4.父&友人①
「と、まあ――そんなことがありましたの」
私はそう言って、手にしたティーカップをわずかに傾けた。琥珀色の紅茶が、光を受けて静かに揺れる。その水面に映る自分の顔は、驚くほど穏やかに見えた。
向かいのソファでは、お父様が腕を組み、じっとこちらを見ていた。鋭い視線、けれど次の瞬間、その口元がぴくりと歪む。
「それはそれは……」
そして、堪えきれないように喉が鳴った。
「くくっ……『ざまぁ』されるのは、我がホフマン家ではないのか? 清廉潔白だという証拠……あるといいな。はは!」
ついには声を上げて笑い出した。
重厚な執務室の壁に、その笑い声は何度も跳ね返る。
――…お父様、笑いすぎです。
心の中でだけ小さくため息をつきながら、私は再びカップへ指を添える。
ホフマン家。その名を聞いて、純真無垢を思い浮かべる者など、この国には一人としていないだろう。
「策略」「陰謀」「計略」「企み」――
そのどれもが、まるで家紋のように我が家に付き纏ってきた。
無論、それらが公の場で語られることはない。社交界では皆、上品な微笑みの奥に本音を押し隠すもの。けれど、扇の陰やワイングラスの向こうで囁かれる声までは、消し去ることなどできない。
ホフマン家には気をつけろ。
あの家は裏で糸を引く。
関われば最後、骨の髄まで利用される。
そんな言葉を、私は幼い頃から何度も耳にしてきた。
けれど、だからといって、それを恥じたことなど、一度もない。むしろ逆。この血こそが、私の誇りだ。
人は「清廉潔白」を美徳と謳うけれど、それだけでこの世界を渡っていけるほど、貴族社会は甘くない。善良であるだけの者は、いずれ誰かの踏み台となる。
私はゆっくりと顔を上げた。まだ笑いの余韻を残すお父様と視線が交わる。
「そこは、抜かりありませんわ。婚約者様が集めた証拠とやらで何をしてくださるのか、楽しみです」
ふふ、と小さく笑うと、お父様の眉がわずかに動いた。
「嬉しそうだな」
お父様の声音は、からかうようでもあり、探るようでもあった。
「そのように見えます? 実はね、お父様。ヴィクター様が、『僕のセレナ』っておっしゃったのよ。ふふ」
言葉にするだけで、自然と頬が緩む。
「何? あのヴィクター君がか?」
さすがに意外だったのだろう。お父様は珍しく目を丸くした。その反応に、私はこくりと頷く。
いつもどこか他人事のようで、感情の温度を感じさせなかったあの人が、はっきりと、“私のものだ”と示した。
婚約とはいえ、結婚すればせいぜい家名の利益を互いに利用するだけ、そう割り切っていたはずなのに。
『僕のセレナ』
その一言が、思いのほか心地よくて。悪い気はしないわ。
「そうなのですよ。ただ、今のヴィクター様、純粋すぎて……貴族としては少し危ういですわね」
言葉を選びつつ告げると、お父様は顎に手を当て渋い声を漏らした。
「……それは困ったな。手を打つか?」
「いいえ、まだいいのです。私、何を考えているかわからないヴィクター様に、興味はないですが、今の純粋で邪心がなく、私を信じている分かりやすいヴィクター様には興味があります。魅力的ですわね。貴族としてのマナーや礼儀正しさは、前より良くなっていますし」
ヴィクター様は、卒業学年となる来年は、私と同じクラスになりたいから、必死で勉学に励むと誓ってくれた。
「ほう、気に入ったようだな……計画変更か?」
「なにをおっしゃるの? 計画通りに決まっておりますわ」
するとお父様は、呆れたように息をつきながらも、どこか楽しげに肩を揺らした。「それでこそだ」とでも言いたげに。
ヴィクター様がおっしゃっていた“悪意”。あれを放置していたのには、もちろん理由がある。
