくれなきゃ……分かるはず、ないじゃない。教えてくれたら、教えてくれさえしたら、あんなことは、言わなかったのに。
『本当ですわね。私なら、婚約者様に嫌がられていたら、そばにいられませんわ』
あのときの自分の声が、頭に響く。柔らかく、上品にけれど確実に、相手を切り裂くように言った。
ああ……口は、禍の元。
言った言葉が、自分自身に返ってきて初めて言葉の重さを理解する。自分が婚約者に嫌われ、そばに居られなくなるなんて思いもしなかった。
「もう……遅いのね」
馬車は止まらない。私が望もうと望むまいと、同じ速さで進み続ける。窓から見上げた空は相変わらずで、晴れないままその鈍い色は、どこまでも続いていた。
◇
ーsideセレナー
「お父様、お手を煩わせてすみません」
静かな書斎では、煤けたランプの灯りが、父の手元と、机に並んだ羊皮紙の束を淡く照らしていた。
「言われた通り書いたが、あれでよかったのか」
喜色を滲ませながらも、どこか娘を案じる声音に、ふと口元が緩む。
男爵家たちにはそれぞれに、『誇れるもの』に合った提案をした。
どの提案も、彼女たちが自ら口にしていた“誇り”に寄り添わせたもの。その皮肉を包み隠すように、丁寧に理由付けをした手紙をお父様に書いてもらった。
「ええ、どの男爵家も提案に乗ってくださり満足です」
そう答えると、お父様は一瞬呆けたように黙り、それから口元を震わせて笑った。
「くくっ、そうか。お前の婚約者様は何と?」
お父様の声に僅かな愉快さが混ざっている。ヴィクター様の反応を実は楽しみにしていたのだろう。
それぞれの令嬢が新たな道へと進んだあと――
ヴィクター様は、『なんか、ざまぁっぽい展開になった!』と、少年のように目を輝かせ、私に熱心に語ってくださった。
あんなにも無邪気に喜ばれるとは思わず、思わず笑みが零れた。くすぐったくて、少しだけ誇らしくて。
……けれど。その表情は、すぐに曇った。
「……でも、私の抗議の文のせいで彼女たちの人生が狂ってしまったと思うと……なんだか、悲しくなる」
その言葉を口にしたとき、声がわずかに震えていた。結果だけを見て、割り切ることができない。自分が関わったという事実を、きちんと抱えてしまう方。
「そんなことをおっしゃらないでください。私まで悲しくなりますわ」
言葉は、淀みなく出た。
「ヴィクター様が、私の扱いが謂れなき非難であったことを、誰の目にもわかるように証明してくださったのです。汚名を雪いでくださった」
ゆっくりと、丁寧に彼の心を、余計な方向へ向けさせないように。
「彼女たちの処遇は、それぞれの家が決めたもの。報いを自分の身に受けただけ――処遇は然るべきものですわ」
彼女たちがどうなろうと、関係はない。考える必要も、心を割く価値もない。
問題なのは、ただ一つ。ヴィクター様が、不要な罪悪感を抱いてしまうこと。
「……ヴィクター様。どうか、そのようにご自身を責めないでくださいませ」
ほんのわずかに、声を和らげる。あなたが迷う必要も曇る必要もない。
「うん、そうだね。くよくよしていられない。次も私に任せて、セレナ」
その声音には迷いがなく、未来を照らすような明るさがあった。その響きを思い出すだけで、胸の内が静かに満たされる。




