5.うるさい小鳥たち
中庭の噴水が涼やかな音を立てる午後、学院の空気はどこか甘く、やわらかな春の陽射しが窓から差し込んでいた。
私はヴィクター様と共に、その静かな空気の中で、ランチを楽しんでいた。
白磁のカップに残る紅茶の香りが、まだほのかに鼻先をくすぐる。このひとときを壊したくはなかったのに。
「あら、ホフマン伯爵令嬢様じゃありませんか。アルマンド公爵令息様とご一緒なんて、珍しいこともあるものですわね」
「本当ですわね。私でしたら、婚約者様に嫌がられているのに傍にいるなんて、とても耐えられませんわ。……はしたないこと」
「お金しか誇るものがない方というのは、やはり図太くできていますのね。羨ましいくらいですわ」
来たわね、小鳥たち。
高く澄ました声を揃えて囀るのなら、せめてもう少し美しい音色で鳴けばいいものを。耳障りなだけのその声音は、この穏やかな空気にはあまりにも不釣り合いだ。
小さな溜息を、私は静かに飲み込んだ。
せっかくヴィクター様と学院で過ごす時間だったというのに、彼女たちの姿を視界に入れた瞬間、その楽しさはあまりにもあっけなく掻き消されてしまう。
けれど、それを顔に出すほど愚かではない。
私はゆっくりと背筋を伸ばし、指先でカップの縁をなぞる。冷めかけた紅茶の温度が、かえって心を落ち着かせてくれる。
彼女たちは優雅に微笑みながら、口々に言葉を重ねていく。
周囲の学生たちも、何事かと足を止め、遠巻きに様子を窺っている。ざわめきは小さいが、確実に広がっていた。
この学院において、彼女たちの“囀り”は、一種の余興のようなものだ。
誰もが気づいていながら、誰も止めようとはしない。だからこそ、彼女たちはこうして堂々と舞台に立ち続けることができるのだろう。
私はそっと視線を上げ、彼女たちを見据えた。
――さて、今日はどのような愚行を見せてくださるのかしら。
心の中で笑いながらも、決して崩れない、令嬢としての仮面をかぶる。
「まあ、せっかく話しかけていますのに無視だなんて。私たちの爵位が低いから馬鹿にしていらっしゃるのね」
「品位はお金で買えませんから、仕方ありませんわ。心の狭さに神の罰が下らないよう祈って差し上げましょう」
「お金持ちって言いますけど……いくつも持っているとはいえホフマン家が所有する商会は小さなものばかりなのでしょ? 小さな宝石をいくつも持っていても大きな宝石の価値にはかなわないわ。私たちの家の商会が取引を取りやめたらどうなるかしら?」
誇れるものが無くなるわね、と、三人で顔を寄せて笑い合う小鳥たち。
その嘲笑が、耳にいやな響きを残した。私はただ視線を逸らす。反論するのも面倒。
「いい加減にしないか!!」
鋭く放たれた声が、中庭の穏やかな空気を一瞬で切り裂いた。先ほどまで春の光に包まれていた空間が、別の場所になってしまったかのように張り詰める。
おお、普段は穏やかで、どこか柔らかな笑みを絶やさない美形のヴィクター様が――ここまで露わに怒りを示すと……これほどまでに迫力があるのね。
周囲で様子を窺っていた学生たちさえ、その一言にびくりと肩を震わせ、息を呑んだ気配が伝わってきた。
「君たちはいったい誰にそんな言葉を言っている!」
一歩、ヴィクター様が前へ出る。その動きは静かでありながら、有無を言わせぬ圧を伴っていた。
「私の婚約者だぞ? 爵位の下の者が、そのような口を利くなど……君たちも貴族だろう! その自覚はどこへ置いてきた!」
そう、この人たちも――、一応は貴族ですの。
これまで一度として真正面から咎められたことなどなかったのだから、突然向けられた威圧に、彼女たちはひゅっと小さく息を呑み、そのまま言葉を失って固まってしまった。
先ほどまであれほど滑らかに紡いでいた言葉は、喉の奥で凍りついたかのように出てこない。
