6.小鳥の末路①
「と、まあ、そんなやりとりがありましたわ」
私はお茶をひと口含み、ほうっと息を吐いた。微かな香りが胸をくすぐる。父は向かいの椅子で腕を組み、話を聞くたびに眉や口元を楽しげに動かしている。
「ははは、そうかそうか。ん? なぜ不満な顔をしているのだ」
本当に、よく見ている。あら、私……そんなに顔に出ていましたの?
「ヴィクター様の『僕』呼び、『私』になってしまいまして……」
寂しさが、ひゅうっと胸を抜ける。あの柔らかくて、少し少年めいた自称。気に入っていましたのに。
父は不可思議なものを見るように私を眺め、それから大きく笑った。
「お前にふさわしくあろうとしているのではないか? よいことだ。はは、変わったヴィクター君に早く会いたいものだ。それより、私に願いとは何だ?」
「ええ、実は書状を三通ほど書いてほしいのです」
◇
ーside男爵令嬢の1人ー
執務室の空気は重く沈み、深い木の香りがいつもよりも濃く感じられた。磨き上げられた机も、整然と並ぶ書類も、どこか息苦しさを伴って視界に映る。
私はその場に立ち尽くしながら、緊張が、じわじわと指先へと広がっていくのを感じていた。スカートの端を無意識に握りしめていることに気づいても、それを緩める余裕すらない。
机の向こうに座るお父様は、普段よりもはるかに険しい表情をしていた。
「……この抗議の文の内容に、心当たりはあるのか?」
低く、抑え込まれた声。怒鳴っているわけではないのに、その静けさがかえって恐ろしい。
――やはりアルマンド公爵家から、正式な抗議が届いたのね。
覚悟はしていた。あの場であれだけはっきりと言い切られたのだから、むしろ来ないはずがない。
それでも、こうして現実として突きつけられると、足元がわずかに揺らぐような感覚に襲われる。
「そ、その……ホフマン伯爵令嬢には、謝罪を受け取ってもらいました……」
自分でも情けないと思うほど、声が上ずった。けれど、それは確かな事実だ。あの場で、確かに彼女は「受け入れる」と言った。
だから完全に取り返しのつかない事態ではないはず。そう、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「なんということだ……」
お父様は額に手を当て、深く息を吐いた。その様子は、怒りというよりも明らかに絶望に近い。
「ホフマン伯爵令嬢とは、言葉を交わす仲だと聞いていたのに……お前は、ホフマン家を敵に……ああ……」
ゆっくりと首を振るその仕草は、何かが決定的に終わったことを受け入れるようだった。
「我が男爵家は終わりだ……」
――え? 終わり? たったあれだけのことで? 謝罪もしたのに?
「お、お父様……?」
自分でも驚くほど間の抜けた声が漏れる。理解が、まったく追いつかない。どうしてそこまで話が飛ぶのか。どうして“終わり”などという言葉が出てくるのか。
「……なんだ、その顔は」
ゆっくりと顔を上げたお父様の目が、こちらを射抜く。その奥にあるのは、怒りではない。恐怖だ。
「知らないのか? あのホフマン家だぞ!」
静かに、しかしはっきりと告げられる。ぴしり、と空気が張り詰める。その言葉の重さに、背筋が冷たくなるのを感じた。
ホフマン家。
頭の中に浮かぶのは、これまで耳にしてきた噂ばかり。
成金の伯爵家。莫大な財を背景に、社交界へと食い込み、王太子殿下の婚約者候補の座すら“買った”と囁かれる家。
ミレーナ様が、軽く笑いながら語っていた話。だから私は、どこかで侮っていたのだ。お金だけの家だと。
「ホフマン家はな……確かに財を築いた家だ。だがそれだけではない」
お父様の声は低く沈み、言葉を選ぶように続く。
「王都の流通、金融、輸送……そのいずれにも深く関わっている。表に出ている商会だけでも十分すぎる規模だが、問題はそこではない。王家にも、上位貴族にも、“貸し”がある」
ゆっくりと、視線が私を捉える。ぞくり、とした。
「金を貸し、事業を支え、人脈を握る。そうして築いた関係は、爵位などよりもはるかに厄介だ……敵に回していい相手ではない」