急いで潰すほどのものではなかったし、むしろ泳がせておいた方が、より大きなものを引きずり出せる。小さな毒は、時に良い餌になるのだから。
――けれど。まあ、いいわ。
ヴィクター様が、あれほど一生懸命になってくださるのだもの。
時期は早いが、それで計画に支障が出るはずもない。むしろ、ほんの少しだけ彩りが増すくらいだ。
「ははは、そうか。お前の好きにしなさい」
軽やかに告げられたその言葉は、放任ではない。信頼だと分かっている。
「ええ、もちろん」
――楽しくなってきたわ。
そう思った瞬間、視界に映るすべてが、ほんの少しだけ鮮やかに色づいた気がした。
◇
「何やら面白いことになっているそうね」
レティシアがそう言って、音もなく椅子へ腰を下ろした。その所作は相変わらず無駄がなく、一連の動きすべてが洗練されている。
今日は久しぶりに彼女とお茶を楽しむ日。
細やかな模様のティーカップ。小ぶりで愛らしい瓶に詰められたジャム。まだほんのりと温かさを残したスコーン。
整えられたそれら一つ一つが、この空間を“特別な午後”へと仕立て上げている。
「まあ、耳が早いですわね、レティシア。昨日まで隣国にいた人とは思えないわ」
私が軽く肩を竦めると、レティシアはくすりと上品に笑った。
「あの彫刻のように表情を変えないあなたの婚約者様がね。人生ってわからないものだわ」
レティシアは淡々とそう言った。
「ふふ、今のヴィクター様、純真無垢という言葉がぴったり。私の周りにいなかったタイプで興味深いわ。表情も豊かで、決してそれは貴族らしいとは言えないけれど、見ていて楽しいし、癒されるわ」
言いながら、自然と頬が緩む。今頃きっと証拠を集めているはずだ。私のために。そう考えると、気分が高揚する。
「あら、セレナ、気付いていて? その言い方、あの王太子がミレーナを褒める時とよく似ているわ」
…………。
「ふふ、嫌だわ。そんな怖い顔をしないで、冗談よ」
「……全く違いますわ。ヴィクター様は、常識がありますもの」
――レティシア、あなた。少し失礼ですわ。
「まあまあ、とにかく『ざまぁ』だったかしら? あなたの婚約者様は、誰からやるつもりなのかしらね」
話題を変えるように、レティシアがカップを揺らしながら言う。
「――ああ、きっと、ミレーナの周りでさえずっている小鳥たちじゃないかしら?」
私はカップを静かに置きながら答えた。レティシアの目が、わずかに細められる。
次期王太子妃のミレーナの権力を後ろ盾にして威張り散らす男爵令嬢たち。
ミレーナに同調し、その言動を真似て私を見下す。自分たちの立場を正しく理解していない者たち。
けれど、同じく婚約者候補だったレティシアには近づかない。
理由は簡単。ミレーナ自身が距離を取っているから。ミレーナは、侯爵令嬢であるレティシアには手を出さず、同じ伯爵令嬢である私にだけ、ああいう態度を取る。
そして、その取り巻きたちも同じように振る舞う。誰かの鳴き声に合わせてさえずる小鳥たちのように。
誰かが声を上げれば、それに重ねるように同じ声を出す。
自分で判断することはない。誰に強く出るのか、誰に従うのかも、すべて周囲に合わせて決めている。
判断基準は、自分ではなく他人。
馬鹿馬鹿しいわ。でも、あえて無礼な態度を咎めず、泳がせてきた。小さな無礼を積み重ねさせることで、いずれ言い逃れのできない“罪”にするために。
「セレナの前に立ちはだかるなんて。本当に覚悟をもってやっていたのかしら。……愚かだわ」
「覚悟があったとは思えませんわね。ただ、流されていただけでしょう。けれど、それでも選んだのは自分ですもの。責任は取っていただかないと」
静かに言い切ると、レティシアが満足そうに頷いた。