頬がわずかに青ざめ、扇子を持つ手がかすかに震えているのが見えた。周囲もざわざわと騒めき始める。
『アルマンド公爵令息が怒っている』
『しかも、セレナ嬢のために』
そんな囁きが、波紋のように広がっていく。好奇と緊張、そして少しの恐れが入り混じった空気が、この場を包み込んでいた。
「それになんだ、小さいとか大きいとか。商会の規模で人の価値を測るなど、愚かにもほどがある。どの商会だって、それぞれに役割と価値があるはずだ」
ヴィクター様は一歩も引かない。むしろ言葉を重ねるごとに、その声音はより鋭く、より明確になっていく。淡々としているのに、言葉の一つひとつが重い。逃げ場を与えない、正論という刃。
「それにセレナへの態度だ。僕……いや、私は、君たちの振る舞いに強い不快感と怒りを覚えている」
一瞬、彼の声がわずかに低く沈む。
「これ以上見過ごすことはできない。君たちの言動は、あまりにも目に余る。アルマンド公爵家として、これまでの一連の件も含め、それぞれの家に正式に抗議を行う。覚悟しておくんだ」
そして、最後に告げられた言葉は、静かでありながら決定的だった。
「え? 家に……?」
「困るわ……そんな……」
小鳥たちが顔を見合わせる。
つい先ほどまで余裕を纏っていたはずの笑みは、音を立てて崩れ落ち、代わりに浮かぶのは露骨な動揺と恐れ。みるみるうちに血の気が引いていった。
今まで何もおっしゃらなかったヴィクター様が、ついに「家」にまで言及なさった。それがどれほどの意味を持つのか、彼女たちは今この瞬間、ようやく理解したのでしょうね。
学院は平等な場――そんな甘い言葉に守られていると思っていたのだろうけれど、貴族である以上、その背後にある“家”からは決して逃れられない。
軽い囀りのつもりだったのでしょうに。
「しゃ、謝罪をさせてください」
男爵令嬢の一人が、ついに耐えきれなくなったのか、か細い声で訴えた。
先ほどまでの高慢な響きはどこへやら、言葉は途切れがちで、引きつっている。視線は私とヴィクター様の間を彷徨い、どうすれば許されるのかを必死に探しているようだった。
その様子に、周囲のざわめきがさらに広がる。
「セレナ、どうする?」
先ほどまでの厳しい声音が嘘のように、ヴィクター様は柔らかな表情で私に問いかけてくださる。その落差に、思わず少しだけ可笑しくなってしまう。
私はゆっくりと息を整え、視線を彼女たちへと向ける。
怯え、縋るような目。ほんの少し前まで、私を見下していたとは思えないほど、分かりやすく弱っている。
――さて、ここで踏みつけるのは簡単だわ。けれど、それではあまりにも“浅い”。
私は静かに微笑み、唇を開いた。
「謝罪を受け入れますわ」
彼女たちの表情に、安堵が広がるのが見えた。
◇
「どうなさったのヴィクター様?」
うるさい小鳥たちがいなくなった後、ヴィクター様がいぶかしげな表情で何かを考えていらっしゃる。
「……なんだろう。思っていた『ざまぁ』と違う。これじゃあ、ただ注意して、謝られて許した……だ。セレナは優しすぎるよ、もっと怒ってよかったのに」
ぽつりと零された言葉は、先ほどの鋭さとはまるで違う、年相応の戸惑いを帯びている。
「ふふ、ヴィクター様が私の代わりに怒ってくださったのですもの。嬉しいですわ」
そう告げれば、彼は一瞬だけ目を瞬かせて、それから少し照れたように視線を逸らす。その反応があまりにも素直で、また少しだけ頬が緩みそうになるのを堪えた。
「セレナが嬉しいなら……うん、それでいいか! でも、ちゃんとそれぞれの家には抗議するよ。彼女たちもこれから態度を改めてくれるといいのだけれど」
「そうですわね」
ふふ、私に話しかける資格のない者たちが、私の前で口を開く。
度胸がある子たちだったわ。その大胆さは、残念ながら報われることはありませんけど。