私が思っていた“成金”なんかじゃなかったってこと? ミレーヌ様はそんなこと一言も言わなかった。
関わってはいけない側の家。それを、私は――。指先の感覚が、ゆっくりと失われていく。
ようやく、理解してしまった。自分が、どれほどの相手に、どれほど軽率な言葉を投げつけたのかを。
コンコンコン――。
重苦しい空気を切り裂くように、執務室のドアが控えめに叩かれた。
「入れ」
お父様が短く命じると、執事が姿を現す。
「旦那様、ホフマン伯爵家から文が届きました」
「やはりか……寄越せ」
お父様は、ほとんど奪い取る勢いで手紙を受け取った。封を切る手が少し震えている。読み始めて数行も経たぬうちに、その顔色がみるみる蒼くなっていくのが分かった。
「お前も読め」
投げつけるように文が私の手元へ渡される。
紙が空気を切る音が、ひどく大げさに響いた。お父様は頭を抱え込み、深く息を吐くと、力が抜けたようにソファへどさりと沈み込んだ。
私は文を手に取り、震える指先を押さえつけながら視線を落とした――。
重々しい空気が部屋を満たしていた。
『アルマンド公爵家からの文で大体把握していると思うが……まあ、その通りだ。貴殿の娘は我が娘に『金しか誇れるものがない』……そう言っていたそうだ。……ああ、それに、我が家の商会が小さなもの……だったかな。なに、その通りだからそれはかまわない』
淡々とした文。その奥には怒気でも嘲りでもない、ただ事実を述べる冷えた温度だけがあった。
『ただ、そういうことなら、貴殿の娘が誇れるものとは何だろう? ……ああ、そうだ。貴殿の家系は子だくさんだったな。よいことではないか。若さと丈夫な体』
丁寧な物言いでありながら、皮肉が刃のように滑り込んでくる。
『一つ提案がある。我が商会の取引相手に後妻を探しているものがいる。ヴェセリー子爵だ。貴殿の娘を後妻にどうかな? 前妻との間に子供ができず、跡継ぎを欲しているそうだ』
私の未来を品物のように語るその文に、ぞくりとした嫌悪が混ざった気がした。
『学院での出来事を見た貴殿の娘の婚約者がお父上と一緒に『縁を切るから、取引はやめないでくれ』……泣きながら頼み込んできた。だから、大丈夫だ。婚約者はそのうちいなくなるであろう』
胸の奥が冷たくしぼむ。嘘だ。あの優しい婚約者が――?
『セレナは謝罪を受け入れたのだから、無理にとはいわない。なに、ただの提案だ』
ただの、提案。そんな言葉で片づけられるほど、人生は軽いのだろうか。
『我が家の小さな商会に価値がないのなら取引はいらないだろうか。原材料が手に入らないと貴殿の商会、投資回収できないぞ? 繰り返して申し訳ないが『誇れるものが金』だったか。その金がなくて男爵家が終わらないとよいがな』
文面の最後が嘲笑で締められているように思えて、手が震えた。
――嘘。婚約が……破棄される?
いやよ。あんな、カエルのような顔をしたヴェセリー子爵の後妻になるなんて……。
「っ! お父様、まさか、私を後妻になど……」
声が震えていた。否定してほしかった。どれだけ怒られてもいい、断ってほしかった。
「後妻するに決まっているだろう! ホフマン家の商会は店舗が小さいだけだ。ただの下請けではない。拠点は隣国にあり、商品の原材料の確保量、横のつながり、扱っている商品、全て一流だ。つながりが無くなったら我が一族は終わりだ。……お前が次の夜会に着る予定のドレスもホフマン家の商会に注文していた。まあ、必要なくなったがな」
お父様の声は怒りよりも焦りに満ちていた。額には汗が浮かび、机を握る手は強く震えている。
そ、そんな……。
「敵に回してはいけない家だ。知らなかったでは済まされない。いや、違うな。敵に回してはいけないとかそういう問題ではない。お前は、貴族としてあり得ないことをしたのだ。お前ひとり切ることで男爵家が救われるのなら、提案に乗る。……勘違いするなよ、お前のことはさっきまで娘として愛していた」
さっきまで。
その言葉が胸の奥で何度も反響し、ゆっくりと崩れ落ちていく。
父の目をいくら見ても、もうそこに“愛する娘”に対する温度はなかった。




